第6話 壊れた
「まあ。こんなところで、この香水にお目にかかれるとはねえ」
テレーゼは聞き返した。
「……え?」
荷車の前で足を止めたのは、身なりのいい中年の女だった。
並べた商品を眺めていたその手が、端の瓶の一つを指している。
「これよ。売り物でしょう?」
「……はい」
「1本いただける?」
テレーゼは返事をしそこねた。
「旅商人さん?」
「か」
「か?」
「買うんですか!?」
女が怪訝そうな顔をした。
「売り物なんでしょう?」
「売り物です!」
「なら買うけど」
「どうしてです!?」
「どうしてって……」
女は瓶を手に取った。
「昔から好きなのよ。最近、この辺ではなかなか見なくなってね。懐かしいわ」
瓶を眺める顔が、少し嬉しそうだった。
「おいくら?」
「はい!」
値段を伝えると、女はそのまま払った。
「大事に使うわ」
「ありがとうございます!」
去っていく背中を、テレーゼは立ったまま見送った。
それから荷車へ目を戻す。並んだ香水の瓶の列に、1本分の隙間が空いていた。
「売れちゃいました……」
ロバが草を食べている。
「売れましたよ! 香水ですよ! あの香水! ずっと売れなかったやつです!」
ロバは草を食べている。
「もう少し喜んでください!」
食べ続けている。テレーゼは笑った。
「わあい!」
一人で喜んだ。
いい香水だった。けれど、今まで会った人たちには要らなかった。
今日、欲しい人がいたから、売れた。
「ふふふ」
気分がいい。
ミシンも売れた。普通の商品も売れている。あの香水まで売れた。
「今日はいい日ですねえ!」
そのとき、背中から声が飛んできた。
「旅商人さん!」
振り返ると、ネリーが息を切らして立っていた。
「よかった……!」
「どうしたんです?」
「お師匠さんが、来てほしいって!」
「私に?」
「はい!」
「何かありました?」
ネリーは大きく息を吸った。
「ミシンが、壊れました!」
テレーゼの笑顔が消えた。
◇
「壊れた!?」
「声が大きい」
「だって!」
ロッテの店へ飛び込むと、ミシンは昨日と同じ場所にあった。見たところ、何も変わっていない。
「どこです!?」
「分からない」
「動かないんです?」
「動く。見てて」
ロッテが椅子に座り、布を置いて踏み板を踏んだ。ガチャン、ガチャン、と昨日と同じ音がする。針も上下しているし、布も送られている。
「動いてますね」
「下」
「下?」
「布の裏」
ロッテが布を持ち上げた。テレーゼは目を瞬いた。
「ぐちゃぐちゃです!」
「見れば分かるよ」
糸が絡まっていた。縫い目になっていない。何重にも輪になった糸が、布の裏で固まっている。
「何です、これ!?」
「あたしが聞いてるんだけど」
「ですよね!」
ロッテは、縫いかけの小さな上着を台の上へ置いた。
「子ども服、今朝から始めたところだったのに」
テレーゼはミシンを見た。
昨日まで、ガチャンガチャンと綺麗に縫えていた。
今日も同じ音。なのに、この有様だ。
「壊れた……」
「だから呼んだ」
「どうしましょう!?」
「それも聞きたい」
「ですよね!」
頭を抱えそうになって、テレーゼは手を止めた。
売った。ちゃんと使えた。役に立った。
昨日までは。
もう一度、ミシンを見る。
「いつからです?」
「今朝」
「昨日の最後は?」
「普通」
「今朝、最初からこうでした?」
「いや。途中から」
「何か変えました?」
「変えてないと思うけど」
「思う?」
ロッテが少し考えた。
「糸を掛け直した。なくなったから」
「そのあとです?」
「……たぶん」
三人で糸を見た。見ても分からない。
ロッテも、ネリーも、テレーゼも、黙って機械を見つめていた。
「分かりませんね」
「分からないね」
「分かりません」
全員、分からなかった。
「郡都に持って帰る?」
ロッテが言った。
「えっ」
「買ったところ」
テレーゼはミシンを見た。
