第8話 次、いつ持ってくる?
翌朝、テレーゼは北通りを歩いていた。
煮詰めた果物の甘い匂いに、足が少しだけ遅くなる。
「大丈夫です」
自分に言い聞かせる。
「今日は、ちゃんと朝ごはんも食べました」
関係あるのだろうか。
「リンゴじゃない朝ごはんを」
なるほど。そこは重要だ。
店の前まで来ると、ベルタがいた。
「おはようございます!」
「来たね」
「来ました!」
「入んな」
「はい!」
今日は止まらなかった。一瞬だけ、息は止めたが。
◇
「それで!」
テレーゼはベルタの前に立った。
「どうでした?」
「何が」
「リンゴです!」
「煮てみたよ」
「それは知ってます!」
「なんで」
「匂いがします!」
「ああ」
「どうでした?」
ベルタは棚を指した。
「そこ」
首を傾げながら見ると、小さな皿が置いてあった。
昨日のリンゴとは違う。形を失うほど柔らかく煮られて、とろりとしている。
「食べてみな」
テレーゼの動きが止まった。
「どうしたの」
「いえ」
皿を見る。甘い匂いがする。
昨日までの食事が脳裏をよぎった。朝もリンゴ、昼もリンゴ、夜もリンゴ。
「食べないの?」
「食べます!」
テレーゼは意を決して、匙ですくって口へ運んだ。
とろりとした果肉が、舌の上でほどけていく。甘い。でも。
「あれ?」
そのまま食べたときとは違う。甘さの中に酸味が残っていて、香りもある。
「美味しいです!」
「そう」
「リンゴなのに!」
「リンゴはたいてい美味しいものだよ」
「でも違います!」
「煮たからね」
テレーゼは、もうひと口食べた。これは食べられる。さらに、ひと口。
「おかわりあります?」
「さっきはあれだけ嫌そうな顔してたのに」
「これは別です!」
「同じリンゴだよ」
「違います!」
「どっちなの」
テレーゼにも、よく分からなかった。
◇
「で」
ベルタが言った。
「次、いつ持ってくる?」
テレーゼの匙が止まった。
「次?」
「昨日のと同じリンゴ。もうないの?」
「あります!」
テレーゼは立ち上がった。
「いっぱいあります!」
「いっぱいはいらない」
「分かってます!」
昨日より成長していた。
「次も、買ってくれるんです?」
「その話をしてるんだけど」
「はい!」
テレーゼは、ぐっと両手を握った。
「持ってきます!」
「いつ?」
「すぐに!」
「すぐっていつ」
「今日!」
「今日はまだ、昨日煮た分がある」
「では明日!」
「明日なら……」
ベルタは少し考えた。
「まあ、いいか」
「分かりました!」
テレーゼは勢いよく頭を下げた。
「聞いてきます!」
「どこに?」
「果樹園に!」
「そう」
「行ってきます!」
そのまま店を飛び出しかけたところで、呼び止められた。
「待ちな」
「はい?」
振り返ると、ベルタが昨日の空箱を指していた。
「それ持ってきな」
「あっ」
「あと」
「はい!」
「昨日みたいに、腐りかけを混ぜないでよ」
「はい!」
「傷は多少あってもいい」
「はい!」
「柔らかすぎるのは、他のと分けておいて」
「はい!」
「分かった?」
「分かりました!」
テレーゼは箱を抱えた。
「行ってきます!」
ベルタは、不意を衝かれたように言葉が出なかった。
また来ます、ではなく、行ってきます。
このテレーゼと言う旅商人は、なんなのだろう。
「うん」
ベルタは愛想の無い声で言った。
「待ってる」
◇
「買ってくれるそうです!」
果樹園へ着くなり、テレーゼは言った。
ルーカスが振り返った。
「本当に?」
「はい!」
「傷のあるやつも?」
「大丈夫です!」
「柔らかいのも?」
「柔らかすぎるのは、別に分けて持って行きます!」
「へえ……」
ルーカスが空箱を覗く。
「煮るんでしたっけ」
「はい!」
「何になるんですか?」
「煮たリンゴです!」
「それは分かります」
「甘くて、こう……とろっとして……」
テレーゼは両手で形を作った。
「美味しいです!」
「食べたんですか?」
「はい!」
「もうリンゴ、食べ飽きたんじゃなかったんですか?」
「これは別です!」
「同じリンゴでしょう」
「それが、違うんです!」
今朝も同じ会話をした気がする。
「それで」
父親がやってきた。
「いくらで?」
「え?」
「向こうはいくらで買ってくれるんだ?」
「たぶん、昨日と同じです!」
「たぶん?」
テレーゼは瞬きをした。
「昨日は、この値段で買ってくれました!」
「今日は?」
テレーゼは答えられない。父親は続けた。
「量は?」
「量?」
「何箱欲しいって?」
テレーゼは空箱に目を落とした。
「この箱で持ってきてって……」
「一箱か?」
返事ができない。
「二箱か?」
やはりできない。
「何箱だ」
テレーゼは父親を見て、ルーカスを見て、もう一度父親を見た。
「聞いてません!」
「だろうな」
「でも次も欲しいって!」
「いつまで?」
テレーゼの口が、開いたまま止まる。
「毎日か?」
止まったままだ。
「何日おきだ?」
目が泳いだ。
