第4話 売れたああああ!
翌朝、テレーゼは鐘が鳴るより先に目を覚ました。昨日よりも、さらに早い。
「ふふふ」
含み笑いをこぼしながら、身支度に取りかかる。
「分かってしまいましたからね」
昨日の売上はゼロ。
一個も売れない、見事なまでの惨敗だった。
けれど、失敗には原因がある。原因が分かれば、次は直せばいい。
「香水が悪いわけではありません」
鞄の中の瓶に、そっと言い聞かせる。
「あなたを欲しい人も、きっとどこかには、います」
ただ、昨日の市場にはいなかった。あるいは、少なかった。
あそこで売れていたのは、もっと普通のものだ。毎日使うもの、毎日食べるもの。
「つまり――」
テレーゼは人差し指をぴんと立てた。
「今日は、みんなが欲しいものを売ります!」
完璧だった。
◇
市場に着いても、テレーゼはすぐには店を出さなかった。
昨日の自分とは違う。まずは、見る。
入口のあたりは、もう人でごった返していた。
今日もパンが売れ、魚が売れ、野菜も売れていく。
売れていなかったのは、昨日の香水だけだ。
「なるほど」
やはり、予想は正しかった。
そのまま人の流れに沿って、市場の端まで歩いてみた。
外へ出て二本目の通りを右へ曲がると、鍋、釘、小刀、その脇に刃の長い鋏を並べた金物屋があった。
ひと回りして市場へ戻ると、テレーゼは少し離れた場所に立ち、野菜売りの店先をじっと観察しはじめた。
「2つおくれ」
「あいよ」
売れた。
「今日は何がいい?」
「こっちだね。朝入ったばかりだよ」
「じゃあそれ」
これも売れた。
「ネギある?」
「あるよ」
「じゃあ、3本」
「あいよ」
また売れた。
テレーゼは、思わず身を乗り出した。
「ネギ……!」
次の客も、ネギを買っていった。しばらくして来た客も、やっぱりネギを抱えて帰っていく。
「これは……」
間違いない。
「よし!」
テレーゼは、勢いよく歩き出した。
◇
「ネギをください!」
「何本?」
「たくさんです!」
「たくさんじゃ分からんよ」
「あっ」
初めての仕入れだった。どれだけ売れるのか、見当もつかない。
「では……とりあえず10束!」
「ずいぶん買うね」
「売るんです!」
「売る?」
「はい!」
野菜売りの男は、テレーゼの顔をまじまじと見た。
それから、自分の店先に並んだネギに目を落とす。
「これを?」
「はい!」
「ここで?」
「はい!」
「……まあ、金払ってくれるならいいけど」
こうして、仕入れは済んだ。
昨日と同じ場所に敷物を広げ、ネギを並べていく。
緑と白。
香水の瓶より、地味だ。――かなり、地味だ。
それでも、テレーゼは満足げに頷いた。
「売れる商品というのは、こういうものなんですね」
隣では、昨日の乾物売りの女が店を出していた。
女はこちらを見て、ネギを見て、テレーゼを見て、もう一度ネギを見た。
「嬢ちゃん」
「おはようございます!」
「それ、どうしたの」
「仕入れてきました!」
「どこで?」
「あちらです!」
テレーゼが元気よく指を差すと、女はその先に目をやった。
「……ああ」
「今日はこれを売ります!」
「そう」
「昨日、ちゃんと反省したんです!」
「そうかい」
「はい!」
「まあ」
女は少し考えてから、言った。
「頑張んな」
「はい!」
昨日と同じ言葉だった。
今日こそ、期待に応えなくては。
テレーゼは胸を張った。
「いらっしゃいませ!」
◇
最初にやって来たのは女の客だった。
その目が、並んだネギの上で止まる。
来た。
頭の中では、売り文句が渦巻いている。
いい匂いですよ!
緑色ですよ!
ここから下は……なんと……白いんですよ!
