第7話 糸なのに!?
ぷつん。
「あ」
糸が切れて、ロッテの足が止まった。ミシンも止まった。
「ネリー。糸」
「はい!」
ネリーが新しい糸巻きを持ってくる。
ロッテは慣れない手つきながら、昨日覚えたとおりに糸を掛けていった。
「ここ」
「はい」
「ここ」
「はい」
「ここ」
「そこ、昨日飛ばしたところです」
「分かってるよ」
「はい!」
最後に針の穴へ通して、ロッテは踏み板に足を乗せた。
ガチャン、ガチャン、ガチャン。
ぷつん。
ロッテとネリーは、切れた糸の端を黙って見た。
「ネリー。旅商人さん、今日来るって言ってた?」
「お昼過ぎに顔を出しますって言ってました」
「そう」
ロッテはミシンを見た。
「他の仕事を進めておこう」
台の上では、子ども服の袖が、片方だけ縫い上がっていた。
◇
「今日は壊れてませんよね!?」
テレーゼは店へ入るなり聞いた。
「第一声がそれ?」
「昨日の今日ですから!」
「壊れてない」
「よかったあ!」
「でも糸が切れる」
テレーゼの口が、『よかったあ』の形のまま、止まった。
「旅商人さん?」
「今、よかったって言ったの、返してもらっていいです?」
「返すよ。ほら」
ロッテは、片手で物を投げるしぐさをした。
三人はミシンの前に立った。
「どう切れるんです?」
「縫ってる途中にさあ」
「見せてもらっていいですか?」
「うん」
ロッテが踏む。二度、三度。
ぷつん。
「切れたじゃないですか!」
「だから困ってるんだけど」
「ですよね!」
テレーゼは糸を見た。
「昨日のところは?」
「通してる」
ネリーが説明書を持ってきた。
「私も確認しました!」
「全部、合ってます?」
「はい!」
三人で一か所ずつ確かめていく。
昨日飛ばした輪にも、今日はちゃんと糸が通っていた。
「じゃあ、ここじゃないですね」
「そうだね」
「針は?」
「曲がってない。昨日から変えてないよ」
テレーゼは説明書を見て、ミシンを見て、糸を見た。
分からない。
「もう一回やってみます?」
ネリーが言い、ロッテが糸を最初から掛け直した。
一つずつ、間違いなく。
踏む。ガチャン、ガチャン。
ぷつん。
「昨日より難しくなってません?」
「なってるね」
「成長しなくていいところが成長してます!」
◇
「糸が悪いんじゃないの?」
ロッテが言った。
「糸?」
「うん」
「だって糸ですよ? 普通の糸でしょう?」
「普通だね」
テレーゼは糸巻きを持ち上げた。何の変哲もない糸だ。
「これ、今まで手縫いで使ってた糸ですよね?」
「そう」
「手縫いなら、切れます?」
「切れない」
「じゃあ、糸じゃないんじゃ……」
言いかけて、テレーゼは手を打った。
「そうだ! 私の糸を使ってみてください! 丈夫ですよ!」
荷車から自分の糸巻きを取ってくる。
行商で売っている、丈夫なのが自慢の糸だ。
ロッテが黙って掛け、踏んだ。
ガチャン、ガチャン。
ぷつん。
「丈夫なのにい!?」
「丈夫と、合うのは別でしょ」
「そうですけど!」
「……合う?」
自分の言葉に、ロッテが引っかかる。
「……そうか」
「はい?」
「合う合わないが、あるんだ」
ロッテは自分の糸巻きを取り、糸を引き出して指先でつまんだ。すうっと滑らせ、もう一度滑らせる。
「何か分かりました?」
「ここ。触って」
テレーゼも指で挟んで滑らせてみた。
「……糸ですね」
「糸だよ」
「糸だということしか分かりません」
「ここ、少し太い。その先は細い」
指でなぞり直しても、テレーゼには分からなかった。
「ネリー」
「はい」
ネリーが触る。
「……あ。ちょっとだけ」
「ネリーちゃん!?」
「毎日触ってますから」
「私だけ!?」
「旅商人さんだからね」
「仲間外れの気分です!?」
ロッテは、ミシンと一緒についてきた糸巻きを棚から下ろした。芯に、少しだけ糸が残っている。
「残ってた」
「あっ! これで試してみましょう!」
掛けて、踏む。ガチャン、ガチャン、ガチャン、ガチャン。音は途切れずに続いた。
切れない。
「糸ですね」
「糸だね」
「糸でした」
ネリーまで言った。
テレーゼは二つの糸巻きを見比べた。
同じような色、同じような細さの、同じ糸だ。
なのに片方では動き、片方では切れて止まる。
「糸なのに!?」
「糸だよ」
「だって、普通に使える糸ですよ!?」
「手縫いならね」
「糸なのに!?」
「二回言ったね」
「だって糸ですよ!?」
「三回目」
テレーゼには納得がいかなかった。
針なら分かる。
歯車やねじのような機械の部品なら、合う合わないがありそうだ。
けれど、糸だ。