重い。
こいつは、とにかく重いのだ。
これを、どうにかして木箱に入れて荷車に載せ、何日もかけて郡都へ戻る。
直して、また何日もかけて持ってくる。
できないことではない。
できなくはないが。
「それだと、子ども服は……」
「間に合わないね」
ロッテの声は、棒のようだった。
台の上の小さな上着が、テレーゼの目に入った。
「待ってください」
「何?」
「確か……」
テレーゼは鞄を開けた。布、帳面、財布、手袋。底の方を探って、紙の束を引っ張り出す。
「あった!」
「何それ」
「説明書です!」
「読んでなかったの?」
「組み立てたときに一回!」
「一回」
「大丈夫です! ちゃんと取ってあります!」
「そこは偉いね」
「でしょう!」
テレーゼは説明書を開いた。文字と図が交互に並んでいる。
「分かる?」
「今から分かります!」
「分かってないんだね」
「待ってください!」
ページをめくる。針、糸。図を見て、実物を見る。
「これでしょうか。糸の通し方」
三人で説明書を覗き込んだ。
「ここを通して……」
「通した」
「ここも」
「通した」
「それから……」
テレーゼの指が図の上をなぞり、実物へ移り、また図へ戻る。そこで止まった。
「ここ」
「どこ」
「この輪っかみたいなところ。糸、通ってませんよね?」
三人で見る。通っていなかった。
「これじゃないです?」
「やってみる」
ロッテが糸を外し、説明書を見ながら、今度は一つずつ掛け直していく。
「ここ」
「はい」
「ここ」
「はい」
「それから、ここ」
「はい!」
今度は飛ばさなかった。
「できた」
「縫ってみましょう!」
ロッテが布を置いて踏む。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
足を止め、布を持ち上げる。
三人で裏を覗き込んだ。
縫えていた。
「直りました!」
テレーゼが叫んだ。
ロッテは縫い目の表と裏を見て、もう一度ミシンを見た。
「……壊れてなかったんだよ。糸の掛け方が違っただけ」
テレーゼはミシンを見た。さっきまで、壊れたと思っていた。機械は何も悪くない。使い方が少し違うだけで、使えなくなった。
「こんなことで……?」
「こんなことなんだろうね」
「だって、1か所通すのを飛ばしただけですよ?」
「それで駄目なんだから、そういう道具なんでしょ」
テレーゼは説明書に目を落とした。
昨日までは、ミシンがあって、踏めば速く縫える。それで十分だと思っていた。
それだけでは足りないらしい。
「これ」
ロッテが言った。
「覚えないと駄目だね」
「ですね」
「ネリー」
「はい!」
「お前も」
「はい!」
テレーゼも頷いた。
「私も覚えます!」
「何で」
「売ったので!」
ロッテがテレーゼを見た。
「何です?」
「いや」
ロッテの口元が、少しだけゆるんだ。
「変な旅商人だね」
「よく言われます!」
「よく言われるんだ」
「はい!」
◇
しばらくして、店にはいつもの音が戻っていた。
ネリーは説明書を見ながら、糸の通り道を指で追っている。
「ここ」
「はい」
「次」
「ここです」
「その次」
「……ここ!」
「そう」
ロッテが教え、テレーゼも横から覗き込んだ。
「その次は?」
「旅商人さんには聞いてません」
「私も覚えたいんです!」
「じゃあ答えてみてください。次」
「えっ」
テレーゼは説明書と機械を見比べて、1か所を指した。
「……ここ?」
「違います」
「ヒャア」
ロッテが笑った。
「笑いましたね!?」
「笑ってない」
「今のは分かります! 笑いました!」
「こういう顔なんだよ」
「それは無理があります!」
ガチャン、ガチャン、と機械は動いている。
台の上では、子ども服の続きが待っていた。
壊れてはいなかった。だから、今日のところは、それでよかった。
――今日のところは。