(あたりまえじゃないですか)
香水なら、いくらでも説明できる。
しかし、これは、ネギ。
思いつきで仕入れたばかりで、客に説明できる売りもわからない。
テレーゼは、ぐっと唇を結んだ。
女がネギを眺める。
テレーゼも、黙ってネギを眺める。
女の指が、1束を持ち上げた。
荷物へ伸ばしかけた手を、テレーゼは膝の上に戻す。
まだだ。まだ喋らない。
「これ、いくら?」
「はい! こちらです!」
仕入れ値に利益を乗せた値段を告げると、女は小さく鼻を鳴らした。
「ふうん」
ネギが、元の場所へ戻される。
「じゃあいいや」
「えっ」
女は、そのまま行ってしまった。
テレーゼは追わなかった。
昨日とは違う。みんなが欲しがるネギだ。
なのに。
「……なぜ?」
◇
2人目の客は、ネギに気づくと足を止めた。
「ネギかい」
「はい!」
「どこの?」
「すぐ向こうで仕入れました!」
「向こう?」
「はい! あちらです!」
テレーゼが指を差すと、客もつられてそちらを見た。
「ああ、あそこの店のか」
「はい!」
「じゃあ、あっちで買ってくるよ」
「…………はい?」
客は本当に、そのまま向こうの店へ歩いていってしまった。
指を差した手を上げたまま、テレーゼは固まった。
隣で、ぶふっと吹き出す音がした。
「今、笑いました?」
「笑ってないよ」
「絶対笑いました!」
「気のせいだよ」
「うう……」
◇
「ネギあります!」
「家にあるよ」
3人目は、それで終わった。
「ネギいかがですか!」
「さっき買った」
4人目も終わった。
「新鮮ですよ!」
「知ってる。あそこの店のだろ?」
「……はい」
「いつもそこで買ってるから」
5人目も。
「ネギ――」
「いらない」
6人目に至っては、最後まで言わせてもらえなかった。
昼になっても、ネギの山は少しも低くならない。
テレーゼは、パンをかじった。
昨日と同じ昼食。昨日と同じ場所。
違うのは、目の前にあるのが香水ではなくネギだという点くらいだ。
「おかしい」
ネギを見て、周りを見る。
売れている。間違いなく売れている。
向こうの店では、朝から何束もネギが出ていった。
「どうして私のネギは売れないんです?」
隣の女が、昼飯を口に運びながら言った。
「買う理由がないからじゃない?」
テレーゼは勢いよく振り向いた。
「ありますよ!」
「何だい?」
「ネギが欲しいからです!」
「ネギが欲しいなら、いつもの店で買えばいいだろ」
言葉に詰まって、向こうの店に目をやる。
朝、自分がネギを仕入れた店だ。
「でも、私もネギを売っています」
「そうだね」
「同じネギです」
「そうだね」
「だったら私から買っても」
「なんで?」
テレーゼは口を開き、閉じ、もう一度開いた。
「……私が売っているから?」
「客には関係ないねえ」
「うっ」
「同じネギだけど、こっちは高いし」
正論だった。
女はパンをひと口かじってから続けた。
「向こうはいつもここで野菜を売ってる。客も知ってる。朝、何が入ったかも教えてくれる。悪いものを売ったら次から買ってもらえない」
「はい」
「嬢ちゃんは?」
「昨日、初めてここに来ました!」
「だろ?」
テレーゼは、手元のネギを見下ろした。
緑の葉先が、少しだけ、しおれはじめている。
「商売って……」
「ん?」
「難しくありません?」
「今さらかい」
◇
午後、テレーゼは考えつく限りのことを試した。
値段を少し下げてみた。
声を張りあげてみた。
反対に、黙ってみた。
ネギを1束ずつ、綺麗に並べ直してもみた。
どれも売れなかった。
やがて、影が長く伸びはじめる。
昨日の夕方の、嫌な記憶がよみがえった。
売上、ゼロ。
「2日連続は嫌です……」
小さく呟いた、そのときだった。
「ねえ」
「はい!」
声が、裏返った。
いつの間にか、子どもが一人立っていた。10歳くらいだろうか。
背負っている柳編みの大きな籠から、ルバーブや白大根がのぞいている。
