第11話 帰りましょうか
道は、もう覚えた。
どこに坂があって、どこが石だらけで、どこを通ると荷車が大きく揺れるのか。
「ここですね」
少し速度を落とす。
「ここもポイントです……」
すんなり抜ける。
その先の、警戒していない場所で。
がたん、と車輪が跳ねた。
「ヒャ――」
慌てて荷車を押さえる。止まった。
箱の中身を確かめる。
「大丈夫」
また歩き出す。
数日前は、三箱積んで、重い、重いと言いながらこの道を歩いた。
坂を下るときには、荷車に追いかけられた。
テレーゼは少しだけ遠い目をした。
「あれは危なかったですねえ……」
テレーゼは速度を落としたまま、二箱のリンゴを町へ運んだ。
◇
「二箱です! お昼前です! 言われた状態です!」
工房から出てきたベルタは、テレーゼではなく箱を見た。
「それは見てから」
「あっ」
「そこ置いて」
ベルタは一つ取り、目で見て、指で押した。
「これ、いい」
次を取る。
「これも、いい」
テレーゼが胸を撫で下ろしかけた、その次で、ベルタの手が止まった。
「これは駄目」
「えっ」
テレーゼが覗き込む。
「どうしてです?」
「ここ」
指を差された先に、へこみがあった。少し深い。
「運んでる途中かな」
テレーゼは考えた。道、石、跳ねた荷車。
『ヒャ――』
「……たぶん」
「これは買えない」
「……はい」
テレーゼはその実を受け取った。完璧ではなかった。
駄目だったのは、一つだけだった。残りは全部、買ってもらえた。
硬貨を受け取って財布にしまい、空になった箱も受け取る。
「ありがとうございます!」
そこへ、客が入ってきた。
「いらっしゃい」
「リンゴのコンポートが欲しいんだけど」
「いつものですね」
ベルタは手を拭うと、作業台の上の陶器の壺を取り上げた。
「よかったら、新作、試食してみません?」
「いいの?」
「ええ。感想聞かせてほしいんです」
壺の中から皿に載せられたリンゴ煮を口に含んだ客は、目をぱちぱちさせた。
「……なにこれ」
「ちょっと面白いでしょ」
「これ、リンゴじゃないわよね」
「リンゴなんだな、これが」
「……これも買うわ」
「まいど」
棚に並べてあった白い炻器の壺が、客に手渡された。
客が帰ったあと、テレーゼが尋ねた。
「ベルタさん。いまのって」
「あんたのリンゴだよ」
「やっぱり!」
「試食した人はみんな買っていくね」
「わあ……!」
「定番商品になれそうだから、壺に貼るラベルを注文したよ」
テレーゼは、胸がぎゅっとなった。
「次……」
「うん」
「次は、いつ。どれくらい、持ってきたらいいです?」
「明後日の昼までに。とりあえず二箱。今のところはね」
「分かりました!」
「畑にも言っといて」
「はい!」
テレーゼは紙に書いた。
明後日の昼までに。二箱。
書いてから、少し考える。
「私、その日はここにいないかもしれません」
「そうなの?」
「はい。果樹園から直接持ってきてもいいです?」
「あの若いのが?」
「ルーカスさんです。二箱、同じ状態で、決めた時間までに」
「かまわないよ」
「いいんです?」
「条件は、あんたと同じ。それでいいのなら」
「はい! 果樹園にも確認します!」
テレーゼは紙に、「果樹園から運ぶ」と書き足した。
◇
午後、テレーゼはいつもの荷車を引いていた。
リンゴはない。
布、石鹸、針、紐、手袋が、久しぶりに荷台の手前に並んでいる。
「旅商人です! 何かお探しです?」
町の一角で声をかけると、年配の女が足を止めた。
「針はあるかい?」
「あります!」
今度は、リンゴの箱をどけなくていい。
「何に使います?」
「袋を繕うんだよ」
「でしたら、細いものより――」
針は売れた。その後も、紐と石鹸が少しずつ減っていった。
テレーゼは、すぐに手が届く荷車の奥を見た。
「これです」
何が。
「これですよ!」
誰も聞いていなかった。
◇
夜、宿の机で、テレーゼは帳簿を開いた。
紙と硬貨を並べ、指で数字を追う。
「仕入れが、これ。売ったのが、これ。宿が、これ。食事……」
書きかけて、手が止まった。
朝も昼も夜もリンゴだった日々が、頭をよぎる。
「……普通のご飯、美味しいですねえ」
しみじみと言うと、宿の主人が遠くから顔を上げた。
「何?」
「何でもありません!」
計算へ戻る。
「運んでる途中で駄目になったのが、一つ。それから――」
計算していた指が、止まった。
もう一度、最初から。
仕入れ。売った分を足す。宿代を引く。食事代を引く。
また止まる。
テレーゼは帳簿を持ち上げた。裏を見る。戻す。
数日前にも、同じことをした。
売れた。ちゃんと売れた。
なのに、帳簿には赤い数字が並んでいた。
テレーゼは数字を見た。
右から見て、左から見て、もう一度見た。
「……あります」
宿の主人が顔を上げた。
「何が」
テレーゼも顔を上げた。
「利益が!」
椅子を鳴らして、テレーゼは立ち上がった。
