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第10話 悪くない

「……あれ、シナモンなくても美味かったと思うんですよ」


 果樹園へ戻る道で、ルーカスが言った。


「まだ言ってるんです?」

「だって、香りがいいリンゴなんですよ」

「でも、おかわりしてましたよね」

「……商売の話をしましょう」

「逃げましたね?」


 ルーカスは答えなかった。テレーゼは笑いながら荷車を引いた。


 荷車は軽い。果物の代わりに、空箱と、加工屋で聞いた話を載せている。


「次も二箱でしたね」


 ルーカスが、丘の上の果樹園へ目をやった。


「採るだけなら、もっと採れますけど」


 数日前のテレーゼなら、ここで、じゃあいっぱい持っていきましょう、と言っていた。たぶん。間違いなく。

 けれど耳の奥には、甘い湯気の中で聞いた声が、まだ残っている。


『いっぱいはいらない』


「まず、二箱で」

「増やさないんです?」

「欲しいって言われたのが、二箱ですから。もっと欲しいと言われたら、そのとき増やしましょう!」


 言ってから、テレーゼは少し胸を張った。

 今のは、なんとなく商人らしかった気がする。


          ◇


「お話があります!」


 果樹園へ戻るなり、テレーゼは父親をつかまえた。

 木箱を運んでいた父親は、振り返るより先に顔をしかめた。


「嫌な予感がするな」

「どうしてです?」

「お前が元気だから」

「失礼ですね!」


 テレーゼは紙を広げ、ベルタの条件を読み上げた。

 値段は今日と同じ。次も二箱で、明後日の昼まで。

 腐ったものは駄目、多少の傷はいい、柔らかすぎるものは分けておく。


「それと、こっちの列の、少し早めに採ったやつがいいらしい」


 ルーカスが横から付け足す。


「煮ても、酸味と香りが残るって」

「ほう。ベルタさんとやらは、そこまで分かるのか」

「分かるよ。俺のリンゴのこと、ちゃんと分かってた」

「シナモンを入れられて、怒ってましたけど」

「それは別の話です」

「でも、六回食べました」

「テレーゼさん!」


 父親が、息子を見た。


「なんだ。気に入ったんじゃないか」

「確認だよ!」


 テレーゼは笑いをこらえて、紙へ目を戻した。


「その次の分は、売れ方を見て決めるそうです。今年ずっと、とは約束できないって」

「そうか」


 父親は紙を見て、それから、荷車から下ろした空の箱に目をやった。


「箱は?」

「返してもらいました!」

「次からは。前の箱を返すのか、向こうで移し替えるのか、こっちが毎回用意するのか」


 テレーゼの口が、開いたまま止まった。紙のどこにも書いていない。


 父親は構わず、指を折っていく。


「金はいつもらう。向こうで駄目だと言われた実は、どうする。運んでる途中で傷んだ分は、誰の損だ」


 指が1本折られるたびに、テレーゼの手の中で、紙がくしゃりと縮んだ。


「……聞いてきます」

「ああ。今度は、まとめてな」


          ◇


 翌朝、加工屋の戸口で、テレーゼは紙を突き出した。


「箱と、お代と、断られた実と、途中で傷んだ実のことを聞きに来ました! 全部です!」


 鍋をかき混ぜていたベルタが、木べらを止めた。


「箱は次のとき返す。代金は、持ってきた分を見て、その場で払う。駄目なのは持って帰って」


 そこで、テレーゼの手元の紙にちらりと目をやる。


「運んでる途中で傷んだのも、ひどけりゃ買わない。そっち持ち」


 テレーゼは、言われたそばから紙に書きつけていった。

 書き終えて、上から指でなぞる。

 父親に聞かれたことは、全部埋まっている。


「完璧です!」

「そう」


 紙を折って戸口へ向かいかけたところで、声が飛んできた。


「ねえ」

「はい?」

「これからも、こうやって一個ずつ聞きに来るの?」


 テレーゼの足が止まった。

 ベルタは、なぜか上機嫌な顔をしていた。


「……次は、先にまとめて聞きます」

「そうしようね」


          ◇


 昼前、テレーゼはもう一度果樹園にいた。


「箱は次の納品で返します。代金はその場。断られた実は私が持ち帰り、運ぶ途中で傷んだ分も私の損です!」


 ひと息に言い切って、紙を差し出す。

