第2話 一台にします!
ガチャンガチャンガチャン――。
「おお……」
テレーゼは、ミシンの前にしゃがみこんでいた。
窓越しに見えていた機械が、今は目の前で動いている。
店の女が足元の踏み板を踏むと、車輪が回り、針が上下して、布がするすると向こうへ送られていく。その後ろに、縫い目が一本の線になって残った。
「速いですね!」
「速いですよ」
「ずっとですか!?」
「踏んでいる間は」
「ずっと!」
店の男が、少し笑った。
「もう一回、いいですか?」
「どうぞ」
踏み板が鳴り、布がまた送られていく。テレーゼは身を乗り出した。
「おおお……!」
「お嬢さん、さっきからそれしか言ってませんね」
「だって速いんです!」
テレーゼも針仕事はできる。侯爵令嬢として、最低限の裁縫は習った。
上手いかどうかは別として、人が手で針を持って縫えばどのくらいかかるかは分かる。
目の前のこれは、それとはまるで違った。
「これ、誰が買うんです?」
「仕立屋が多いですね」
「やっぱり!」
テレーゼは勢いよく立ち上がった。
「じゃあ、これを――」
言いかけて、口を閉じる。
ミシンを見て、それから男を見た。
「……どんな仕立屋さんが買うんです?」
「どんな?」
「はい。仕立屋さんなら、みんな欲しがりますか?」
男は少し考えた。
「欲しいかどうかなら、欲しがる人は多いでしょうね」
「買うかどうかは?」
「それは別です」
「ですよね」
テレーゼは頷いた。
欲しいことと、買うこと。使えることと、儲かること。どれも同じではない。
「何を縫うのに向いてます?」
「直線をたくさん縫う仕事には強いですよ。もちろん、何でもこれ一台で、というわけにはいきませんが」
「一日にどのくらい使う人が多いです?」
「それは店によりますね」
「一人でやってる仕立屋さんでも、買う人はいます?」
「仕事が多ければ」
「仕事が多ければ……」
テレーゼは腕を組んだ。
「じゃあ、仕事が少ない人が買っても」
「持て余すでしょうね」
「仕事が多くて」
「ええ」
「たくさん縫っていて」
「ええ」
「これを使ったら、その分もっと仕事を受けられるような人」
「そういう人には、いい道具ですよ」
「なるほど……」
テレーゼはもう一度ミシンを見た。
欲しくなった。自分が。
いや、違う。自分は仕立屋ではない。欲しい人を探すのだ。
「ちなみに」
「はい」
「おいくらです?」
男が答えた。
テレーゼはミシンを見て、男を見て、もう一度ミシンを見た。
「……これ一台で?」
「これ一台で」
「この、小さい針が上下するやつが?」
「その小さい針が上下するやつが」
高い。ものすごく高い。
石鹸何個分だろう。針なら何本分だろう。
香水なら――いや、香水で考えるのはやめよう。あれはなかなか売れない。
「高いですねえ……」
「安い品ではありませんから」
「これ、ぽんと買える人、そんなにいます?」
「ですから、買おうという人は考えますよ」
「ですよねえ……」
テレーゼも考えた。
これは、いつもの商品とは違う。町へ持っていって広場に並べ、『ミシンです! 速いですよ!』と声を張って売れる品ではない。
たとえ売れても、買った人が仕事で使えなければ、この値段を払う意味がない。
テレーゼは店の外へ出た。つないでおいたロバが、道端の草を食べていた。
「高いですよ」
草を食べている。
「びっくりするくらい高いです」
まだ食べている。
「あなたより高いですよ」
ロバが顔を上げた。
「そこは反応するんです?」
いや。それは偶然だった。
◇
その日のテレーゼは、すぐにはミシンを買わなかった。
郡都を歩いて、仕立屋を見つけては声をかけた。
ミシンを使ったことはあるか。一番時間がかかる仕事は何か。仕事を断ることはあるか。
忙しい職人もいれば、そうでない職人もいた。
「うちはまだ、手だけで十分だね」
「欲しいけど、とても手が出ないよ」
「あれは便利だよ。直線が多いときなんか、全然違う」
そう言った職人は、少し間を置いてから付け足した。
「でも、最後は手だよ」
「最後は手?」
「機械が最後まで服を作ってくれるわけじゃないからね」
「なるほど……」
テレーゼは聞いて、歩いて、また聞いた。
夕方、テレーゼは再びミシンの店の前に立っていた。
「分かりました!」
「何がです?」
「これを欲しい人です!」
男が目を瞬いた。
「仕事がたくさんある人です! 忙しくて、仕事を断るくらいで、でもこの値段を払っても、そのあと仕事で取り返せる人!」
「そうですね」
「そういう人を探します!」
テレーゼが満足げに頷くと、男も頷いた。
「それで」
「はい」
「何台です?」
テレーゼは口を開けたまま止まった。
店にはミシンが並んでいる。
一台、二台、三台。
持っていけば、三人に売れるかもしれない。
