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第7話 足が、前に進みません……

 翌朝、テレーゼは北通りにいた。


「この辺りのはずなんですけどねえ」


 果樹園へ向かう途中で、あの匂いを嗅いだ通り。

 果物を煮ているところがあるらしい、ということしか分からない。

 店なのか工房なのか、何を作っているのか。果物を持っていけば、本当に買ってくれるのか。


「まあ、行けば分かります!」


 テレーゼは荷車を引いて、通りを進んだ。

 パン屋、仕立屋、小さな倉庫、酒を売っている店。


「北通り……北通り……」


 きょろきょろしていると、ふいに甘い匂いが鼻をかすめた。

 足が止まる。


 鼻を動かす。甘い。果物と、砂糖。煮詰めたような、濃い匂い。

 もう一度歩きだすと、少しずつ匂いが強くなる。さらに歩いて、また止まる。


 目の前に、開け放した戸口があった。

 奥から湯気が立っている。

 大きな鍋、木箱、籠。そして、果物。


 テレーゼは荷車の取っ手を握ったまま、動けなくなった。


 昨日の朝、リンゴ。

 昨日の昼、リンゴ。

 昨日の夜、リンゴ。

 今朝も、リンゴ。


 甘い匂いが漂ってきて、胃がきゅっと縮む。


「……なぜでしょう」


 一歩が、出ない。


「足が、これ以上前に進みません……」

「さっきから店先で何やってんの、あんた」

「ヒャア!」


 テレーゼは飛び上がった。


 戸口に女が立っていた。

 40をいくらか過ぎたくらいだろうか。袖をまくり、前掛けをして、手には木べらを持っている。


「用事? 入るの? 入らないの?」

「入ります!」

「じゃあ入りな」

「はい!」


 テレーゼは一歩踏み出した。甘い匂いが押し寄せてきて、また足が止まる。


「入らないの?」

「今から……入っています!」

「どっちなの」

「気持ちは、入ってます!」

「身体も入っておいで」

「はい……!」


          ◇


 中は、店というより工房だった。

 壁際の棚に瓶や壺や木箱が並んでいる。

 奥では大きな鍋が二つ、火にかかっている。別の女が、その鍋をかき混ぜていた。


「ベルタ、こっちはもういい?」


 戸口にいた女が振り向いた。


「まだまだ。も少し火を弱めといて」


 ことこと、ぐつぐつ、と甘い湯気が立ちのぼる。

 テレーゼは、なるべく鍋を見ないようにした。


「それで?」


 ベルタが聞いた。


「何の用?」

「リンゴです!」

「売りに来た?」

「たぶん!」

「たぶん?」

「買ってもらえるか、聞きに来ました!」

「じゃあ、見せて」

「はい!」


 テレーゼは外へ戻り、荷車から箱を運び込んだ。

 売れ残ったリンゴ。傷のあるもの、少し柔らかくなったもの、まだ十分食べられるもの。


 ベルタが一つ手に取った。


「いつ採った?」

「これは……」


 テレーゼは考える。


「3日前です!」

「こっちは?」

「4日前……?」

「なんで疑問形なの」

「いろいろありまして……」

「そう」


 ベルタはリンゴを回し、指で押し、匂いを嗅いだ。

 次、また次。


「これは駄目」

「えっ」


 一つが脇へ置かれる。


「これも」

「どうしてです?」

「ここ」


 ベルタが指したのは、皮の色が変わった部分だった。


「腐り始めてる」

「でも、そこだけを切れば――」

「駄目」


 テレーゼが言葉に詰まる。


「腐ってるのは買わない」

「はい……」


 次の実は、少しへこんでいた。運ぶ途中についた傷だ。


「これは買える」

「え?」


 テレーゼはリンゴを覗き込んだ。


「傷がありますよ?」

「あるね」

「いいんです?」

「煮れば関係ないからね」


 テレーゼは目を見開いた。

 昨日、宿の主人が言った言葉が蘇る。


『どうせ煮ちまうんだろ』


「本当に煮るんですね……!」

「何しに来たの、あんた」

「確認です!」


 ベルタは気にせず、次を取った。


「これは?」

「買える」

「これは?」

「買える」

「これは?」

「駄目」


 テレーゼは、二つに分けられていくリンゴを見つめた。

 売れるものと、売れないもの。

 けれど、昨日までとは分け方が違う。


 市場では見た目の良いものが売れた。傷があれば嫌がられ、柔らかくなれば値段を下げるしかなかった。


「傷があってもいいんですね……」

「程度によるよ」

「でも、腐ってるのは駄目……」

「当たり前だろ」

「確認です!」


 ベルタは比較的きれいな実を一つ選び、小さなナイフで切った。

 一片を口へ入れて、ゆっくり噛む。


「……へえ」


 リンゴを選り分けるあいだは少しも動かなかった仏頂面が、口元だけ、ふっ、とほどけた。


「どうです?」

「酸味が残るね」

「ああ……そういえば」

「いいね」


 テレーゼはベルタの顔を見た。


「いいんです?」

「いいよ」

「甘い方がいいんじゃないんです?」

「そのまま食べるならね」


 ベルタは切り口に目を落とした。


