第4話 高いね
「昨日の3件なんですけど、どんなお仕事だったんです?」
翌朝、テレーゼはロッテの店の椅子に座っていた。
ミシンはまだ見せていない。大きな木箱は、店の外に停めた荷車に載ったままだ。
「何で?」
「聞きたいので!」
「それは分かるよ」
ロッテは針を動かしながら言った。
「何で聞きたいの」
「それは、あとで言います!」
「怪しいね」
「怪しくないです!」
「怪しい奴はだいたいそう言うよ」
「違います!」
奥でネリーが笑った。
「ネリー」
「はい!」
「手」
「はい!」
笑い声が消えた。
テレーゼは姿勢を正した。
「それで、3件です!」
「一つはドレスの直し。一つは男物。もう一つは子ども服」
「全部断ったんです?」
「今受けても間に合わないからね」
「いつまでだったんです?」
「ドレスが10日。男物が2週間。子ども服が1週間」
「1週間……」
テレーゼは店の中を見回した。仕立て途中の服が何着も掛かっている。
「今ある仕事が終わってからじゃ、間に合わない?」
「間に合わない」
「ネリーちゃんと二人でも?」
「この子に任せられるところは任せてる」
「はい!」
「手」
「はい」
ネリーは止めた手を動かした。
「人を増やすのは?」
「簡単に言うね」
「あっ。すみません」
「新人を教えている間は、あたしの手が止まるんだよ」
「なるほど……」
テレーゼは頷き、少し考えてから聞いた。
「一番時間がかかるのって、何です?」
「仕事による」
「じゃあ、断った3件なら?」
ロッテの手が止まった。
「……何が聞きたいの」
「どこが速くなったら、その3件を受けられたのかなって」
ロッテがテレーゼを見た。
相変わらず、怒っているような目だった。
テレーゼはもう、怒っているのか聞かなかった。これでも、怒っていないらしいので。
「縫うところだね」
「縫うところ……」
「採寸して、型を取って、裁つ。そこはどうしたって速くはならない。仮縫いもいるし、合わせるのもいる。仕上げのことを言ったら、きりがない。ボタン穴とか、伏せ縫いとか、いせ込みとかね」
「はい」
「でも、長いところを縫うのがいちばん時間を食う」
「どれくらいです?」
「ズボン1着の前後を縫い合わせるだけでまる一日かかる」
「そんなに……」
「手数のかかる返し縫いだから、一番しんどいところだし。ジャケットなら三日だよ」
「そこが速くなったら?」
「ぜんぜん違うよ。楽になる」
「仕事も増やせます?」
「……ものによるけど」
ロッテは少し考えた。
「増やせる」
テレーゼは立ち上がった。
「分かりました!」
「何が」
「ちょっと待っててください! 見てもらいたいものを持ってきます!」
「何を」
返事をする前に、テレーゼは店を飛び出していた。
◇
荷車の前で、テレーゼは木箱の縄を解いた。両腕を回して、抱える。
「よい、しょ……」
動かない。
「……っ、しょ!」
角がわずかに浮いて、すぐに落ちた。ごとん、と荷台が鳴る。
道端のロバが、片耳だけをこちらへ向けた。
郡都の店では、店の男が二人がかりで荷車へ積んでくれた。あのとき、何と言っていたか。
『重いですよ。お嬢さん一人じゃ、降ろせませんからね』
聞いていた。確かに聞いていた。
「ふん……っ! ふんっ……!」
もう一度。もう一度。
木箱は荷台の上で、少しずつ向きを変えるだけだった。
通りの向こうから、男が三人、話しながら歩いてくる。
テレーゼは木箱に抱き着いたまま振り向いた。
「……助けてくださぁい!」
男たちが足を止めた。
ロバを見て、荷車を見て、木箱にしがみつくテレーゼを見る。
一人が、面倒くさそうに眉を寄せた。
「何だい、それ」
「仕立屋さんへ運ぶ荷物なんです! そこの!」
テレーゼが店を指差すと、三人の顔つきが変わった。
「仕立屋って……ロッテさんのところか?」
「はい!」
「それを早く言いなよ」
一人が袖をまくった。もう一人もまくった。三人目は上着まで脱いだ。
「ロッテさんのところの荷物か。それなら手伝うよ」
「ありがとうございます!」
「せえのっ」
木箱が荷台を離れた。男たちの腕に筋が浮く。
「重っ……何が入ってるんだ、これ」
「鉄です!」
「鉄ぅ!?」
えっちら、おっちら。
木箱は入口の段差でいったん止まり、一瞬まごついたが、ようやく店の中へ入った。