この先の町には、仕立屋が何軒もあるだろう。全部売れれば――。
果樹園が頭に浮かんだ。
山積みのリンゴと、重い荷車と、痛い足。
売れた。そして、儲からなかった。
テレーゼは、すっと指を一本立てた。
「一台にします!」
「賢明ですね」
「はい!」
胸を張る。
「前の私なら三台買ってました!」
「……何があったんです?」
「リンゴです!」
「……リンゴ」
「はい!」
男には、何も分からなかった。
「では、一台ですね」
「お願いします!」
男が奥へ声をかけると、店の者がもう一人出てきた。
二人は、これから箱に詰める一台を、テレーゼの目の前で一度組み立ててみせた。
鉄の脚を立て、踏み板と車輪を渡し、天板を載せる。「頭」と呼ぶ本体をはめ込み、革のベルトを掛ける。
「売った先で、組み立てていただかないといけませんからね」
「はい!」
テレーゼは鞄から紙を出し、手順を一つずつ書き留めた。手が追いつかず、字が斜めに走る。
組み上がったミシンは、またばらばらにされ、頑丈な木箱へ木枠ごと収められた。蓋が釘で打ちつけられ、その上に説明書と、機械用の糸と、油の小瓶が載せられる。開けるための釘抜きと、組み立て用のねじ回しも添えられた。最後に、小さな包みが一つ。
「こちらは?」
「交換用の針です。この機械に合うものが、何本か入っています」
「はい!」
テレーゼは説明書と一緒に、包みを鞄へしまった。
「なくさないでくださいね」
「もちろんです!」
「それから、ゼンガー社のミシンは、郡都ではうちが扱っています。針や糸が要るときは、うちへ言ってください。うちの者が地方を回ることもありますから」
「はい!」
返事はしたが、テレーゼの目は木箱に向いていた。
その小さな包みがどれほど大事になるのか、このときのテレーゼはまだ知らない。
店の男も、木箱を見た。大きい。
「……これ」
「はい」
「重いですよね」
「重いですね」
二人で店の外を見る。ロバがいて、草を食べていた。
テレーゼはロバのところへ行き、首を撫でようとした。
ロバは一歩、横へずれた。一歩追うと、一歩逃げる。
「今から大事なお話があります」
ロバは聞いていない。
「ちょっとだけ、荷物が増えます。でも大丈夫です! 無理な重さじゃありません! ちゃんと確認しました!」
ロバは草を食べ続けている。
「なので――」
テレーゼは、店先の大きな木箱を指差した。
「お願いします!」
ロバが顔を上げた。木箱を見て、テレーゼを見る。
それから、長い息を吐いた。
「今、ため息つきました?」
たぶん、偶然だった。
木箱は、店の男が二人がかりで荷車へ積んでくれた。
縄を掛け終えると、一人が腰を叩きながら言った。
「重いですよ。お嬢さん一人じゃ、降ろせませんからね」
「はい!」
テレーゼは縄の掛かった木箱を見上げて、満足そうに頷いた。
◇
翌朝、《ひなぎく亭》の前には、昨日より背の高い荷車が止まっていた。
いつもの商品の他に、布をかけた木箱が縄でしっかりと留めてある。
工房から出てきたヨハンが、それを見て足を止めた。
「この大きいのは」
「ミシンです!」
ヨハンは木箱を見て、テレーゼを見て、もう一度木箱を見た。
「……楽になるんじゃなかったの」
「なります! 引くのはマックスですから!」
「……引けるの?」
「引けました! 荷の重さも、マックスを売ってくれた人に聞いていた範囲です!」
「ならいいけど」
ヨハンはマックスのそばへ行き、頭を撫でてやった。マックスは避けなかった。
「キイイ! 私は逃げるのに!」
「売れるの、その、ミシン」
「売ります! 欲しい人を探して!」
「高そう」
「高いですよぉ!」
ヨハンは何か言いかけて、やめた。
《ひなぎく亭》の奥から出てきたフランツが、荷車の荷縄を強く締め直す。
荷車とロバを、革具で繋いでいった。
「準備できましたよ」
「フランツさん、ありがとうございます」
「テレーゼお嬢様。お気をつけて」
「その、お嬢様はやめてください、って」
「そう言われましても」
フランツは困った顔でエルザを見る。
エルザは腕を組んだまま笑っていた。
「テレーゼ。ロバのお世話、しっかりね」
「はい!」
テレーゼは旅帽子をかぶった。
「では、行ってきます!」
「行ってらっしゃい」
店の奥から、マルタとオットーの声も重なる。
テレーゼは手綱を取り、一歩踏み出した。
ロバは動かなかった。
「……行ってきます!」
もう一度言う。
動かない。
「行ってきます!」
ロバは耳を動かし、ようやく歩き出した。
ヨハンが、口元を片手で押さえている。
「笑いました!?」
「……行ってらっしゃい」
がらがら、と車輪が鳴る。布をかけた木箱が、荷車の上でわずかに揺れた。
この中身を欲しがる人が、どこかにいる。
テレーゼは帽子のつばを押さえ、郡都の門へ向かった。




