第5話 半分なら、買います?
翌朝、テレーゼは宿の机で帳面を睨んでいた。
昨日の売上、昨日の仕入れ、売れ残ったネギ。そこへ宿代と食事代を書き足して、もう一度計算する。
出てきたのは、昨夜と同じ答えだった。
一晩寝ている間に、数字が変わるはずもない。
「減ってますね?」
机の隅には、昨日あれほど嬉しかった硬貨が載っている。
人生で初めての売上。記念すべき一枚。
「売ったら、お金が減りました」
おかしい。商売とは、そういうものではないはずだ。
とはいえ、原因は分かっている。
最後に値段を下げすぎた。
あの子どもは、とにかく強かった。
「次は負けません」
誰もいない部屋で、テレーゼは宣言した。
「売るだけでは駄目なんです。ちゃんと利益を出さないと!」
また一つ賢くなった。
今日こそは、と拳を握る。
◇
「嬢ちゃん」
「はい!」
「それ、どうすんの」
市場に着くなり、隣の乾物売りの女に指を差された。
その先にあるのは、昨日のネギだった。
「売ります!」
「今日も?」
「はい!」
「元気だねえ」
「今日は赤字にしません!」
「昨日、赤字だったのかい」
テレーゼの口が、ぴたりと止まった。
言わなければよかった。
女の口元が、ひくひくと震えている。
「笑ってます?」
「笑ってないよ」
「昨日もそれ言いました!」
「気のせいだよ」
「もう!」
頬をふくらませたまま、敷物を広げる。
ネギ、香水、櫛、小物、それから石鹸。
最後に手に取った石鹸を、そのまましばらく見つめる。
昨夜も、宿で自分で使った品だった。
旅に出るずっと前から知っていて、質の良さは分かっている。香りも悪くないし、香水ほど値も張らない。
毎日とまではいかなくても、誰もが使うもの。
「これなら……」
香水よりは、ずっと必要とされるはずだ。
ネギと違って、すぐ向こうで同じものが売られているわけでもない。
「今日の主力は、あなたです」
テレーゼは石鹸を、一番前に据えた。
◇
「石鹸いかがですか!」
最初の客は、ちらりとも見ずに通り過ぎた。
「良い石鹸ですよ!」
2人目も、足を緩めずに行ってしまう。
昨日の、ネギの山が目に浮かんだ。
「まだ朝です」
自分に言い聞かせたところで、3人目の女が足を止めた。
石鹸を手に取って、重さを確かめるように掌で転がす。
「これ、いくら?」
値段を告げると、女は小さく唸った。
「うーん」
石鹸が、敷物の上に戻される。
「今日はいいや」
「あっ」
女が踵を返しかける。
昨日までのテレーゼなら、きっとここで畳みかけていた。
とても質がいいんです。
香りもいいんです。
長く使えます。
だからこの値段でも――。
テレーゼは、ぐっと口を閉じた。
それじゃない。
よくわからないけど。
たぶん、違う。
女が1歩、離れる。
「あの!」
「ん?」
女が振り返った。
テレーゼは一瞬迷ってから、尋ねた。
「どうして、やめたんですか?」
女は目を瞬いた。
「どうしてって」
「高いですか?」
「まあね」
「石鹸はいらない?」
「いや、そろそろ欲しいんだけど」
「では、どうして?」
「だから高いんだよ」
テレーゼは石鹸に目を落とした。
値段を下げるか。いや、昨日はそれで赤字になった。
今日は利益を出すと決めている。
「もっと安い石鹸なら買います?」
「そうだねえ」
「これは、少し高いけど、質がいいんです」
「だろうね」
「長く使えます」
「そうだろうね」
「なら――」
危ない。また説明を始めるところだった。
言葉を呑みこんだテレーゼを、女が不思議そうに眺めている。
「どのくらいなら、欲しいです?」
「どのくらい?」
「はい。値段です」
「ああ」