ロッテは作業台の前で腕を組み、黙ってそれを見ていた。
ネリーは奥から顔だけを出している。
ずしん。
床が鳴った。
男たちが腰を伸ばし、額の汗を拭う。
「ありがとうございました! 助かりました!」
テレーゼが大きな声で頭を下げると、ロッテが腕を組んだまま口を開いた。
「……いや。まだ、うちの荷物になると決まったわけじゃないんだけど」
いつもの目で、男たちを見る。
「……ありがとう」
三人の肩が、そろってびくっと跳ねた。
「どういたしましてえ!」
男たちは転がるように店を出ていった。
テレーゼは、閉まった扉とロッテを見比べた。
「……今の、怒ってました?」
「怒ってない」
ネリーが奥から出てきて、木箱の前にしゃがんだ。
「何ですか、これ?」
「ふふふ。開けます!」
「変なものじゃないだろうね」
テレーゼは鞄から釘抜きを取り出した。ねじ回しと一緒に、郡都の店で木箱に添えて渡されたものだ。
蓋の釘に先を掛けて、体重をかける。
ぎ、ぎぎぎ。
釘が1本、2本、と抜けて、蓋が外れた。
中身は、ばらばらだった。
木枠に縛りつけられた鉄の脚。大きな車輪。踏み板。厚い木の天板。真ん中には、布で何重にも包まれた塊。
「……壊れてるの?」
「違います! 組み立てるんです!」
テレーゼは、鞄から、今度は一枚の紙を出した。
郡都の店で一度組み立ててみせてもらいながら、手順を書き留めてきたものだ。
急いで書いた字が、ところどころ斜めに走っている。
「まず、脚です!」
鉄の脚を立て、間に踏み板と車輪を渡して、ねじで留める。
その上に天板を載せる。
テレーゼが紙を読み上げ、ネリーが部品を押さえ、ロッテが黙ってねじ回しを受け取った。
三本目のねじからは、テレーゼよりロッテの手の方が速かった。
「次が、頭です」
「頭?」
「本体のことを、お店ではそう呼んでました」
「ねえ、なんなの? これ」
布をほどくと、金の細い模様の入った黒い鉄が現れた。
ロッテの目つきが、わずかに変わった。
「あ」
ネリーが声を上げた。
「これ、知ってます! 本で見ました! ミシンですよね?」
「そうです!」
「すごい……!」
頭だけでも、ずっしりと重い。
テレーゼとロッテが両側から抱えて持ち上げ、天板の蝶番の突起に、そろりと合わせる。
かちり。
ボルトを締め、最後に、下の大きな車輪と頭の小さな車輪へ、革の丸ベルトを掛ける。
紙には、張りすぎず、ゆるすぎず、とだけ書いてあった。
「……どのくらいです?」
「あたしに聞かないでよ」
何度か掛け直して、ようやく金具が留まった。
テレーゼは説明書の図を指でたどりながら、糸を掛けていく。
鉄の脚、天板、踏み板、黒い頭。
組み上がったミシンは、店の隅に一台分の場所を取って立っていた。
ネリーが寄ってくる。
「触っていいですか?」
「まだ駄目」
師匠に言われて、ネリーはぴたりと止まった。
「……はい」
「あとでなら、見ていい」
「はい!」
ぱっと顔が明るくなる。
テレーゼは少し笑った。
ロッテはミシンの周りを一周した。
「見たことあります?」
「他の工房で、一度だけ」
「使ったことは?」
「ない」
「じゃあ――」
言いかけて、テレーゼは言い方を変えた。
「……使ってみます?」
「いいの?」
「もちろんです!」
◇
ガチャン。
最初の一踏みは、ぎこちなかった。
二度、三度と踏むうちに、布がゆっくりと送られはじめる。
「もう少しゆっくり踏んだ方がいいかもしれません!」
「分かった」
ロッテは黙って踏み続けた。
テレーゼも黙っていた。
ネリーだけが「おお……」と声を漏らす。少し前のテレーゼと同じだった。
「止めていい?」
「はい!」
ロッテは縫った布を持ち上げ、表を見て、裏を見て、縫い目を指でなぞった。
「どうです?」
「速いね」
「速いでしょう!」
「でも、これで全部はできない」
「はい!」
テレーゼはすぐ頷いた。
「私も聞きました。最後は手だって」
「最後だけじゃないよ。曲がったところ、細かいところ。布によっても違う。あたしなら、手でやるところは残す」
「ですよね」
「でも」
ロッテはもう一度、縫い目を見た。
「長いところを縫うのは、いいね。ぜんぜん違う」
テレーゼの顔が明るくなった。
「じゃあ、断った3件――」
