第1話 君、死ぬほど向いていないよ
「テレーゼ」
「はい」
「君、死ぬほど向いていないよ」
王弟フェルディナント親王は、ひどく言いにくそうな顔で切り出した。
テレーゼは、鳶色の瞳を2度、瞬かせた。
膝の上で組んでいた指を、そっと握り直す。
「……やっぱり、そう思います?」
「思う」
「そこは少しくらい迷ってくださいませ」
「半年迷った結果だよ」
「それなら仕方ありませんね」
あっさりと頷く。
今度は、親王のほうが眉を下げた。
「……怒らないのかい?」
「何にです?」
「婚約を解消したい、と言われているんだけど」
「分かっています」
「泣いたりは」
「しません」
「僕を罵ったり」
「いたしません」
「花瓶を投げたり」
「投げません!」
「よかった」
「殿下は私を何だと思っているんですか!」
王弟が、顎に手をやる。
わりと、真剣に考えている。
「城壁を越えて逃げそうな人」
「越えませんよ!」
「本当に?」
「ちゃんと門から出ます!」
「……出るんだ」
テレーゼは口を閉じた。
王弟も黙った。
窓の外で、小鳥がひと声だけ、間の抜けた声で鳴いた。
「…………」
「…………」
「ほら」
「何がですか!」
婚約者同士の会話としては、たぶん褒められたものではない。
けれど二人にとっては、これがいつもの調子だ。
テレーゼは王弟フェルディナントを嫌ってはいない。
むしろ、良い人だと思っている。
王族の責任を軽んじない。
人の話に、きちんと耳を傾ける。
必要とあらば、厳しいことも口にできる。
だから、良い妻になろうと努力はした。
舞踏会では、決められた相手と踊った。
茶会では、余計なことを言わないよう口を慎んだ。
晩餐会に面白そうな異国の商人が招かれていても、席を立って話しかけに行ったりはしなかった。
――3回ほどしか。
「3回は行ったよね」
「……今、同じことを考えていました?」
「顔に出てた」
駄目だった。
テレーゼは背筋を伸ばして座り直した。
「でも、努力はしたんですよ」
「知ってる」
「王族の妻として恥ずかしくないように、ちゃんと」
「知ってるよ」
返ってきた声が、柔らかい。
テレーゼは、少し困ってしまった。
(努力が足りない、と叱ってくだされば、まだ楽でしたのに)
それなら、悔やむことができる。
次こそは、と拳を握ることもできる。
けれど親王は、そういうことを言わない人だった。
「君は、できないんじゃない」
静かな声。
「できるんだよ。たぶん、これからもずっと」
「……はい」
「でも、そのたびに死にそうな顔をしてる」
「私、そんな顔してました?」
「してた」
「うう……」
「僕の妻になれば、もっと増えるよ。儀式も、宴会も、訪問も、付き合いも。君が嫌いなものばかりだ」
「全部が嫌いなわけではありません」
王弟が、少し遠い目をした。
「分かってる。面白い人がいる宴会は好きだろ」
「はい!」
「珍しい料理が出ると好き」
「はい!」
「外国の使節が来るともっと好き」
「はい!」
「でも、決められた席で黙って座っているのは嫌い」
「…………はい」
「だから向いてない」
ぐうの音も出ない。
テレーゼはしばらく黙りこんで、それから細く息を吐いた。
「……殿下」
「うん?」
王弟は心の中で身構えた。
「ありがとうございます」
目を丸くした。
この言葉は予想の中になかった。
「婚約を解消してくださって」
「……それ、振られた側の台詞として、正しいのかな?」
「分かりません。でも」
テレーゼは、窓の外へ目をやった。
刈りこまれた木々。
そのあいだを真っ直ぐに延びる、小道。
美しい庭だと思う。
お世辞ではなく、ちゃんと、そう思える。
けれど――その先にそびえる城壁の、さらに向こうの世界を思い浮かべると。
肺が、ひとまわり大きくなった気がした。
「なんだか」
「うん」
「息がしやすくなりました」
王弟フェルディナントは小さく笑った。
「やっぱり解消して正解だったよ」
「そこで安心されると複雑なんですが!」