女は少し考えてから、今の半分ほどの値段を口にした。
「半分……」
それでは売れない。仕入れ値を割って、また赤字になる。
テレーゼは石鹸を見て、女を見て、また石鹸を見た。
「……半分」
「無理ならいいよ」
「待ってください」
値段を半分にしたら、赤字。
でも、それなら。
テレーゼは、石鹸を手に取った。
「……大きさも半分なら、買います?」
「え?」
「石鹸を半分にします」
女は、石鹸とテレーゼの顔を見比べた。
「半分?」
「はい」
「半分にして売っていいの?」
「……たぶん」
「たぶん?」
「私の商品なので、いいんです!」
たぶん。
テレーゼは鞄の中をごそごそとかき回し、石鹸を切れそうな道具を探しはじめた。
「刃物ならあります!」
取り出したのは、鞘に収まった、まだ真新しいナイフだった。
すらり、と抜く。手のひらより長い、厚みのある刃。
隣の乾物売りの女が、じっとそれを見る。
客も見る。
「……それで?」
「半分にします」
「やめときな」
「なんでです?」
乾物売りの女は、自分の荷物から小ぶりな折りたたみナイフを1本取り出した。
「これ使いな。自分の指まで切って売るんじゃないよ」
「売りませんよ!」
「危なっかしいから言ってんだよ」
「大丈夫です!」
「貸してやるよ」
ぽん、と折りたたみナイフが寄越される。
「ありがとうございます!」
「真っ直ぐ切りなよ」
「はい!」
石鹸に刃を当てて、ぐっと体重をかける。
硬い。
「ふんっ」
刃は、わずかに沈んだだけで止まった。
テレーゼの腕とナイフが、そろって小刻みに震える。
「ふんんっ!」
「怖い怖い怖い怖い」
「大丈夫です!」
「全然大丈夫に見えないよ……」
ごり、ごり、と刃を動かしているうちに、ようやく石鹸が2つに割れた。
「できました!」
「斜めだね」
「半分です!」
「6対4くらいじゃない?」
「半分です!」
テレーゼは大きいほうと小さいほうを見比べてから、大きいほうを客へ差し出した。
「こちらでどうです?」
「そっちくれるの?」
「はい!」
「値段は?」
頭の中で数字を並べる。仕入れ値、元の売値、その半分。
そこに、ほんの少しだけ利益を乗せる。昨日とは違う。
「これで!」
女は少し考えた。
「……それなら買うよ」
テレーゼの動きが止まった。
「買います?」
「買うよ」
「本当に?」
「売りたいんじゃないのかい」
「売りたいです!」
硬貨を受け取り、石鹸を渡す。
「ありがとうございます!」
「あいよ」
女は石鹸を籠に入れて、人混みの中へ歩いていった。
手のひらの硬貨を見下ろすと、胸の奥からまた声がせり上がってくる。
「売れ――」
「叫ぶんじゃないよ」
「まだ何も言ってません!」
「顔で分かる」
「うう……!」
それでも、嬉しいものは嬉しい。しかも、昨日とは違う。
テレーゼはすぐに帳面を取り出した。
「仕入れがこれで……売上がこれで……半分残っていますから……」
計算する。
念のため、もう一度。間違いはない。
テレーゼは、ぱっと顔を上げた。
「増えてます!」
「そりゃよかったね」
「お金、増えてます!」
「商売なんだからね」
「昨日は減ったんです!」
「知ってるよ」
「今日は増えました!」
「よかったねえ」
テレーゼは、硬貨を握りしめた。
「これが……利益……!」
「大げさだねえ」
大げさなどではない。
昨日は、売れただけだった。
今日はほんの少しだけれど、ちゃんと、商売になった。
◇
それからテレーゼは、手元に残った小さいほうの石鹸を眺めた。
これも、売れるのでは。
昼前になって、別の客が石鹸の前で足を止めた。
「一個はいらないんだけどねえ」
