第6話 赤字が減りました!
「原因を考えましょう」
翌朝、テレーゼは宿の食堂で帳簿を前に腕を組んでいた。
昨日の数字は、何度見ても赤字だった。
「売れなかったから……ではない」
売れた。かなり売れた。
「仕入れが高かった?」
首を振る。安かった。
果樹園の父親は、落とすくらいなら、と、かなり安い値段で出してくれた。
テレーゼは帳簿の項目を指でたどった。
宿代、食事代、傷んだリンゴ、売れ残り、値下げ。
「……いっぱいありますね」
赤字になる理由が。
昨日は、仕入れ値と売値の差ばかり見ていた。
安く買って、高く売る。その間に残るものが利益だと思っていた。
でも。
「運んでる間に傷む。これで一つ」
指を折る。
「全部は売れない。二つ。残ったら安くする。三つ。売れ残ったら、もう一晩泊まる。四つ」
テレーゼは眉を寄せ、それから指を一本立てた。
「では……売れ残らないように、一度に持っていく量を減らします!」
昨日は三箱。今日は二箱。
「それから、もっと丁寧に積みます!」
傷物を減らすためだ。
「それから――」
少し考える。
「昨日と違う場所でも売ってみます!」
同じ市場だけではなく、駅に近い通りや宿の多い辺り、働く人の多い場所で、少しずつ試してみる。
「よし」
テレーゼは帳簿を閉じた。
「分かりました!」
ちょうど朝食を運んできた宿の主人が聞いた。
「何が」
「赤字の減らし方です!」
「そうかい」
「今日は勝ちます!」
「何に」
テレーゼは答えられなかった。
◇
「今日は二箱です!」
果樹園へ行くと、ルーカスが空の箱を見た。
「減らすんですね」
「はい!」
「昨日、売れなかった?」
「売れました!」
「じゃあ、なんで減らしたんです?」
「赤字だったからです!」
ルーカスが父親の方を見る。父親は何も言わず、テレーゼを見た。
「売れたんだな?」
「売れました!」
「売れたけど、赤字だったんだな?」
「はい!」
「そうか」
返事はそれで終わりだった。
テレーゼは少し不満になった。
「驚かないんですね」
「昨日言っただろ」
「あ。はい。大赤字だよ、って」
「言ったよな」
テレーゼは唇を尖らせた。
「でも今日は違います!」
「そうか」
「持って行く量を減らします!」
「そうか」
「傷みにくいように積みます!」
「そうか」
「売る場所も変えます!」
「そうか」
父親が『そうか』しか言わないので、テレーゼはルーカスに向き直った。
「もうちょっと、こう、何かありません?」
「頑張ってください!」
「ありがとうございます!」
父親が箱を置いた。
「選別はそっちでするんだぞ」
「はい!」
テレーゼは昨日より慎重にリンゴを見た。
傷、柔らかさ、色。
分からないなりに選んでいると、ルーカスが横から一つ取り上げた。
「これはやめた方がいい」
「どうしてです?」
「ここ」
ルーカスが指で押す。
「もう柔らかい。今日中なら食べられるけど、町まで持ってって売るなら微妙です」
「なるほど……」
テレーゼはそれを箱から外した。
「勉強になります」
「果物は慣れですよ」
「何でもそうですねえ」
昨日より少しだけ、見る目が増えた。
◇
荷車への積み方も変えた。
隙間を減らし、上に重いものを載せず、箱と箱の間に布を挟む。
「これなら!」
昨日ほど重くない。これなら、坂道も少しは楽だ。
「ふふふ。学習してますよ……!」
下り坂でも、昨日のように荷車に押されることはない。ゆっくりと、丁寧に。
「完璧です」
町へ着いて箱を開けると、少しへこんだ実が一つあった。
「……完璧ではないですね」
テレーゼはそれを端へよけた。
◇
その日は、昨日と違う場所でも売った。
駅へ向かう人の多い通りで声を張ると、売れる。
宿屋の並ぶ辺りでも、売れる。
駅へ急ぐ旅人は一つだけ買った。
宿の人は朝食用にまとめて買った。
同じリンゴでも、場所が変われば買う数も変わる。
午後は市場で売った。やはり売れる。
「よし!」
昨日より持ってきた量は少なく、傷も少ない。
売れ残りも、値下げして売る量も減った。
それでも夕方、箱の底には少しだけ実が残っていた。
「まあ、昨日よりはいいです」
宿へ戻って帳簿をつける。
計算して、もう一度計算して、テレーゼは顔を上げた。
「赤字が減りました!」
宿の主人は、離れたところで皿を拭いている。
「聞いてます?」
「聞いてるよ」
「赤字が減りました!」
「なくなった?」
テレーゼは帳簿に目を落とした。
「赤字が減りました!」
「そうかい」
「明日はもっと減らします!」
「減らすのはいいけど、なくならないの?」
「キイイ!」
◇
3日目も二箱にした。
売る場所も、積み方も、値段も少しずつ変えた。
売れた。でも、やっぱり残った。
市場全体に、リンゴが多すぎる。
テレーゼ一人が工夫しても、町にリンゴが余っていること自体は変わらない。
安くて、どこでも売っていて、みんな買う。けれど、毎日いくらでも食べるわけではない。
「……なるほど」
荷車の前で一人の女が足を止めた。
「針はある?」
「あります!」
荷車の奥へ手を伸ばして、テレーゼは止まった。
針の箱は見えている。その手前に、リンゴの木箱があった。