こうして、侯爵令嬢テレーゼ=フォン=アイヒェンベルクの婚約は、拍子抜けするほど穏便に解消された。
問題は、その帰り道にあった。
◇
馬車の窓の外を、見慣れた街並みが流れていく。
商店の軒先。
焼きたての匂いをこぼすパン屋。
仕立屋の飾り窓。
行き交う荷車。
声を張りあげて客を呼ぶ露天商の脇を、旅装の男が通り過ぎた。
背中に、大きな荷。
遠くの町から来たのだろうか。
荷駄には、見たことのない印が焼きつけてある。
頬杖をついてそれを眺めながら、テレーゼは考えた。
自由になった。
それはいい。ものすごくいい。
「……それで私、何をするんでしょう」
呟きは車輪の音にまぎれて、御者台までは届かなかったらしい。
結婚はしない。
少なくとも、今すぐには。
家にいてもいい。
父の仕事を手伝うこともできる。
社交界にも今までどおり顔を出せる。
いっそ刺繍でも習ってみようか――。
「……嫌ですね」
即決だった。
では、何がしたいのか。
答えの尻尾は見当たらない。
がくん。
馬車が止まった。
前を、大きな荷車が横切っていく。
幌をかけた荷台に、積み上がった木箱。
御者台で手綱を握る、日に焼けた男。
その脇に、見たことのない色の布が、丸めて積んである。
テレーゼは窓に張りついた。
「あれ、どこから来たんでしょう」
「南の街道じゃないですかねえ」
御者がのんびりと答える。
「南!」
「たぶんですが」
南には、まだ一度も行ったことがない。
「何を運んでるんでしょう?」
「さあ」
「どこへ売るんでしょう?」
「さあ」
「帰りは何を買って帰るんでしょう?」
「お嬢様」
「はい?」
「私に聞かれても分かりません」
「そうですよね!」
荷車はゆっくりと角を曲がっていく。
テレーゼは身をよじって、幌の色が見えなくなるまで目で追った。
知らない町へ行く。
知らないものを見る。
そこで売って、別の何かを買って、また次の町へ。
――ぴょん。
胸の中で、何かが跳ねた。
「あ」
見つかった。
思わず腰を浮かせる。
車体が、ぐらりと揺れた。
「危ないですよ、お嬢様!」
「すみません!」
おとなしく座り直した。
だけど、頭の中ではもう走り出していた。
◇
侯爵が書類に目を落としていると、執務室の扉が勢いよく開いた。
「お父様!」
「ノックをしろ」
「私、旅商人になります!」
書類をめくりかけていた手が、止まった。
侯爵は、ゆっくりと顔を上げる。
娘が立っている。
「……もう一度言ってくれ」
「旅商人になります!」
「……そうか」
侯爵は、書類に視線を戻した。
「馬鹿を言うな」
「殿下と婚約を解消いたしました」
「聞いている」
「早いですね?」
「王宮からの使いが、お前より先に来た」
「…………それは、順番が悪いです」
「と、言うより、前から殿下から相談を受けていた」
侯爵は、ペンを置いた。
「それで、婚約が解消になった娘が、次に何を言い出すかと思えば」
「旅商人になります」
「何になりたいと?」
「旅商人になります!」
「聞き間違いではなかったか」
「はい!」
父は、テレーゼをまっすぐ見た。
「出て行け」
「まだ何も説明してません!」
「説明を聞けば許可すると思うのか」
「思いません!」
「では出て行け」
「だから説得するんです!」
「出て行け」
初日は、そうして追い返された。
2日目は、扉を開けたとたんに「出て行け」が飛んできた。
「まだ入っただけです!」
めげない。
机の上に、地図を広げる。
「まずは郡都から3日の範囲を――」
「駄目だ」
「早ぁい!」
3日目は、商品を両腕に抱えて乗りこんだ。
「こちらの香水をご覧ください!」
「いらん」
「お父様に売るんじゃありません!」
香水。
上等な石鹸。
櫛。
細々とした小物。
旅先で売れそうなものを、テレーゼなりに考えて選んできた品々だ。
侯爵は、手を伸ばしもしない。
淡々と尋ねる。
「品質は?」
「間違いありません!」
「仕入れ値は」
「こちらです!」
「宿代はどうする」
「…………」
「食費は」
「…………」
「帰りの旅費」
