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第2話 行ってきます!

「多いねえ」


 床に置かれた旅行鞄を見下ろして、マルタが言った。

 ぎゅうぎゅう詰めで、蓋がはじけそうに膨らんでいる。


「多くありません」

「多いよ」

「必要なものしか入っていません!」

「じゃあ持ってごらん」


 マルタは肘までまくった腕を組んで、顎で鞄を示した。


「はい!」


 テレーゼは持ち手をつかみ、ふんっ、と気合いを入れて引き上げた。

 みりり、と革が鳴る。

 鞄は、ちゃんと床を離れた。


「…………」

「…………」

「ほら!」

「歩いてごらん」

「はい!」


 1歩、2歩、3歩。

 足を出すたびに、鞄の角が膝へごつんと当たる。

 4歩目は――足が、出なかった。


「マルタ」

「なんだい」

「ちょっと重いです」

「だから言っただろ」


 朝の《ひなぎく亭》に、どっと笑い声が上がった。

 鞄を下ろすと、床板がどすん、と鳴る。


「何が入ってるんだい、いったい」

「着替えと、毛布と、食料と、本と、洗面道具と、それから商品です」

「本?」

「はい」

「旅に?」

「はい」

「何冊?」


 テレーゼは鞄を開いて、数えた。


「10冊です」

「1冊にしな」

「そんな!」

「売り物ならともかくだよ」

「うう……」


 鞄を見て、本を見て、また鞄を見る。


「……2冊」

「1冊」

「1冊半」

「どうやって半分にするんだい」


 近くの卓から、また笑いが起きた。


 《ひなぎく亭》の朝は、騒がしい。

 客の話し声に、皿の触れ合う音が重なる。

 奥の厨房からは、焼きたてのパンと、肉の脂の香ばしい匂い。

 その匂いを載せた皿が1枚、テレーゼの鼻先をすうっと横切っていった。


「ああ~」

「駄目だよ」

「まだ何も言ってません!」

「食べたいって顔してたよ」

「朝食は食べてきました」

「ならいいだろ」

「でも今の、おいしそうでした」

「旅立つ人間が、2度目の朝飯を食べるんじゃないよ」


 呆れ顔のマルタの向こうから、皿を両手に持った男が出てきた。


「オットー!」

「ん」

「行ってきます!」

「おう」


 それだけ言うと、オットーは客の卓へ皿を運んでいってしまった。

 テレーゼは、その場で待った。

 皿を置き終えた背中が、やがてこちらへ戻ってくる。


「……それだけです?」

「何がだ」

「私、今日から旅に出るんですよ?」

「知ってる」

「もう少し、こう、何かないんですか」


 オットーは、少し考えた。


「拾ったものを食べるな」

「もっとこう!」

「腹を壊すぞ」

「そうじゃなくて!」

「ためになるだろ」

「ためになるねえ」


 マルタが笑い、テレーゼは頬をふくらませた。

 すると卓の下から、女の子の小さな頭がひょこりと出てきた。


「テレーゼ」

「はい?」

「おみやげ」

「まだ出発してませんよ?」

「帰ってきたとき」

「何がいいです?」

「甘いの」


 その隣から、もう一つ、男の子の頭が生えた。


「ぼくも!」

「あなたは?」

「すごいの!」

「すごいの」

「見たことないやつ!」

「分かりました!」


 テレーゼは、どんと胸を張った。


「この旅商人テレーゼにお任せください!」

「お菓子!」

「すごいやつ!」

「はい!」


 すかさず、マルタが釘を刺した。


「商売物まで配るんじゃないよ」

「配りませんよ!」

「どうだか」

「ちゃんと売ってきます!」


 言い返しながら、テレーゼは店の中をぐるりと見回した。


「……エルザは?」

「もう家に戻ったよ。昨日挨拶しただろ」

「しましたけど」

「フランツも昨日しただろ」

「しました」

「じゃあ、いいじゃないか」

「そうですね」


 マルタ、オットー、子どもたち。

 昨日のうちに会えた人と、今朝会えた人。

 一人ずつ思い浮かべながら、指を折っていく。


「よし」

「全員かい?」

「はい。あとはヨハンだけです」

「なら、いるだろ」

「ですよね」


 それだけで、話が通じた。

 テレーゼはもう一度、ふんっ、と鞄を持ち上げた。


「本当にそれで行くのかい」

「大丈夫です!」

「さっき重いって言っただろ」

「慣れれば軽くなります!」

「軽くはならないよ」

「行ってきます!」

「はいはい。行っといで。無理するんじゃないよ」


 厨房の入口の低い梁をくぐるようにして、オットーがひょろ長い体を折り曲げ、顔だけを突き出した。


「食い物」

「拾いません!」

「腹」

「壊しません!」

「よし」


 テレーゼは笑って、扉を開けた。

 朝の光が、足もとの石畳に白く差しこんでいる。

 表へ出て、後ろ手に扉を閉める。

 そして、隣の工房へ行った。


          ◇


 扉を開ける前から、その音は聞こえていた。


 カチ、カチ、カチ。


