第5話 これ、いいよ
ガチャン。
踏み板が鳴るたびに、布が少しずつ前へ出ていく。
音の間隔はだんだん詰まり、やがてガチャンガチャンと切れ目なく続きはじめた。
「速いですねえ!」
「昨日も見たでしょ」
「昨日より速くないです!?」
「あたしが慣れたんだよ」
「もう!?」
「足で踏むだけだからね」
翌朝のロッテの店では、さっそくミシンが働いていた。
昨日はおっかなびっくり踏んでいたロッテも、今日は様子が違う。
踏んで、縫って、止めて、布を見て、また踏む。その手順に、もう迷いがなかった。
ネリーが横で見ている。
「おお……」
「ネリー」
「はい!」
「ミシンを見ていたって仕事は終わらないよ」
「はい!」
ネリーが慌てて自分の椅子へ戻った。
テレーゼは笑って、またミシンを見た。
「これなら、たくさん縫えますね!」
「だからって、全部これでやったら駄目だよ」
「そうなんです?」
「昨日も言ったでしょ」
「言ってました!」
ロッテはミシンを止め、縫いかけの服を持ち上げた。
「ここはこれでいい。ここも。でも、ここは手」
「どうしてです?」
「こっちの方が綺麗だから」
テレーゼは目を近づけたが、違いが分からなかった。
「同じに見えます」
「違うよ」
「どこが?」
「見れば分かる」
「またそれです!?」
ロッテは針を持ち、手で縫いはじめた。
テレーゼはその指先をじっと見た。ミシンよりずっと遅い。けれど、迷いがない。
針が入り、抜け、糸が引かれて、また入る。
「ミシンがあれば、仕立屋さんの仕事はなくなるのかな、って思ってました」
ロッテの手が止まった。
「……何です?」
「それ、仕立屋の前で言う?」
「あ」
テレーゼは口を押さえた。
「すみません!」
「まあ、いいけど」
ロッテはまた針を動かした。
「こいつが勝手に客の身体を見てくれるなら、あたしはいらないね。勝手に布を選んで、勝手に裁って、勝手に合わせてくれるなら、ネリーもいらない」
「私もですか!?」
「お前はまだ、いる」
「よかったです!」
「手。止めない」
「はい!」
ロッテは縫い目を指でなぞった。
「これは道具だよ」
「はい」
「とっても速い道具」
しばらくしてから、小さな声で言った。
「いい道具」
ガチャン、とまたミシンが動きはじめた。
◇
昼前、ネリーが一人の女を連れて戻ってきた。朝のうちに、ロッテが使いに出していたのだ。
「本当に?」
女は店へ入るなり、目を丸くした。
「できるよ」
「でも、この前は間に合わないって」
「この前はね」
ロッテが巻尺を取った。
「今なら受けられる。子ども服、1週間後だったよね」
「ええ。姉の婚礼に、あの子に着せたくて」
「なら、来週の今日、取りに来て」
「まあ! 助かるわ!」
女の顔が明るくなる。
店の隅でそのやり取りを聞きながら、テレーゼは口元がゆるむのを止められなかった。
売れたときも嬉しかった。
売ったものが本当に働いて、この前まで断っていた仕事を今日は受けている。
「……ふふ」
「何笑ってるの」
「いえ!」
「気持ち悪いよ」
「そんなぁ!」
「旅商人さん、嬉しいんですよ」
ネリーが言った。
「ね?」
「はい!」
「何が?」
「ミシン、役に立ってますから!」
ロッテがテレーゼを見た。
「売ったんだから、金もらった時点で終わりなんじゃないの」
「そうなんですけど、だって、使ってもらえてる方が嬉しいじゃないですか!」
ロッテは黙った。
「それに!」
テレーゼは胸を張った。
「私の見立て、合ってました!」
「そっちか」
「それも嬉しいです!」
ロッテが小さく息を吐いた。怒っているように見える。
「……まあ、合ってたね」
「でしょう!」
「うるさい」
◇
午後、テレーゼは自分の商売へ出た。
ミシンが売れたからといって、この町での仕事が終わったわけではない。荷車には、まだ商品がある。
「石鹸はいかがですかー! 丈夫な糸もありますよー! 針もあります!」
石鹸が売れ、糸が売れ、針が売れた。
売れないものもある。
「香水も――」
「いらないよ」
「はい!」
テレーゼは、荷車の端に並べた香水の瓶を見た。
最初の旅から、ずっと荷の中にいる香水だ。1本売れたきり、残りはなかなか減らない。
「いつ売れるんでしょうねえ」
ロバは道端の草を食べている。
「これ、結構いい香水なんですよ? 本当にいいんです。いいものなんですよ?」
ロバは食べ続けている。
テレーゼは香水をしまった。
「いいものなら売れるってわけじゃないですもんね」
言ってから、自分で少し笑った。
「知ってます!」
ロバは知らない。
◇
夕方、もう一度ロッテの店を覗いた。
「まだやってます?」
「見れば分かるでしょ」
「やってますね!」
ガチャンガチャンと続く音は、一日でずいぶん聞き慣れたものになっていた。
ネリーは相変わらず、横目でミシンを追っている。
「お師匠さん」
「何」
「私も踏んでみていいですか?」
「駄目」
「……はい」
しゅん、と肩が落ちる。
「まだね」
ネリーが顔を上げた。
「明日ですか?」
「知らない」
「明後日?」
「目の前の仕事しな」
「はい!」
明るい返事だった。
テレーゼは笑った。
「何」
「いえ」
「何か、言いたそうだね」
「ロッテさん、優しいですね!」
「帰る?」
「すみません!」
やっぱり怒っているように見える。テレーゼには、まだ違いが分からない。
「旅商人さん」
ロッテがミシンを止めた。ぽん、と機械に手を置く。
「これ、いいよ」
テレーゼの顔が、ゆっくり明るくなった。
「本当ですか?」
「嘘ついてどうするの」
「ですよね!」
昨日は『買う』だった。今日は『いい』だった。
売れただけではない。買ったあとに、買った人が喜んでいる。
テレーゼには、それが思っていた以上に嬉しかった。
「ありがとうございます!」
「何であんたがお礼言うの」
「なんとなくです!」
「……そう」
ロッテはまた踏み板に足を乗せた。針が動きはじめる。
テレーゼはしばらく、その音を聞いていた。
明日も、明後日も、自分がこの町を出たあとも、この音はきっとこの店で鳴り続ける。
なんだか、とてもいい商売をした気がした。
ミシンの横に置かれた糸巻きは、朝よりもずいぶん細くなっていた。