「利益があります!」
「商売なんだから、なきゃ困るだろ」
「あるんです! ちゃんと! 少しですけど!」
「よかったな」
「はい!」
テレーゼは座り直して、もう一度数字を見た。
大儲けではない。本当に、少しだ。
この町まで来た時間と、歩いた距離。
何日も泊まったこと。最初に出した赤字。全部を考えれば、自慢できるほどのものではない。
それでも、数字は赤くなかった。
「ふふ」
テレーゼは帳簿を閉じた。
「ふふふ」
「気持ち悪いよ」
「失礼ですね!」
◇
翌朝、宿の食堂からいい匂いがして、テレーゼは足を止めた。
焼いた肉、卵、パン、温かいスープ。
「朝飯、食べるのかい?」
「はい!」
座って、出てきた皿を見つめる。
ひと口。
「美味しい……」
「そりゃどうも」
ふた口。
「温かい……」
「そりゃそうだろ」
三口目。
「リンゴじゃない……」
宿の主人がテレーゼを見た。
「やっぱりあんた、しばらく休んだ方がいいんじゃないか」
「元気です!」
パンをかじっていて、ふと思い出した。
《ひなぎく亭》の食堂とオットーの料理、マルタと子どもたちの声。
その向こうに、油の匂いがする工房と、いつもの椅子がある。
耳の奥で、カチ、カチ、カチ、と時計の音がした気がした。
テレーゼはスープを飲んだ。
あの椅子に座って、今回の旅を最初から話したくなった。
匙を置く。
「帰りましょうか」
「ん?」
「いえ」
テレーゼは笑った。
「そろそろ、帰ろうかなって」
◇
果樹園へ寄った。
「次は明日の昼までです! 二箱、今回と同じ状態で!」
ルーカスが頷く。
「分かりました」
「ただ、私、その日はここに来ません」
ルーカスが顔を上げた。
「用事があるんですか?」
「この町を出るんです」
「え。じゃあ、ベルタさんとの取り引きは、どうなりますか?」
「ルーカスさん。私とベルタさんの取り引き、引継ぎませんか」
取引条件は、ルーカスもわかっている。
「ずっと私がいないと駄目なら、私、ずっとここにいないといけなくなりますから」
「……旅商人ですもんね」
「そうなんです!」
「また、来ること、あります?」
「もちろんです!」
「いつ?」
「まだわかりません!」
ルーカスが笑った。
「いつでも。必ず、また来てくださいね」
「はい!」
父親がぼそりと言った。
「もしかして、帰るのか」
「はい! お世話になりました!」
「それは、こっちの台詞かもしれん」
テレーゼの顔が、ぱっと明るくなった。
「では――」
「ただし」
父親は、木の並ぶ方へ目をやった。
「今年の赤字は赤字だ。この話が来年も続くかは分からん。向こうが買わなくなるかもしれんし、うちの実が駄目になるかもしれん」
テレーゼは背筋を伸ばして、一つずつ頷いた。
「だから、次に来たとき、取引がなくなってても驚くなよ」
「はい。そのときは、そのときですね」
「そういうことだ」
「でも」
「ん?」
「ルーカスさんのリンゴ。ベルタさんのお店で、人気ですよ!」
「本当ですか!」
「みんな買ってました!」
ルーカスは、父親の顔を見る。
「……悪くない。いや」
父親は、頷いた。
「ありがたい」
ルーカスがテレーゼに言う。
「次に来たときは、もっといいリンゴ作ってますよ!」
「本当です?」
「今、新しい苗も――」
「三列以上使うなよ」
「分かってるよ!」
「またやってるんですね!」
「やりますよ!」
「いいですね!」
「いいでしょう!」
「おまえたち。調子に乗るな」
二人まとめて言われた。
◇
加工屋にも寄った。ベルタは、前掛けをしたまま戸口まで出てきた。
「帰るの?」
「はい! お世話になりました!」
「別に。商売をしただけだよ」
「また来ます!」
「リンゴ以外も売りなよ」
「売ってます!」
「そう?」
「いろいろ売ってます!」
「リンゴ食ってるところしか見てないからさぁ」
「それは商売ではありません!」
「あはっ」
ベルタが笑った。頬に、えくぼができた。
テレーゼは目を瞬いた。この人がちゃんと笑うのを見るのは、初めてだった。
(……きれいな人だったんですね)
「じゃあ、またね」
「はい!」
「次はリンゴ、食べすぎないように」
「当分、リンゴは食べません!」
「そうかい」
◇
町を出た。
荷車は、来たときより軽い。商品を売ったからだ。
けれど、空ではない。
売れ残った品、旅の途中で買ったもの、使った布、増えた傷、紙と帳簿。
そして、話。
「よし」
テレーゼは帽子をかぶり直して、歩きだした。
車輪の音とともに、町が遠ざかっていく。
しばらくして。
ポオオオオ――ッ!
汽車だ。テレーゼは足を止めた。
黒い車体が走っていく。速い。やっぱり、ものすごく速い。
テレーゼは笑った。
「やっぱり乗りたいですねえ」
遠ざかっていく汽車に、もう一度言う。
「今度は乗りましょう!」
テレーゼは荷車を引いて、帰る道を歩いた。