 大きな時計の重たい響きに、小さな時計のささやくような刻みが重なる。

 速いのも、遅いのも。

 いくつもの拍子が、互いにずれながら鳴り続けている。

 テレーゼは、扉を押し開けた。


「ヨハン」

「ん」


 返事は、奥の作業台から来た。

 背を丸めた若い男が一人、こちらを見もせずに手を動かしている。

 銀縁眼鏡の片側に小さな拡大鏡を取りつけ、細い指先を休みなく動かしていた。


 テレーゼは、気にせず中へ入った。

 壁にも棚にも時計がかかり、並ぶ。

 その隙間を部品や工具、歯車の入った小箱が埋めている。

 作業台の上では、小さな時計が一つ、中身をすっかりさらけ出していた。


 旅行鞄を床に下ろして、ふう、と息をつく。

 それから、作業台を挟んだ向かい側の椅子を引いた。

 ヨハンの手元には届かない位置。幼い頃から、そこがテレーゼの指定席だ。

 ちょこんと腰かけても、ヨハンはまだ顔を上げない。


「出るんじゃなかったのか」

「出ますよ」

「じゃあ、こんなところで何してんだ」

「挨拶です!」

「さっき向こうでしてただろ」

「ヨハンにはしてません!」

「そう」

「そうです!」


 ヨハンは小さな部品を指先でつまみ上げる。

 窓の光に透かしてから、元の場所へ戻した。

 テレーゼは、頬杖をついてその手つきを眺めた。

 細長い指。

 ダークブロンドの癖っ毛。

 静かな瞳。


 1分が過ぎ、2分が過ぎる。

 どちらも口を開かない。

 工房には、時計の音だけが満ちていた。

 3分が経った。

 とうとうテレーゼのほうが音を上げた。


「ヨハン」

「ん」

「私、今日、旅に出るんですよ」

「知ってる」

「もう少し、何かありません?」

「何が」

「幼馴染の女の子が、たった一人で初めて旅商人として旅立つんですよ?」


 ヨハンの手が止まり、ようやく顔が上がった。


「知ってる」

「もっとこう……『テレーゼ、どうか無事で』とか!」

「似合わないだろ」

「キイイ!」


 それきり、ヨハンはまた手元へ目を戻してしまう。


「もう」


 頬をふくらませる。

 けれど、椅子から腰を上げはしない。

 いつもの音が、いつものように部屋を満たしていた。


「全部売って帰ってきますからね!」

「無理だろ」

「なぜですか!」

「初めてだろ」

「初めてでも売れます!」

「そう」

「香水なんて、とってもいいものなんですよ。香りも上品ですし、瓶も綺麗で、それに――」

「テレーゼ」

「はい?」

「それ」


 ヨハンが、すっと指を差した。


「何です?」

「鞄」


 テレーゼは、床の旅行鞄を見下ろした。


「鞄がどうしました?」

「貸せ」

「はい?」

「いいから」


 ふんっ、と持ち上げて、作業台の脇まで運ぶ。

 受け取ったヨハンの腕が、一瞬、がくんと沈んだ。


「……重(おも)」

「マルタにも言われました」

「減らせ」

「必要なものしか入ってません!」

「本は?」

「…………」

「何冊」

「1冊です」

「ならいい」

「1冊に減らした判断を褒めてください!」


 ヨハンは答えずに、鞄の側面に指を這わせた。

 金具を撫で、蝶番を指先で動かしてみる。


「緩んでる」

「えっ。どこが?」

「ここ」


 顔を近づけて、ヨハンの指先をじっと見る。


「……分かりません」

「だろうな」


 ヨハンは引き出しを開け、工具を一つ、もう一つと取り出した。

 小さな金具を押さえて締める。

 ちょいちょいと軽く叩いては、また動かして、具合を確かめる。

 その手元を、テレーゼは身を乗り出して覗きこんだ。


「新品なのに……壊れてたんです?」

「まだ壊れてない」

「よかった」

「このまま使ってたら壊れた」

「よくない!」

「だから直してる」

「いつ気づいたんです?」

「来たとき」

「私、全然分かりませんでした」

「だろうな」

「だろうな。だろうな。今日2回目です、それ!」


 ヨハンの口の端が、ほんの少しだけ、動いた。


「はい」


 差し出された鞄を受け取る。

 テレーゼは直ったばかりの蝶番に顔を寄せて、指先でつついてみた。


「直ったんです?」

「どうだ?」

「分かりません」

「だろうな」

「3回目ぇ!」


 今度は、ヨハンが少し笑った。

 テレーゼは、鞄を持ち上げた。


「ありがとうございます」

「ん」


 肩へ掛けると、ずしりと重みが食いこんだ。

 口が、一文字に結ばれる。


「重いだろ」

「重くありません!」

「顔」

「何です?」

「重い、って顔してる」

「これは……旅立つ決意の顔です!」

「そうか」

「そうです!」


 扉へ向かい、取っ手に手をかけたところで、振り返る。


「じゃあ、今度こそ行きます」

「ん」

「全部売って帰ってきます!」


 ヨハンは手元に目を落としたまま、言った。


「……全部売れなくても、帰ってこいよ」

「?」


 テレーゼは、目を瞬いた。


「もちろん帰ってきますよ?」

「ならいい」