宿屋か食堂で奉公しているのだろう。
じっとテレーゼのネギを見ている。
「これ、いくら?」
来た。
テレーゼが値段を告げると、子どもは即座に言った。
「高い」
「高くありません!」
「向こうのほうが安いよ」
「うっ」
知っている。午後になって、向こうの店が値段を少し下げていた。
「じゃあ、いい」
「待って!」
子どもが振り返る。
テレーゼは、慌てて指を折った。
「……これなら?」
少し下げてみる。子どもは首を振った。
「まだ高い」
「では、これ!」
「高い」
「これ!」
「5束買うから。もうちょい」
「これ以上は……!」
「じゃあいらない」
「待ってください!」
必死だった。
子ども相手に。
旅商人テレーゼ、人生初の値段交渉。
「これ!」
「うーん」
「これでどうです!」
「それなら、もう1束つけて」
「ええっ!?」
「じゃあいい」
「待って!」
子どもが、強い。
テレーゼはネギを見て、子どもを見て、空を見上げた。
西の空が、もう赤く染まりかけている。
2日連続、売上ゼロ。その文字が頭の中でちらついた。
「…………分かりました!」
「ほんと?」
「ただし、これで最後ですからね!」
「うん」
「次は、この値段では売りませんよ!」
「うん」
「今日だけ特別です!」
「うん」
「本当に――」
そこで、テレーゼははっと口をつぐんだ。
危ない。
客に説教して、どうする。
黙って、ネギ6束を子どもが背負う籠に入れてやる。
子どもが巾着の小銭入れから硬貨を取り出した。
受け取る。
手のひらに、小さな硬貨が1枚。
「じゃあね」
「……はい」
子どもはネギを背負って歩いていく。
1歩、2歩、3歩。
テレーゼは動かない。
小さな背中が角を曲がって見えなくなっても、まだ動けなかった。
手のひらの硬貨に目を落とす。
右から眺め、左から眺め、ひっくり返してみる。
本物だ。今日まで何度も目にしてきた、なんでもない硬貨。
でも、これは違う。
相手が欲しいと言って、二人で値段を決めて、自分の商品を渡して、そうして受け取った、初めての――。
「……売れた」
隣の女が、ちらりとこちらを見た。
テレーゼは硬貨をぎゅっと握りしめた。
「売れた」
「よかったね」
「売れました!」
「聞こえてるよ」
「売れたああああああああ!」
「うるさいよ!」
何人かが振り返った。
テレーゼは、気にも留めなかった。
「売れました! 売れましたよ!」
「分かったって!」
「私が! 自分で!」
「分かったから!」
「お金をもらいました!」
「商売なんだから当たり前だろ!」
「初めてなんです!」
「ああもう!」
両手で包んだ硬貨を見つめる。
喉の奥から、くつくつと笑いが漏れて、止まらない。
昨日は、一個も売れなかった。
今日だって、朝からずっと売れなかった。
それでも、一個。
たった一個が、売れた。
「売れた……!」
頬が痛くなるほど、テレーゼは笑っていた。
◇
その夜、テレーゼは宿の机にその硬貨を置いた。
「ふふ」
眺める。
「……ふふふ」
まだ、嬉しい。
今日の売上であり、人生で初めての売上。記念すべき硬貨だ。
「使うの、もったいないですね」
商人としてそれはどうなのか、と自分でも思う。
テレーゼは帳面を開いた。
「さて」
昨日は、書くことが何もなかった。
けれど今日は違う。売上がある。
仕入れ値、売値、残ったネギ、今日使ったお金。
ペンを走らせて、数字を書きこんでいく。
書き終えて、もう一度計算した。
首を傾げて、計算し直す。
硬貨を見て、帳面を見て、また硬貨を見る。
「おかしいですね」
もう一度。
結果は変わらない。
指で数字をなぞっていく。
仕入れ、売上、差し引き。
今日は確かに売れた。売れたはずなのに。
「お金、減ってません?」
答える者のいない部屋で、ランプの芯がじじっと小さく鳴った。
テレーゼは帳面を見つめたまま、しばらく動かなかった。
「なんでえ!?」
2日連続だった。




