第3話 なんでえ!?
翌朝、テレーゼは鐘の音で目を覚ました。
ぼんやり開いた目に映ったのは、見覚えのない天井の木目だった。
染みの形も、梁の太さも、自分の部屋とは違う。
ここはどこだろうと、一瞬、本気で考えた。
もう一度、鐘が鳴る。
「あ」
テレーゼは、跳ね起きた。
「旅!」
そうだった。昨日は郡都から自分の足で歩いて、この町までやって来た。
そして、今日から――
「商売です!」
毛布を、勢いよく蹴飛ばした。
◇
市場は、もう動きはじめていた。
「わあ……!」
野菜に果物、干した魚。
籠に布に陶器、それに見たことのない香辛料。
声を張りあげて客を呼ぶ者がいれば、黙々と商品を並べる者もいる。
値段を尋ねる客の隣では、別の客が値切りにかかっている。
荷車が次々と入ってきては、籠が積まれていく。
あちこちで、硬貨がちゃりんと鳴る。
匂いも、昨日歩いた通りとはまるで違った。
焼いた食べ物。発酵調味料。香草。
それに大勢の人の熱気が、ひとかたまりになって押し寄せてくる。
テレーゼは右を見て、左を見て、後ろを振り返った。
「おい、嬢ちゃん」
「はい!」
「そこ、邪魔。端へ寄れ」
「あっ、すみません!」
すぐ脇を、荷車の車輪がごろごろと通り過ぎていく。
慌てて端へ飛びのいて、胸を押さえて息をつく。
市場というのは、眺めているだけでも忙しい場所らしい。
それでも、足の先がうずうずして、じっとしていられない。
「ふふ」
旅行鞄を、抱え直した。
今日から、自分もこの中で商売をする。
昨日のうちに宿で聞いておいた場所へ向かい、空いている一角を借りた。
敷物を広げ、商品を並べていく。
石鹸、櫛、細々とした小物。
そして一番目立つところに、――香水。
瓶は、光がよく当たる位置を選んで置いた。
「よし」
一歩下がって、全体を眺める。
「完璧です!」
隣から、くすりと笑う声がした。
振り向くと、乾燥豆やドライフルーツを並べていた女が、こちらを見ている。
「何です?」
「いや。頑張んな」
「はい!」
応援された。幸先がいい。
テレーゼは背筋を伸ばし、大きく息を吸いこんだ。
「いらっしゃいませ!」
旅商人テレーゼ、商売開始。
◇
最初の客は、すぐにやって来た。
中年の女だった。店の前で足を止め、香水に目をとめて、瓶を一つ手に取る。
来た。
テレーゼの手が、すぐに荷物へ伸びた。
「そちらはですね!」
「え?」
「南方で作られている香水です! 香りがとても上品で、こちらの瓶も職人が一つ一つ――」
「ああ、そう」
「それにですね!」
女は、瓶を元の場所へ戻した。
「じゃあね」
「はい! ……はい?」
その背中は、もう人混みの中へ消えていた。
テレーゼは、目を瞬いた。
まあ、1人目だ。そういうこともある。
2人目は、若い女だった。
「綺麗な瓶」
「ですよね!」
ぱっと、笑顔になる。
「こちらの瓶は特別に作られていて、窓辺などに飾っていただいても綺麗ですし、中の香水も――」
「いくら?」
「こちらです!」
「高いなあ」
「ですが、とても質の良い香水なんです! 香りが長く続きますし、それに――」
「いや、今日はいいや」
「でも――」
若い女は、軽く手を振って行ってしまった。
3人目は、男だった。
「贈り物ですか?」
「いや、見てるだけ」
「贈り物でしたら、とてもおすすめですよ!」
「だから見てるだけだって」
「香りだけでも試してみませんか?」
「いらん」
男もまた、振り返りもせずに去っていく。
おかしい。
テレーゼは、並んだ香水を見下ろした。
良い香水だ。それは間違いない。
仕入れた店でも人気の品だと言っていたし、瓶も綺麗で、香りもいい。
だとすれば、足りないのは。
「説明が足りないのでしょうか」
そうに違いない。
◇
4人目から9人目まで、テレーゼは力いっぱい語りかけた。
「こちらの香水はですね!」
「香りの持続時間も長くてですね!」
「瓶も職人がですね!」
「それにですね!」
「それにですね!」
「それにですね!」
気づけば、日は高く昇っていた。
売れた数は、まだ一つもない。
敷物の端に腰を下ろしてパンをかじっていると、隣の乾物売りが、ちらりとこちらを見た。
「嬢ちゃん」
「はい?」
「水、飲みな」
「水ならあります!」
「そうじゃなくてさぁ」
「?」
「……まあいいや」
何だったのだろう。
首を傾げながら水筒に口をつける。
水は思っていた以上に、喉へ染みた。
朝から、喋りどおしだった。
昼を過ぎても、客は来た。だから、テレーゼも頑張った。
「こちらは――」
「いらないよ」
「まだ何も言ってません!」
「香水だろ?」
「はい!」
「いらない」
「でもですね!」
「いらないって」
「とても良いものなんですよ!」
「分かった分かった」
ひらひらと手を振って、その客も行ってしまった。
どうして。
良いものなのに。
◇
午後になって、一人の女性が足を止めた。
仕立ての良い外套に、手入れの行き届いた手袋。身なりの良い人だった。
女性は香水を手に取ると蓋を開け、ほんの少しだけ、香りを確かめた。
「あら」
テレーゼは、息を止めた。
「これ、いい香りね」
来た。
今度こそ、来た。
「そうなんです!」
身を乗り出す。
「こちらは香りが強すぎないのが特徴でして! 時間が経つと少しずつ香りが変わって、それに瓶も――」
「へえ」