「今年ずっと買ってくれるのか?」
一つも答えられないまま、テレーゼは両手で箱を抱え直した。
「聞いてきます!」
「待て」
踵を返しかけたところで止められた。
「はい!」
「また聞きに戻ってくるなよ」
テレーゼが言葉に詰まっているあいだに、父親は指を折った。
「まず、量」
「はい」
「それから、値段」
「はい」
「どんな実なら買ってくれるか」
「はい!」
「いつ持っていくのか」
「はい!」
「いつまで買ってくれるのか」
「はい!」
「それをまとめて聞いてこい」
「分かりました!」
「本当に?」
「今度こそ!」
ルーカスが横から言った。
「リンゴが、何になるのかも聞いてきてください」
父親が、じろりと息子を見る。
「それは商売に必要か?」
「俺が知りたい」
「自分で行け」
「行っていいの?」
「仕事が終わってからな」
ルーカスが目を丸くする。テレーゼは、その顔を覗き込んだ。
「見たいんです?」
「そりゃ見たいですよ」
「自分のリンゴが煮られてるところ」
「はい」
テレーゼは、ぱっと笑った。
「面白いですよ!」
「でしょうね」
「大きい鍋があります!」
「へえ」
「甘い匂いがすごいです!」
「へえ!」
父親が二人を見比べた。
「話が終わったなら仕事しろ」
「はい!」
「なんであんたまで返事するんだ」
◇
テレーゼは町へ引き返した。
今度は、荷車にリンゴを積んでいない。
がらがらと、車輪が軽やかに回る。
「軽いですねえ……!」
速い。
「素晴らしい!」
妙に感動する。
町へ戻る途中、道沿いの家で声をかけた。
「こんにちはー! 旅商人です!」
出てきた女が、荷台を覗いた。
「石鹸ある?」
「あります!」
今度は、果物の箱に塞がれていない。
「手洗いです? 洗濯です?」
「洗濯」
「でしたら――」
売れた。
「ありがとうございます!」
次の家では、紐が売れた。
また荷車を引く。取っ手が、今日はやけに軽い。
「そうでした」
荷車を見る。
「こういう仕事でしたね、私」
◇
「聞いてきました!」
加工屋へ入るなり、テレーゼは言った。
「何を」
「いろいろです!」
「そう」
ベルタは鍋をかき混ぜていた。
「まず、次は何箱買ってくれます?」
「二箱」
「はい!」
テレーゼは紙を出して書きつけた。
「値段は昨日と同じです?」
「同じ状態ならね」
「同じ状態」
「腐ってるのは駄目。多少の傷はいい。柔らかすぎるのは別にしといて。煮るものによっては使う」
「はい!」
書く。
「いつ持ってきます?」
「明日の昼まで」
「はい!」
書く。
「その次は?」
「まだ分からない」
テレーゼが顔を上げた。
「買わないかもしれないんです?」
「売れなきゃね。作った分が売れれば、また作る」
「売れなかったら?」
「作らない」
昨日、ベルタ自身が言っていたことだ。
ここだって、リンゴを買えば終わりではない。その先がある。
煮て、瓶に入れて、それを誰かが買う。
「なるほど……」
テレーゼは紙に何かを書き足した。
「何書いたの」
「売れなかったら、作らない」
「そんなことまで?」
「忘れないようにです!」
「そう」
ベルタは鍋をかき混ぜた。
「まあ」
「はい?」
「昨日のリンゴは悪くなかったよ」
テレーゼの顔が、ぱっと明るくなる。
「いくらか売ってみる。だから、次はまとまった量が欲しい」
テレーゼは紙に書き足した。
「二箱!」
「そう」
「いっぱいじゃなくて!」
「そう」
「二箱!」
「何回言うんだね」
「忘れないようにです!」
「書いているじゃないか」
「それでもです!」
◇
「あの」
紙をしまいかけて、テレーゼは手を止めた。
「何?」
「果樹園の人が、見たいそうなんです」
「何を?」
「ここを」
「なんで」
「リンゴがどうなるのか、気になるみたいで」
「ふうん」
ベルタは少し考えた。
「このリンゴを作ってる人?」
「ルーカスさんです!」
「畑のこと分かる?」
「すごく分かります!」
たぶん。
「自分でいろいろ試してる人で」
「じゃあ連れてきな」
「いいんです?」
「こっちも聞きたいことがある」
「何をです?」
「採る時期。熟し方。どの木も同じなのか。どれくらい採れるのか」
ベルタが指を折るたびに、項目が増えていく。テレーゼは慌てて紙を出した。
「待ってください! 書きます!」
ベルタがもう一度、一つずつ言い直す。
テレーゼはそれを書きつけていった。
採る時期、熟し方、木による違い、収穫量。
書き終えて、紙を見る。
果樹園で聞かれたことと、加工屋で聞かれたことが、いっぱい並んでいる。
テレーゼは、並んだ文字を指でなぞった。
果物を右から左へ運ぶ。それだけだと思っていた。
でも、右にいる人が知りたいことを、左にいる人は知らない。
左にいる人が知っていることを、右にいる人は知らない。
テレーゼは紙を折った。
「分かりました!」
果樹園へ伝えるのは、明日の朝でいい。
その晩、テレーゼは宿の灯りの下で、聞いたことをもう一度紙で確かめた。