「煮るなら、酸味が残る方が使いやすいこともある。……うん。香りもある」


 もう一切れ口に入れる。


「煮ても消えにくそうだね」


 テレーゼは手元のリンゴを見つめた。

 昨日まで、甘いか、美味しいか、傷がないか。それくらいしか見ていなかった。


「同じリンゴでも、煮ると、違うんですね」

「そりゃ違うよ」


 ベルタは当然のように言った。

 テレーゼはもう一度箱を見て、ぱっと顔を上げた。


「じゃあ!」

「何」

「いっぱいあります! リンゴ!」

「いらない」


 早かった。


「いっぱい、ありますよ?」

「聞いたよ」

「ものすごくあります!」

「いらない」

「安いです!」

「関係ない」


 テレーゼは返す言葉を失った。


 ベルタが奥を指す。大きな鍋が二つ、ぐつぐつと煮えている。


「今日一日で、うちで煮られるのはこのくらい。これ以上は、人も鍋も足りない」


 次に、瓶の並ぶ棚を指した。


「たくさん作ったって、売れなきゃ赤字だし。安いからって、作れる以上に買ったら」


 ベルタは箱の実を一つ取り上げた。


「あたしたちのところで腐らせるだけだよ」


 テレーゼは口をもごもごさせた。


「……いっぱいは、いらない……」

「いらない」


 テレーゼは少し考えた。


「では」

「うん」

「どのくらいなら、いります?」


 ベルタが初めて、少しだけまともにテレーゼを見た。


「今日にかぎって言えば」


 買える方へ分けたリンゴに目をやる。


「このくらいだね」

「これだけ?」

「これだけ」


 少ない。果樹園で採られないまま枝についている量と比べれば、本当にほんの少しだ。

 でも、ゼロではない。


「買ってくれるんですね?」

「値段が合えばね」

「合います!」

「まだ、おたがい値段を言ってないよ」

「あっ」


 ベルタが黙ってテレーゼを見る。


「聞きます!」


          ◇


 値段の話をした。

 テレーゼが果樹園から買った値段と、ベルタが出せる値段。差は大きくない。


 テレーゼは頭の中で計算した。

 町で一つずつ売るより、値段は安い。その代わり、まとめてベルタに渡せる。

 呼び込みもしなくていい。夕方まで立っていなくていい。

 値下げもしなくていいし、売れ残るかどうかを一日中気にしなくてもいい。


 荷車の奥には、針と紐と石鹸がある。

 何日か前、針を買わずに行ってしまった客を思い出した。

 リンゴを手放すのが早くなれば、針や紐や石鹼の客を逃がさずにすむ。


「その値段で、売ります」

「いいの?」

「お願いします!」


 ベルタが代金を払った。

 多くはない。これまでの赤字が消えるほどでもない。


 それでも、テレーゼは受け取った硬貨をしばらく見つめていた。

 売れた。

 昨日までとは、違う売れ方で。


          ◇


「これは?」


 帰る前に、テレーゼは工房の隅の桶に気づいた。

 皮、芯、傷んだ部分。加工の途中で出たものが入っている。


「果物の屑」

「捨てるんです?」

「一部はね」

「一部?」

「家畜を飼っているところが取りに来ることもあるよ」


 テレーゼが、ぐっと身を乗り出した。


「それは――」

「今はそっちを見なさんな」

「はい!」

「一個ずつ。丁寧にやりな」

「はい……」


 ベルタは空になった箱をテレーゼに手渡してから、ふと思い出したように聞いた。


「これ、どこのリンゴ?」

「北の果樹園です!」

「ここから近い?」

「歩いて行けます!」

「同じの、まだあるんだ?」

「あります!」


 テレーゼは即答した。


「いっぱいあります!」

「いっぱいはいらない」


 テレーゼの口が止まる。


「言っただろ」

「はい」


 テレーゼは一度口を閉じて、むん、と考えた。


「では」


 今度は、聞いた。


「次は、どのくらい要ります?」


 ベルタはテレーゼを見て、少しだけ考えた。


「それは、今日、こいつらを煮てみてからだね」

「今日?」

「ああ」


 ベルタは、買った果物の箱を持ち上げた。


「こいつらが使えるかどうかは、まだ分からない」


 テレーゼは目を瞬いた。

 買ってくれた。味も悪くないと言った。酸味もいいし、香りもある、と。

 それでも、まだ分からないらしい。


「明日、また来な。採点結果を教えてあげる」

「はい!」


 テレーゼは元気よく返事をして、店を出た。


 数歩行って、振り返る。

 戸口の奥では、大きな鍋が甘い湯気を立てて、ぐつぐつと煮えていた。

 胃が、きゅっとした。


 テレーゼは前を向いた。


「……明日は、ちゃんと食べてから来ましょう」

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― 新着の感想 ―
りんごの甘さの暴力がビシバシ迫ってきてますね!甘いりんごを、さらに甘く煮詰める……!足が止まるのも仕方がない(笑) そしてテレーゼ!食事代が浮くからといって、そんな偏った食事メニューはいけません(゜…
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