 父親は受け取ると、黙って上から目を通した。ルーカスも、その肩越しに覗き込む。


「……差は、いくらだ」


 テレーゼが2つの値段を言うと、父親は口の中で、何度も数字を呟いた。


「あんたの利益は、大きくはないな」

「はい」


 町で一つずつ売った方が、一つあたりの値段は高い。それは、テレーゼにも分かっている。

 でも、ベルタはまとめて買ってくれる。

 一日中、呼び込みに立たなくていい。

 夕方に値札を書き直すことも、売れ残りを宿の裏で見下ろすこともない。


「向こうがいらないと言ったら?」

「持って帰ります。それで、次のために、どうして駄目だったのか聞きます」


 父親が、紙から目を上げた。


 少し前の自分なら、大丈夫です、全部売ります、と答えていた気がする。

 今は、駄目になることもあると知っている。

 言えるのは、駄目だったときに次をどうするか。そこまでだ。


「今年の赤字が消えるわけじゃないぞ」

「はい」

「二箱ずつ売ったところで、落ちる実はまだ山ほどある。来年も同じ値段で買うとは限らんし、向こうだって、ずっと買うとは言ってない」

「はい」


 一つ一つにうなずくテレーゼから、父親はルーカスへ目を移した。


「それでもやるか」


 ルーカスは、自分の木の並ぶ方を見た。


「やる。今まで落としてた分だろ。それが少しでも売れるなら」


 少し間を置いて、付け足す。


「それに、向こうが欲しい状態も分かった。来年は、最初からそっちに合わせて採れる」

「来年は来年だ。今年うまくいったからって、来年も同じとは限らん」

「分かってるよ」


 父親はもう一度紙を見た。値段、量、条件。しばらく黙ってから、ぽつりと言う。


「……悪くない」


 ルーカスが、父親の顔を見た。


「それだけ?」

「悪くないって言っただろ」


 ルーカスは何か言いかけて、飲み込んだ。それから、ふいと横を向く。


 テレーゼは二人を見比べた。何か言った方がいいのだろうか。

 口を開きかけて、やめた。

 たぶん、これは自分が入るところではない。


          ◇


 翌朝、果樹園には新しい箱が一つ置かれていた。

 足元の草は、まだ夜露に濡れている。

 新しいといっても、立派なものではない。使っていなかった木箱の横に、印を書いただけだ。


 加工用。


「これは?」

「向こうへ持っていく分です。ベルタさんに言われた状態のやつ、こっちに分けます」


 ルーカスは枝から実をもぎ、一つずつ確かめては、加工用の箱と、普通に出す箱とに振り分けていく。


 少し離れた木では、父親も同じことをしていた。

 一つ採って、見て、加工用の箱へ入れる。


 ルーカスが、その手元に気づいた。


「親父。それ、ちょっと熟してない?」

「このくらいだろ」

「いや、もう少し早い方が――」

「なら見ろ」


 放られた実を受け取って、ルーカスが指で押す。


「……これならいい。でも次は、もう半日早くてもいいと思う」

「分かった」


 テレーゼは、黙って二人を見ていた。


 昨日まで、木から落ちるに任せていた果物。

 採らない方がいいと言われていた果物。

 その全部ではない。――本当に、ほんの少しだ。

 でも今日は、それを入れる箱がある。


「テレーゼさん。もっと持っていきます?」


 テレーゼは荷車の二箱を見て、それから果樹園を見渡した。

 赤い実は、まだ、たくさん枝に残っている。

 首を振った。


「二箱です。二箱が欲しいって言われましたから!」


 父親が、背中を向けたまま言った。


「悪くない」


 テレーゼは勢いよく振り返った。


「今の、私に言いました?」

「さあな」

「言いましたよね?」

「仕事しろ」

「私、旅商人なので!」

「なら運べ」

「はい!」


 二箱。

 頼まれた分だけを積んだ荷車の取っ手を握って、テレーゼは振り返った。


「行ってきます!」

「行ってらっしゃい」


 ルーカスが笑う。父親は、作業の手を止めないまま言った。


「傷めるなよ」

「はい!」


 テレーゼは荷車を引き出した。


 その後ろ、果樹園の中に、昨日まではなかった「加工用」の箱が一つ残っていた。

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