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第5話 売れたのに、なんでえ!?

 がら、がら、と重い音を立てて、荷車が進む。


「……重いです」


 テレーゼは知っていた。出発する前から知っていた。

 リンゴを三箱も積めば荷車は重くなるし、父親にも「坂があるぞ」と言われた。だから、分かっていた。


「分かっていたんですけどねえ……」


 分かっているからと言って、重いものが軽くなるわけではない。


「よい、しょ……!」


 街道は緩やかな上り坂になっていた。今朝ここを通ったときには、坂だということすら大して意識しなかった。

 今は違う。


「今朝……こんな坂、ありましたっけ……?」


 あった。テレーゼが気にしていなかっただけだ。


 両手で取っ手を握り、身体を前へ倒す。

 一歩、もう一歩。


「ふ……! ぐ……! ぬぬぬ……!」


 少しずつ進む。


 道端の畑で仕事をしていた老人が、こちらを見た。

 テレーゼは姿勢を正した。


「こんにちは!」

「ああ」


 老人が通り過ぎ、その背中が見えなくなる。


「ふぬぬぬぬ……!」


 テレーゼは、また荷車に全体重をかけた。


「ふんぬ――!!」


          ◇


 坂を上りきったところで、テレーゼは止まった。

 息を整える。汗を拭う。そして、荷車を振り返る。

 三箱、ちゃんとある。


「よし」


 ここからは下りだ。楽になる。

 取っ手を握って足を前に出すと、車輪が軽やかに回りはじめた。


「お」


 がらがらと音が速くなる。


「おお」


 速い。


「これは楽《らく》――」


 がらがらがらがら、と音が跳ね上がった。


「ちょっ」


 荷車がテレーゼを押しはじめた。


「待って! 待ってください!」


 荷車は待たない。


「ヒャア!」


 テレーゼは慌てて踏ん張り、取っ手を持ち上げて速度を殺した。

 靴の底が、砂利の上をざりざりと滑る。


「危ない、危ない……!」


 どうにか止まった。

 大きく息を吐いて後ろを見ると、箱は一つも落ちていない。


「よかった……」


 テレーゼは胸を撫で下ろした。


 念のため、一番上の箱を覗く。

 一見、問題はない。

 次の箱を覗いたところで、声が漏れた。


「……あ」


 赤い皮がへこんだ実が一つあった。隣の実に押されたらしい。

 その下には、汁が少し滲んでいるものもある。


 テレーゼはそれを持ち上げた。

 指先が、じっとりと湿った。


「傷んでる……」


 果樹園を出たときには、こうではなかった。

 売れそうなものを選んで積んだのに、運んだだけで傷がついた。

 果物は、ただ荷車に載せれば、そのままの姿で町へ着くわけではない。

 揺れて、ぶつかって、重なり合う。そのうえ坂もある。


「気をつけますって言ったのに……」


 果樹園の父親の顔が浮かんで、少し悔しくなった。

 傷のひどいものを端へよける。残りは大丈夫そうだ。


「まだ、これくらいなら売れます!」


 テレーゼは荷車を引き直し、今度は慎重に下り坂を歩いた。


 そのとき、遠くから聞き覚えのある音がした。テレーゼは前を向いたまま歩いた。


 ポオオオ――ッ!