「…………」
「出て行け」
「明日また来ます!」
「来るな」
4日目。
娘の顔を見た瞬間、侯爵は額を押さえた。
「今日は何だ」
「完成版です!」
「何の」
「旅商人計画書!」
ばさり。
紙束が、机に置かれる。
地図。日程。予算。
宿代、食費、予備費。
仕入れの予定から、帰還予定日まで。
思いつく限りのことを、書きこんである。
侯爵は黙って読みはじめた。
テレーゼも、黙って待つ。
1枚目。
2枚目。
3枚目に入っても、終わる気配がない。
長い。
ものすごく、長い。
とうとう、テレーゼのほうが耐えきれなくなった。
「……どうでしょう」
「まだ読んでいる」
「はい」
ふたたび、沈黙が支配する。
「……お父様」
「まだだ」
「はい」
さらなる沈黙。
時計の針の音が、やけに大きい。
「…………お父様」
「うるさい」
やがて、最後の1枚が机に伏せられた。
「半年だ」
「はい?」
「半年」
テレーゼは目を瞬いた。
「それは」
「半年だけやってみろと言っている」
ひと呼吸。
ふた呼吸。
言葉の意味が、ようやく頭に届く。
「お父様!」
「抱きつくな!」
机を回りこもうとしたテレーゼを、侯爵は片手で押しとどめた。
「ただし条件がある」
「はい! 全部守ります!」
「まだ一つも言っていない」
「守ります!」
「聞け!」
「はい!」
侯爵は苦い顔のまま、指を折って条件を並べていった。
侯爵家の名を使って商売をしないこと。
身分を盾にしないこと。
借金をしないこと。
商売に使える資金には、上限を設けること。
大きな町に着いたら、必ず手紙を出すこと。
危険だと判断したら、引き返すこと。
「それから、帰ってくること」
一つずつ頷いていたテレーゼは、最後の条件のところで首をかしげた。
「帰ってくること、ですか?」
「そうだ」
「当たり前じゃありませんか」
「お前の場合、その当たり前が信用できん」
「失礼な!」
「珍しい祭りがあると聞いたら?」
「見ます!」
「珍しい料理があると聞いたら?」
「食べます!」
「珍しい品を扱う商人が隣町にいると聞いたら?」
「会いに行きます!」
「だから信用できんのだ」
否定できなかった。
侯爵は、深い、深いため息をついた。
「半年だけだぞ」
「はい」
「嫌になったら帰ってこい」
「はい」
「失敗しても帰ってこい」
「はい」
「全部売れなくても――」
「売ります!」
「……話を最後まで聞け」
テレーゼは笑った。
「大丈夫です」
何が大丈夫なのか。
言った本人にも、よく分かっていない。
商売をしたことはない。
一人で旅をしたこともない。
宿を自分で取ったことすら、ない。
行った先は、きっと知らないことだらけだ。
それでも、揺らがなかった。
「私、やってみたいんです」
侯爵は、娘を見た。
長いこと、黙って見つめていた。
それから、仕方なさそうに手を振った。
「行け」
「はい!」
◇
その夜。
テレーゼの部屋には旅道具の山ができあがっていた。
石鹸。香水。櫛。
着替え。毛布。食料。本。
売り物と、自分用。
必要なものと、必要かもしれないもの。
……多い気がする。
「まあ、持てるでしょう!」
根拠はなかった。
最後に、旅のために新しく用意した帽子を手に取る。
鏡の前でかぶる。
右へ傾けてみる。違う。
左へ。これも違う。
真っ直ぐに戻す。
ようやく、落ち着いた。
つばの下から、はみ出した髪が背へ流れる。
「……うん」
鏡の中の自分が、ほんの少しだけ、旅商人らしく見える。
――たぶん。
くるり。
青緑のジャケットとスカートが、一回転する。
明るい栗色の髪が、弧を描く。
テレーゼは、鏡に向かって笑いかけた。
「旅商人、テレーゼ」
口に出すと、まだ少しくすぐったい。
もう一度。
「旅商人テレーゼ」
今度は、しっくりきた。
明日は、ひなぎく亭のみんなに挨拶をする。
ヨハンにも、会いに行く。
それから、町を出る。
知らない道を。
知らない人のいる場所へ。
テレーゼは帽子のつばを、ぴしりと指で整えた。
「明日、出発です!」