「少しお待ちくださいね。これをどければ……」
箱の縄を解いているうちに、女は駅の時計を見た。
「ごめん、もう行かないと」
「あっ、すぐ出します!」
「また今度にするよ」
女は人混みへ消えた。
テレーゼは、荷車の奥に見えている針と、手前を塞ぐリンゴの木箱を見比べた。
客を一人逃がした。
◇
宿へ戻り、リンゴの数を確かめる。昨日より売れ残りは少ない。
赤字も小さい。でも、利益はない。
テレーゼは赤い実を一つ手に取った。これなら、まだ食べられそうだ。
仕入れた。売れなかった。このまま傷んだら、丸ごと損になる。
しかし。
「食べれば……」
損が、食事になる。
テレーゼの目が、少し輝いた。
◇
翌朝、宿の主人が食堂へ顔を出した。
「朝飯どうする?」
「大丈夫です!」
「いらない、ってコト?」
「はい!」
テレーゼは胸を張って、手の中のものを見せた。
「朝ごはんです!」
リンゴだった。
主人はリンゴを見て、テレーゼを見た。
「それ?」
「はい!」
しゃく、とひと口かじる。
「美味しいです!」
「そうかい」
「しかも!」
しゃく、ともうひと口。
「昨日売れなかったものなので!」
しゃく、とさらにひと口。
「新しく朝ごはんを買わなくて済みます!」
主人は何も言わなかった。
「つまり!」
テレーゼは指を立てた。
「損失を減らしています!」
「そうかい」
「はい!」
朝食はリンゴになった。
昼は、町の荷車の陰に座ってリンゴをかじった。
「お昼です!」
朝も食べたが、まだ美味しい。
「これで食費が――」
しゃく、とかじって、飲み込む。
「減ります!」
素晴らしい。
テレーゼは満足した。
◇
夜。宿の食卓で、テレーゼの前にはリンゴが置かれていた。
「飯は?」
宿の主人に聞かれて、テレーゼはリンゴに目を落とした。
「……晩ごはんです」
「それ、朝も食ってなかった?」
「食べました」
「昼は?」
「食べました」
主人がテレーゼの顔を見る。
「昼もこれ? 晩も?」
「はい」
テレーゼはひと口かじって、黙って噛んだ。
「美味い?」
「……美味しいです」
朝より声が小さかった。
「そうかい」
「はい」
甘い。美味しい。ちゃんと美味しい。それは間違いない。
けれど、昨日までなら嬉しかった赤い実が――今日は見るだけで。
「……お腹いっぱいですねえ」
「そりゃそうだろ」
「まだ5つあるんです」
「食わなきゃいいじゃないか」
「でも!」
テレーゼは顔を上げた。
「売れなかったリンゴを食費に変換しているので、損失を減らしています! これは経費削減です!」
主人は、しばらく黙ってテレーゼを見ていた。
「旅商人さん」
「はい」
「商売って、大変なんだな」
「はい!」
なぜか少し哀れまれていた。
◇
さらに翌朝。
テレーゼはリンゴを見た。リンゴもテレーゼを見ている気がした。
手を伸ばしかけて、止まる。もう一度伸ばして、また止まる。
宿の主人が横を通った。
「食わないの?」
「食べます」
「そう」
「食べますよ」
「うん」
テレーゼはリンゴを取って、かじった。噛む。甘い。飲み込む。
「美味しいです」
「顔がそう言ってないけど」
「美味しいんです!」
美味しい。美味しいことは間違いない。
美味しいことと、食べたいことは、別らしい。
◇
朝、果樹園で二箱仕入れて、市場で売る。
その日の夕方も、やっぱりリンゴは残った。
昨日より少ない。でも、なくなりはしない。
昨日の売れ残りで、食べきれなかったものもある。
テレーゼは宿の裏で箱を見下ろした。
傷のあるものもある。柔らかくなったものもある。
大丈夫。まだ食べられる。
一つ持ち上げて、鼻へ近づけ、また戻す。
宿の主人がやってきた。
「今日もそれ食うの?」
テレーゼは答えなかった。
「朝も食ってたよな」
「はい」
「昼も?」
「はい」
「夜も?」
テレーゼは箱を見つめた。
「その予定でした」
「やめとけば?」
「でも、捨てたら損です」
「全部食う気?」
「……はい」
主人が箱を覗き込んだ。
「これも?」
「はい」
「こっちは傷んでるぞ」
「そこを避ければ――」
「いやいや」
主人は一つ持ち上げた。
「だったら、煮てもらえばいいじゃないか」
テレーゼは顔を上げた。
「煮る?」
「煮てるとこ、この町にもあるだろ。はて、どこだったかな」
主人が首をひねる。
そのあいだに、テレーゼの頭の奥に、果樹園へ向かった朝の匂いが戻ってきた。
甘くて、少し酸っぱくて、何かを煮詰める匂い。
「もしかして、北の通り……?」
「ああ、そうそう。北通りだ」
「あの匂い、果物を煮てたんですね!」
「たぶんな」
主人は箱を指した。
「こういうの、持ってって聞いてみたら?」
「でも」
テレーゼは傷のある実を見た。
「こんなのでも?」
「知らんけど」
主人は肩をすくめた。
「どうせ煮ちまうんだろ」
テレーゼは箱を見た。
宿の主人の言葉と、北通りの匂いと、目の前の売れ残りが、ようやく一つにつながった。
今まで、リンゴはそのまま食べるものだった。
売るのもそのまま売る。買う人もそのまま食べる。
テレーゼの目が、ゆっくりと箱から離れた。
「煮る……」
もう一度、呟いた。