 線路の向こうに、黒い煙。蒸気機関車が近づいてくる。


 テレーゼは見ないことにした。


 ごうごうと地面を揺らして、汽車が横を走り抜けていく。


「知ってます!」


 思わず叫んだ。


「速いのは知ってますから!」


 汽車は何も答えず、あっという間に遠ざかっていった。


 テレーゼは、がらがらと荷車を引いた。


「いつか乗りますからね……!」


 誰に対する宣言なのかは、本人にも分からなかった。


          ◇


 町へ着いた頃には、日が傾きはじめていた。


「よし!」


 テレーゼは昨日見た市場へ向かった。

 同じようにリンゴを売っている店は多く、やはり安い。それでも客はいる。


 邪魔にならない場所を選んで箱を下ろし、値段を決めた。

 仕入れ値よりは高く、昨日市場で見た値段よりは少し安い。

 もう一度計算して、いける、と頷く。


「よし」


 息を吸う。


「リンゴ、いかがですかー! 美味しいですよー!」


 通りかかった女が、箱を覗いた。


「いくら?」

「一つ、これです!」


 テレーゼが値段を言う。


「安いね」

「はい!」


 女は一つ手に取って眺めた。


「これ、今日の?」

「採ったのは――」


 テレーゼは一瞬考えた。


「昨日です!」

「じゃあ二つ」

「はい!」


 硬貨と引き換えに果物を渡す。


「ありがとうございます!」


 女が去ったあと、テレーゼは手の中の硬貨を見た。

 売れた。


「三つちょうだい」

「はい!」


 また売れた。

 しばらくして、今度は別の客が来る。


「こっちの赤いの、二つ」

「ありがとうございます!」

「五つなら少し安くなる?」

「ええと……」


 頭の中で計算する。


「この値段なら!」

「じゃあ五つ」

「はい!」


 売れる。

 テレーゼの顔が、ぱっと明るくなった。


「売れます!」


 やっぱり、買う人はいた。

 昨日、自分が見た通りだ。リンゴが余っていても、誰もリンゴを食べなくなったわけではない。安ければ買う人はいる。美味しければなおさらだ。


「ほら!」


 思わず言うと、客が振り返った。


「何?」

「あっ、いえ! 何でもありません!」


 テレーゼは慌てて手を振った。

 誰に言ったのだろう。

 たぶん、果樹園の父親に。


「ふふん」


 箱の中身は、ちゃんと減っている。


「いけますよ!」


          ◇


 そのあとも、リンゴは売れた。

 全部ではない。それでも、思った以上に売れた。


 安いから、一度にいくつか買っていく人もいる。

 子ども連れの女。仕事帰りらしい男。

 宿か店で出すのか、まとめて買っていく人もいた。


「ありがとうございます!」


 箱の底が見えてきて、テレーゼは嬉しくなった。

 果樹園で落ちるはずだったリンゴを町へ持ってくる。町の人が買う。

 果樹園にも金が入り、自分にも利益が残る。

 素晴らしい。実に素晴らしい。


 しかし、夕方が近づくにつれて、人通りの様子が少しずつ変わっていった。


「リンゴいかがですかー!」


 通り過ぎる。


「安いですよ!」


 また通り過ぎる。


「美味しいですよー!」

「もう買ったよ」

「あっ、そうですか!」


 市場には、ほかにもリンゴがいくらでもある。

 当然だった。テレーゼだけが売っているわけではない。


 箱を見ると、まだ残っていた。

 持ってきたときよりはずっと少ない。でも、残っている。


「では……」


 テレーゼは値札を書き直し、少し安くした。


「リンゴ、いかがですかー!」


 また売れた。


「よし!」


 もう少し、と思ううちに、夕焼けの色が近づく。

 それでも実は残っていた。


「あと少しだけ……」


 もう一度値段を下げる。売れる。

 けれど、全部はなくならない。


          ◇


「今日はここまでだよ」


 市場の店が片づけを始めた。


「はい!」


 テレーゼも残ったリンゴを箱へ戻した。持ってきたときより、ずっと軽い。

 ちゃんと売れた。かなり売れた。

 財布を持ち上げると、硬貨の重みが手に伝わってきた。


「ふふふ。大丈夫です!」


 残った分は、明日売ればいい。少しくらいなら値下げしてもいい。

 なにしろ今日、これだけ売れたのだから。


 宿へ戻る道で引く荷車は、果樹園を出たときとは比べものにならないほど軽かった。


「軽い! 素晴らしいです!」


 荷車は、売れば軽くなる。

 街道でそう言った自分は、正しかった。


          ◇


 宿の裏に荷車を置き、残ったリンゴを確かめる。

 一つは柔らかくなりかけていて、もう一つは坂道でついた傷が少し広がっていた。


「これは明日の朝、一番に売りましょう」


 その二つを別にしてから、食堂の隅に座って夕食を頼み、帳簿を出した。


「さて」


 財布から硬貨を出して、一枚、二枚と数える。

 口元が緩んだ。

 もう一度数えて、ふふん、と鼻が鳴る。

 ちゃんと売れた。


 まず、売上を書く。次に、果樹園で払った仕入れ代を書いて、差し引く。


「うん」


 まだ残っている。

 当然だ。仕入れ値より高く売ったのだから。

 ここまでは、果樹園で計算したとおりだった。


 次は、今日売れ残った分。


「これは……明日売れます」


 だから、まだ全部が損ではない。

 ただし、売るためには、もう一晩この宿に泊まらなければならない。

 その分の宿代と食事代も書く。

 それから、傷んで売れない分。値下げした分。


 計算して、テレーゼの手が止まった。


 もう一度、売上を数える。一枚、二枚、三枚。


「合ってますね」


 帳簿へ戻る。仕入れも、宿代も、食事代も、合っている。

 テレーゼは首を傾げ、指で数字を追いながら、最初から計算をやり直した。


 おかしい。


 今日一日、ちゃんと売れた。

 お客さんも来た。

 箱の中身は減って、財布には金が入った。

 なのに。


「……赤字?」


 小さく呟く。

 そんなはずはない。


 もう一度計算しても、答えは同じだった。


 テレーゼは帳簿を持ち上げた。裏を見る。何もない。

 表に戻す。数字は変わっていない。


 売れた。売れたのに。


 テレーゼは帳簿を睨んだ。帳簿もテレーゼを睨み返しているような気がした。


「……なんで?」


 もう一度計算する。やっぱり、赤字だった。


 テレーゼは両手で頭を抱えた。


「売れたのに――」


 そして。


「なんでえ!?」


 宿の食堂に、テレーゼの声が響いた。

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― 新着の感想 ―
赤字になる可能性は考えていたけど、まさかこんな結果になるとは!?(笑) リンゴはちゃんと売れたし、仕入れ値より高く売れた!荷車も軽くなった!なのに帳簿をつけたら赤字……商売って難しいですね(;・∀・…
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