「面倒ですね、この子!」
「あんたが売ったんでしょ」
「いい子なんですよ! でも面倒なんです!」
「そういう人いるよね」
「いますね!」
ロッテがじっとテレーゼを見た。
「……私です?」
「何も言ってないよ」
「今の目は私でしたよね!?」
「こういう目なんだよ」
「だんだん分かってきましたよ、私!」
「そう」
ロッテの口元が、ほんの少し動いた。
「じゃあ、これは?」
テレーゼはその目をじっと見た。
「ちょっと面白がってます!」
「……当たり」
「なんでえ!?」
◇
問題は分かった。
けれど、分かったからといって終わりではなかった。
「この糸、この町のどこかで買えます?」
テレーゼは、ミシンについてきた糸巻きを持ち上げた。
「知らない」
「町の糸屋さんは?」
「さっきのがそうだよ」
「あ」
切れた方の糸だった。
「他のお店は?」
「探してみないとね」
「探します!」
テレーゼは立ち上がった。
◇
一軒目で「ミシンに使う糸?」と聞き返されて、見せてもらった糸を持ち帰って試すと、切れた。
二軒目では「もっと細いの?」と聞かれた。
「細いだけじゃないみたいで!」
「じゃあ何が欲しいの」
「均一なやつです!」
「何が?」
「糸が!」
「糸は、たいてい均一だろ」
「私も昨日までそう思ってました!」
探しては試し、試しては戻る。
三軒目の糸を掛けて踏んだとき、ガチャン、ガチャン、ガチャン、と音が途切れずに続いた。
「これです!」
テレーゼが叫んだ。
「これならいけそうだね」
ロッテも糸を見る。
テレーゼは店主から聞いてきたことを、そのまま伝えた。
「今ある分は売れるそうです。でも、次も同じものが入るかは分からないって。郡都から仕入れてるそうなんですけど」
「そう」
三人で糸巻きを見た。
昨日まで、糸は糸だった。今日からは、ただの糸ではない。
「これが、なくなったら?」
ロッテが言った。
『私が買ってきます』
そう言えればどんなにか、とテレーゼは思った。
郡都へ戻ったらあの店へ行き、次にこの町へ来るときに持ってくる。
けれど、次にこの町に来るのはいつだろう。
1か月後か、2か月後か、もっと先か。
その前になくなったら。
そこで、ミシンを買った店の男の声が、ふい、と耳によみがえった。
あのとき、木箱ばかり見ていて、半分しか聞いていなかった言葉だ。
――針や糸が要るときは、うちへ言ってください。
「……聞いてみます」
「何を?」
「これを買ったお店に。この糸がなくなったら、どうすればいいのか」
少し考えて、付け足す。
「油も。ついてきましたよね。それも、いつかなくなりますよね」
「そうだね」
「針も……」
ミシンの天板についている引き出しの中を思い出した。交換用の針が、何本か入っている。
「……針も、聞いておきます」
「お願い」
「はい!」
◇
その晩、テレーゼは宿の机で手紙を書いた。
『先日、そちらでゼンガー社のミシンを一台購入した旅商人のテレーゼです』
買い手が見つかったこと。この町の、ロッテさんという仕立屋さんであること。
少し考えて、『とても役に立っています』と書き足した。これは書きたかった。
『教えていただきたいことがあります』
糸はどこで買えばいいのか。
油がなくなったらどうするのか。
針を追加で欲しいときはどうすればいいのか。
テレーゼはペンを止めた。
昨日は壊れたと思った。今日は糸が切れた。どちらも、自分たちでなんとかできた。
けれど、本当に壊れたら。
『もし機械そのものが壊れた場合は、どうすればよいでしょうか』
一行付け足した。
町の名とロッテの店の場所も書き添えて、手紙を折りたたんだ。
封をして、宛名を書く。あのミシンを買った郡都の店だ。
テレーゼは帳簿を開いた。
今日の売上の欄は、ほとんど空いている。
昼からは、糸屋を回ってばかりいたのだから、当然だった。
その下に、宿代を書く。
この町には3日ほどいるつもりだった。今夜で5晩目になる。
「……支出が、増えてますね」
ミシンの儲けは、まだ十分に残っている。前の旅のような赤字には、ほど遠い。
けれど、宿代と食事代がひと晩ごとに書き加えられ、その分だけ儲けが削れていく。
テレーゼは帳簿の数字を指でたどった。
ミシンを売った値段の中に、この宿代は入れていなかった。
「……ただじゃ、ないんですね」
売ったあとまで、面倒を見なければならない商品。
そういうものもある。
帳簿を閉じる。
机の隅には、今日見つけた糸が置いてあった。
ただの糸にしか見えない。テレーゼは一本つまんだ。
「糸なのに……なんでこんなに」
まだ納得していなかった。