「変なヨハン」

「お前に言われたくない」

「なんですって?」

「出発するんだろ」

「あっ」


 そうだった。本当に、もう出発しなくてはいけない。

 扉を開けると、朝の風がすっと吹きこんできた。


「ヨハン」

「ん」


 いつものように、テレーゼは声を張った。


「行ってきます!」


 ヨハンは作業台の向こうで、一度だけ顔を上げた。


「行ってらっしゃい」


 扉が閉まる。


 カチ、カチ、カチ。


          ◇


「重い」


 町を出て半刻もしないうちに、テレーゼは認めた。


「これは重いですね!」


 返事をする者は、いない。

 街道の右手には、畑。

 左手にも、畑。

 前には道がまっすぐ延びている。

 後ろでは郡都の屋根並みが、だんだん小さくなっていく。

 一度だけ振り返って、しばらくその屋根を眺めた。


 まだ帰らない。

 当たり前だ、出てきたばかりなのだから。


 前を向いて、また歩き出す。

 しばらく行くと、畑の脇で、籠を抱えた女が一人、こちらを見ていた。

 足元には、口を縛った大きな袋が2つ置かれている。


「こんにちは!」

「こんにちは。見ない顔だね」

「初めて来ました!」

「おや」

「今日から旅商人なんです!」

「今日から?」

「はい!」


 女が、声を立てて笑った。


「そりゃ新米だ」

「どうして新米だって分かったんです?」

「自分で言ったじゃないか」

「あっ」


 テレーゼも、つられて笑った。


「どこまで行くんだい」


 行き先を告げると、女は道の先を顎で示した。


「じゃあ、あっちの町へ行くんだ」

「はい」

「市場にも行く?」

「もちろんです!」

「ならさ」


 女は籠を抱え直して、少し考えた。


「針があったら、買ってきてくれないかね」

「針?」

「そう。縫物に使う針」

「分かりました!」


 考えるより先に、口のほうが動いていた。


「買ってきます!」

「おや、返事が早いね」

「旅商人ですから!」

「今日からだろ?」

「今日からでも旅商人です!」


 女は、また笑った。


「じゃあ頼んだよ」

「はい!」


 テレーゼは胸を張って、歩き出した。

 10歩、20歩と進んだところで、ふと足が止まる。

 くるりと、振り返った。


「どんな針ですかー?」

「丈夫なのー!」

「分かりましたー!」


 再び歩き出しながら、満足げに頷く。


 丈夫な針。覚えた。


          ◇


 日が傾きかけたころ、街道の先に町が見えた。


「着いたあ……!」


 大きな町ではない。

 けれど、テレーゼが一度も来たことのない町だ。

 それだけで、足の痛みが少し引いた気がした。


 門をくぐる。

 知らない通りに、知らない店が軒を連ね、知らない顔が行き交っている。

 嗅いだことのない香辛料の匂い。

 すぐ横を通り過ぎる荷車。

 駆けていく子ども。

 遠くで、鐘が鳴った。


 テレーゼは右を見て、左を見て、また右を見た。


 疲れていた。

 足は痛いし、鞄は朝より重くなった気さえする。

 それなのに、頬が、勝手に持ち上がってくる。


「すごい」


 通りの宿に部屋を取ると、帳場にいた娘が鍵を差し出した。


「マリーです。食事は下の食堂で。何かあれば呼んでください」


 鍵を受け取りながら、テレーゼも名乗り返した。


「ありがとうございます。テレーゼです!」

「宿帳で見ました」


 マリーが、少し笑った。


 部屋へ上がって、ようやく鞄を床に下ろす。

 肩を回す。


「軽(かる)ぅい!」


 当たり前だった。


 少し休んでから、荷物を広げた。

 香水、石鹸、櫛、細々とした小物。


 明日、これを売る。

 自分の手で。

 侯爵令嬢の肩書きで買ってもらうことはできない。父と、そう約束した。


 香水の瓶を一つ持ち上げ、窓から差しこむ西日に透かしてみる。

 琥珀色の光が、指の上でとろりと揺れた。


「これは売れますね」


 自信はあった。

 良い香水だ。香りは上品だし、瓶も綺麗だ。

 きちんと説明すれば、きっと良さを分かってもらえる。


「よし!」


 瓶を、そっと元の場所に戻す。

 その「きちんと説明すれば」が、明日どうなるか。

 瓶は黙ったまま、西日の中で光っていた。


「旅商人テレーゼ」


 誰もいない部屋で、小さく名乗ってみる。

 昨日より、ほんの少しだけ本物らしく聞こえた。


「明日から、商売開始です!」

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― 新着の感想 ―
出発の時もなんだか賑やかですね〜(*^^*)♪笑 本は減らしておいてよかったww そうそう、持った瞬間軽くてもまぁまぁしんどいから、持った瞬間重かったらもっとしんどいよ〜ww 縫い物に使う丈夫な針…
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