テレーゼは、石鹸へ伸ばしかけた手を止めた。
「どのくらいなら欲しいです?」
「少し試せればいいんだけど」
「試す?」
「肌に合うか分からないからさ」
「なるほど」
手元の石鹸を見る。半分でも、試すには大きい。
「……もっと小さくします?」
「できるの?」
「できます!」
すかさず隣から声が飛んだ。
「今度はちゃんと切りなよ!」
「分かってます!」
◇
午後になるころには、テレーゼの前に大きさの違う石鹸が並んでいた。
丸ごと一個のもの。半分のもの。それより、さらに小さく切ったもの。
それぞれの前に、値段を書いた札を置く。
香水や櫛にも、値札を添えた。
「なんか店らしくなったね」
隣の女が言った。
「最初から店です!」
「昨日はネギを右から左に並べて置いただけだったろ」
「うっ」
また客が来る。
「これ、小さいのはいくら?」
「こちらです!」
「じゃあ一つ」
「ありがとうございます!」
売れた。
続いて来た客も、似たようなことを言った。
「試してみたいんだけど」
「でしたら、こちらはどうです?」
これも売れた。
もちろん、全員が買っていくわけではない。
「いらない」と言って去る人もいれば、「高い」と首を振る人も、「香りが好みじゃない」と鼻をしかめる人もいた。
それでも、昨日とは何かが違った。
テレーゼはもう、去っていく客の背中ばかりを目で追ってはいなかった。
立ち止まった人を見る。その人が何を手に取ったかを見る。
迷っているようなら、声をかける。
「何が気になります?」
「どのくらいなら欲しいです?」
「試してみます?」
喋る量は、昨日までよりずっと少ない。
それなのに、敷物の上の石鹸は、昨日のネギよりずっと速く減っていった。
◇
夕方、テレーゼは帳面を開いた。
売上、仕入れ、残った商品。一つずつ、慎重に数字を拾っていく。
計算を終えると、最初からもう一度やり直した。
間違っていない。
「黒字です」
小さな黒字だった。本当に小さい。
宿代や食事代まで含めて考えれば、とても胸を張れる額ではない。
それでも。
「黒字……!」
昨日は売上があって、赤字だった。
今日は売上があって、ほんの少しだけ手元に残った。
「ふふ」
テレーゼは帳面を閉じた。
「ふふふ」
「気持ち悪いよ」
「聞こえてますよ!」
隣の女が笑い、テレーゼもつられて笑った。
周りの店が、ぽつぽつと片づけを始めている。テレーゼも、商品を鞄へ戻していった。
香水は、まだある。1本も欠けずに、全部。
しばらく瓶を見つめてみたが、昨日ほど憎らしくはなかった。
石鹸だって、昨日までは売れなかった。
今日、石鹸そのものを良くしたわけではない。値段を無理に下げたわけでもない。
「買いやすくした……?」
小さく呟いてみる。
同じものでも、売り方を変えれば、欲しいと言ってくれる人がいる。
テレーゼは首を傾げたまま、鞄の口をぱちんと閉じた。
◇
その夜、マリーがテレーゼの前へ、深い器を置いた。
二晩続いた豆のスープではない。肉入りのシチューだった。
湯気の向こうで、茶色い煮汁がとろりと光っている。
テレーゼは、帳面の端に書いた数字をもう一度見た。
この一皿まで入れても、少しだけ残る。
「今日は豪勢ですね」
器から手を離しながら、マリーが言った。
テレーゼは胸を張った。
「今日はね」
匙ですくうと、柔らかく煮えた肉がごろりと転がった。
「ちゃんと儲かったんです!」
「どれくらい?」
「…………少しです!」
マリーが笑った。
「でも、増えたんですよ!」
「それはおめでとう」
「はい!」
テレーゼはシチューを口へ運んだ。
今日の利益は、肉の味がした。