「贈り物にもおすすめですし、もちろんご自分で使っていただいても――」
「そう」
「それにですね!」
女性の手が、そっと瓶を置いた。
「ありがとう」
「はい!」
女性は、歩き出した。
3歩、4歩と遠ざかっていく背中を見送って、テレーゼはようやく気がついた。
「……あれ?」
買っていない。
「お客様!」
女性は、振り返らない。
「お客様――!」
呼び声は、すぐ脇を通る荷車の音に紛れた。
外套の背中も、人混みの向こうへ消えていった。
テレーゼは、手元の香水を見つめた。
今のは、かなり惜しかったのではないだろうか。
いい香り、と言ってくれた。
手にも取った。
あれはきっと、値段だって、聞こうとしていた。
それなのに――
首を、傾げる。
「なぜ?」
いくら考えても、分からなかった。
◇
夕方になると、市場の空気が変わった。
あちこちで、店じまいが始まる。
売れ残った商品が束ねられ、空いた籠が積み上げられていく。
硬貨を数える音が、そこかしこの店から聞こえてくる。
客足は、目に見えて減ってきた。
テレーゼの前には、朝と同じ数の商品が並んでいた。
香水を数える。
1本、2本、3本。
全部ある。
石鹸もある。櫛もある。小物もある。
念のため、もう一度数え直してみる。
増えも減りもしなかった。当たり前である。
隣では、乾物売りが片づけをしていた。
朝には山になっていた商品の袋が、ずいぶん低くなっている。
向こうのパン売りも、籠屋も、魚屋も、みんな何かしら売れていた。
テレーゼは香水を1本持ち上げ、傾きかけた日に透かした。
昨日と同じように、綺麗だった。
蓋を開けて、香りを確かめる。
昨日と同じように、良い香りがした。
「良いものなのに」
呟きが、ぽろりとこぼれた。
「ちゃんと説明したのに」
むしろ、かなり説明した。
朝からずっと。何人に話しかけたか、もう分からないほどに。
それでも、売上はゼロだった。
テレーゼは、両手をぺたりと敷物についた。
「なんでえ……」
隣の乾物売りが、振り向く。
「ん?」
テレーゼは、がばっと顔を上げた。
「なんで売れないんですかあああああ!?」
「知らないよ!」
片づけをしていた周りの商人たちが、叫び声がするほうを一斉に見た。
◇
日が暮れると、宿の食堂は夕食をとる客で賑わいはじめた。
「親父! 肉、もう1枚!」
「今、焼いてる」
厨房から、宿の主人のぶっきらぼうな声が返ってくる。
じゅうう、と肉の焼ける音が続いた。
テレーゼの首が、勝手に音のするほうへ回った。
財布を開く。
肉料理を頼めないわけではない。けれど、今日の売上はゼロだった。
そっと、財布を閉じた。
「豆のスープをお願いします」
しばらくして、マリーが湯気の立つ器を運んできた。
「はい」
「……ありがとうございます」
隣の卓には、分厚い肉の皿が運ばれていく。
隣の肉を見る。
自分の豆を見る。
もう一度、肉を見る。
「……ふふっ」
笑ったのは、まだ卓のそばにいたマリーだった。
「何ですよう……」
「ずっと見てるから」
「見てません!」
「見てたわよ」
マリーは、向かいの空いた椅子の背に手を置いた。
「売れなかった?」
「う、売れ……ませんでした」
「どれくらい?」
「…………一個も…………」
マリーが、また笑った。
「笑わないでくださいよう!」
「ごめんなさい」
謝りながらも、まだ肩が揺れている。
「明日は売ります」
「じゃあ、明日は肉?」
「肉、1枚です!」
マリーが声を上げて笑い、テレーゼも少し遅れて笑った。
豆のスープは、まだ温かかった。
◇
旅商人デビューの、その夜。
テレーゼは宿のベッドに寝転がって、天井を見上げていた。
今朝と同じ、木目の天井だ。
「一個も売れませんでした……」
天井は、何も言わない。
ごろりと、寝返りを打つ。
「一個くらい売れてもよくありません?」
壁も、何も言わない。
反対側へ、もう一度ごろり。
「良いものなんですよ」
そっちの壁からも、やはり返事はなかった。
テレーゼはむくりと起き上がり、床の鞄に目をやった。
中には、今日一つも売れなかった商品が、そのまま詰まっている。
何が悪かったのだろう。
商品か。値段か。場所か。それとも、説明か。
「説明はちゃんとしました」
そこには、自信がある。だから違う。
たぶん。
では。
「……香水だから?」
今日の市場を、思い返す。
他の店で売れていたのは、乾物、パン、魚、それに日用品。
どれも、みんなが普段から使うものばかりだった。
それに比べると、香水は値が張る。なくても、誰も困らない。
「なるほど」
ぽん、と膝を打つ。
「高くて、必要じゃないものだから、売れなかったんですね!」
見つけた。
原因は、これだ。たぶん。
「だったら――」
明日は、みんなが必要としているものを売ればいい。
「なんだ。分かってしまえば簡単じゃないですか!」
立ち直りは、早かった。
なお、その答えは半分くらいしか合っていなかった。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
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あと、テレーゼが元気になります!
今後は基本的に毎日1話ずつの投稿となります。
これからテレーゼを、よろしくお願いいたします。