「待って」
止められた。
ロッテはミシンから目を上げた。
「いくら?」
「はい!」
テレーゼは値段を言った。
ロッテは黙った。
テレーゼも黙った。
「高いね」
「ですよねえ!」
即答だった。
「売る気あるの?」
「あります!」
「今、自分で高いって言ったじゃない」
「だって、高いものは高いです!」
ロッテが呆れたように口を開きかける。
その前に、テレーゼは身を乗り出した。
「でも!」
続けかけて、口を閉じた。椅子に座り直す。
「……何」
「いえ」
「何か言いかけたでしょ」
「言いかけました」
「言わないの?」
「ロッテさん。今、考えてますよね?」
ロッテは答えなかった。
「だったら、待ちます」
ロッテがテレーゼを見た。
長い。
やっぱり目つきが怖い。
テレーゼは少しだけ背筋を伸ばしたが、黙っていた。
ロッテはミシンを見て、店を見て、掛かっている仕立て途中の服を見た。
それから紙を一枚取って、数字を書きはじめた。
「今週断ったのが3件」
「はい」
テレーゼはそれだけ答えて、あとは言わなかった。
「全部は無理だとして、2件増やせるなら……月に8件。いや、毎週、そんなに都合よく来ないか」
書いた数字を線で消し、また書く。
「この仕事なら……こっちは手間がかかるから……」
ペンの音だけが続いた。
長い。
ものすごく長い。
テレーゼの口がむずむずした。
ミシンは速い。たくさん縫える。郡都の仕立屋も便利だと言っていた。説明書もついている。糸も、油も、針も――。
それにですね、それにですね、それにですね。
言わない。
今、それは聞かれていない。
テレーゼは膝の上で手を握った。
ロッテが顔を上げた。
「旅商人さん」
「はい!」
「これ、もう一回使っていい?」
「もちろんです!」
◇
今度は、さっきより長い時間、縫った。途中で止めて布を替え、また踏む。
「ネリー」
「はい!」
「これ持って」
二人で布の端を広げる。ロッテの指が、縫い目の上を順に移動していく。
「ここ」
「はい」
「こっちは手でないと無理」
「はい」
「ここからここまでなら」
「ミシンですか?」
「たぶんね」
テレーゼは横で見ていたが、2人の会話に口は出さなかった。
分からないからだ。
これは仕立屋の仕事だった。
やがて、ロッテがミシンから離れた。
「旅商人さん。昨日の3件だけど」
「はい」
「これがあったら、2件は受けてた。子ども服と、男物」
「……はい!」
「ドレスは無理。長いところ以外でも時間がかかるから」
「なるほど」
ロッテはまた紙を見た。
「子ども服の人は、まだ間に合うかもしれない。今から声をかければ」
そう言って、また数字を書く。
「これを買って、今と同じくらい仕事が来て、増やした分がちゃんと払われるなら……」
ぶつぶつと計算が続く。
テレーゼは待った。
長い。
やっぱり長い。
テレーゼは何度も『それにですね!』と言いそうになり、ぐっと飲み込んだ。
待つ。
ロッテが数字を書き、手を止め、ミシンを見て、テレーゼを見て、もう一度ミシンを見た。
「…………」
そして、言った。
「買う」
テレーゼは瞬いた。
「買うよ、これ」
「買います!?」
「うるさい」
「本当に!?」
「だから買うって」
「やったあ!」
「うるさいって」
テレーゼは立ち上がった。
「ありがとうございます!」
「まだ金も払ってないよ」
「でも買ってくれるんですよね!」
「買う」
「ありがとうございます!」
頭を下げて、上げて、もう一度下げる。
「ありがとうございます!」
「お礼は、一回でいいよ」
ネリーが笑っていた。
「よかったですね、旅商人さん!」
「はい!」
嬉しかった。
とても嬉しかった。
高い商品が売れたから。利益が出るから。もちろん、それもある。
けれど、それだけではない。
昨日この店を見つけて、話を聞いた。今日も聞いた。
この人なら使えると思って、見せた。
そして、この人が自分で考えて、買うと決めた。
それが、嬉しかった。
「それで」
「はい!」
「今日から使える?」
「もちろんです!」
テレーゼは胸を張った。ロッテがじっとこちらを見る。
「……あの……何か、心配なことでも?」
「何で?」
「その目」
「こういう目なんだよ」
「あっ、そうでした!」
ネリーがまた笑った。




