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第4話 大赤字だよ

「あっちの列を見てみろ」


 父親が指した先は、果樹園の端に近い一列だった。他と同じように、枝には赤い実がたくさんついている。


「……リンゴですね」

「リンゴだな」

「いっぱいあります」

「あるな」


 テレーゼは父親の顔を見た。


「それが?」

「採ってない」


 もう一度、その列を見る。


 確かに。

 さっきまで見ていた辺りには籠や木箱が置かれ、人がいて、採った実が積まれていた。

 けれど、あの列には誰もいない。


「後で採るんです?」

「採らん」


 テレーゼは枝いっぱいの実を見つめた。


「どうしてです?」

「採った方が損だからだよ」


 意味が分からなかった。

 テレーゼは、かなり分かりやすく首を傾げた。


 父親がため息をつく。


「嬢ちゃん」

「テレーゼです」

「テレーゼ」

「はい」

「あれ、誰が採る?」

「え?」

「木になってる実は、自分で勝手に箱に入らんだろ」

「それは……はい」

「人を使って採る」


 父親が指を折った。


「採ったら、売れる実と売れない実に分ける。箱に詰める。荷車に載せる」


 そこでテレーゼを見る。


「町まで持っていく」

「はい」

「町へ着いたら売る」

「はい」

「売れなきゃ持って帰る」

「……はい」

「持って帰る間にも、リンゴは傷む」


 テレーゼの返事が、そこで途切れた。


「で、今年の値段だ」


 父親が足元の実を拾った。


「やること全部やって客に売っても、こいつ一個からいくら残ると思う?」


 テレーゼは昨日の市場を思い出した。

 山積みの果物と、驚くほど安い値段。それを買っていく客。


『豊作すぎるんだよ』


「でも……」


 テレーゼは言った。


「採らなかったら、これは?」

「落ちる」

「落ちたら?」

「腐る」

「腐る」

「それか、あいつらが食べる」


 父親が顎で示した先に、豚の親子や羊やガチョウがいた。

 なんともったいない。


 顔に出たらしい。父親が言った。


「もったいないだろ」

「はい」

「俺もそう思うよ」

「だったら――」

「だからって、もっと手間暇かけて採って、もっと損したら意味がない」


 テレーゼは黙って木を見た。


 赤い実がある。ちゃんと美味しい。

 採って売るために育てた。なのに、採らない。


 傷んだものや売れ残ったものが捨てられているのなら、今までのテレーゼにも分かった。

 だけど、これは違う。まだ商品になれるものが、木についたままになっている。


「豊作すぎる……」


 ぽつりと言った。

 昨日市場で聞いた言葉が、少しだけ、テレーゼの目に見える形になった。


「そういうことだ」


「でも、今年のは出来がいいんだよ」


 それまで黙っていたルーカスが、口を開いた。


「知ってるよ」


 父親が答える。


「去年よりいい」

「知ってる」

「香りも強いし」

「知ってるって」

「じゃあ――」

「だから腹が立つんだよ」


 ルーカスが黙った。


 父親は手の中のリンゴに目を落とした。


「出来の悪い実なら、落としときゃいい」


 土のついた袖で、表面を軽く拭う。赤い皮が、鈍く光った。


「今年のは売り物になる。売り物になるのに、売ったら割に合わん」


 父親はリンゴをルーカスへ放った。ルーカスが受け取る。


「ほら」

「何」

「食え」

「なんで」

「もったいないんだろ」

「そういう話じゃないだろ」


 テレーゼは二人を見比べた。どうやら、今まで何度か似た話をしているらしい。


「そのリンゴも、さっき言ってた新しいやつです?」


 テレーゼが聞くと、ルーカスがこちらを向いた。


「ああ。これは違います。俺のは向こう」

「見てもいいです?」

「もちろん」

「おい」


 父親が呼び止める。


「仕事しろよ」

「分かってるって」


 言いながら、ルーカスはもう歩き出していた。テレーゼもついていく。


 数列先に並ぶ木は、他より少し若く見えた。


「これです」

「へえ……」


 正直なところ、テレーゼには違いがよく分からない。


「何が違うんです?」

「実がつくまでが――いや、それより」


 ルーカスは枝を持ち上げた。


「今年の見てください。粒が揃ってるでしょう」

「……揃ってます!」


 言われてみれば、分かる。


「それに、昔からある木より病気が出にくくて」

「すごいですね!」

「でしょう?」


 ルーカスの顔が明るくなる。

 そこへ後ろから、父親の声が飛んできた。


「テレーゼ。その話、長くなるぞ」

「いいだろ、別に」

「その話、何人にした」

「数えてない」

「俺は聞き飽きた」

「親父には話してないだろ」

「聞こえてくるんだよ」


 テレーゼは笑った。


「でも、すごいじゃないですか。自分で作ったんですよね?」

「作ったっていうか……何年も試して、駄目なのもいっぱいあったけど」


 ルーカスは木を見上げた。


「今年、やっとまとまって採れたんです」


 手袋の指先が、枝をそっと撫でる。


 少し間を置いて、


「……親父、喜ぶと思ったんだけどな」


 と言った。


「え?」

「毎年、今年も駄目だったのか、って顔してたから」

「そんな顔してない」


 後ろから父親。


「してたよ」

「してない」

「してた」

「仕事しろ」

「ほら、そういうとこ」


 父親は相手にせず、歩いていった。


 けれど、さっき言っていた。

 今年のは出来がいい。知ってる、と。

 何度も。


 テレーゼは父親の背中を見て、それからルーカスを見た。


「……難しいですねえ」

「何がです?」

「いえ」


 テレーゼにもよく分からなかったので、それ以上は言わなかった。


          ◇


 昼を過ぎて、テレーゼは果樹園を出ようとした。


 ルーカスの紐のほかにも、働いている人たちがいくつか品物を買ってくれた。商売としては悪くない。


「ありがとうございました!」

「ああ」


 父親が答え、ルーカスも手を振った。


「また来たら寄ってください」

「はい!」


 テレーゼは荷車を引き出した。


 数歩行って、止まる。


 振り返ると、赤い実をつけた木と、その根元に落ちた実が見えた。


 昨日の市場。山積みのリンゴと、安い値段。

 それでも、客はいた。買っていた。


 テレーゼは荷車の取っ手を握ったまま、考えた。

 果樹園では、採ると損をするから採らない。

 町では、リンゴが安かった。父親が腹を立てるほど安い。

 けれど――


『おじさん、これ三つ』


 買っていく人たちはいた。


 テレーゼは荷車の向きを変えた。

 がらがらと車輪が鳴り、ルーカスがこちらに気づく。


「忘れ物ですか?」

「いいえ!」


 テレーゼは父親のところまで戻った。


「あの!」

「何だ」

「このリンゴ、売れないでしょうか?」


 父親が周りの木を見回した。


「売れないって話を、今までしてたんだが」

「町で売るんです!」

「町でも余ってるぞ」

「知ってます!」


 父親が少し眉を上げた。


「値段も安い」

「それも見ました!」

「なら――」

「でも!」


 テレーゼは言った。


「買ってる人もいました」


 父親が口をつぐむ。


「安かったです。でも、誰も買ってないわけじゃありません」


 昨日の市場を思い出す。


「三つ買った人がいました。私も一つ買いました」

「お前も買ったのか」

「美味しかったです!」

「そうか」

「だから――」


 テレーゼは木を見た。


「ここで落ちてしまうくらいなら、町へ持っていけば、少しは売れるんじゃないです?」


 父親はすぐには答えなかった。


 ルーカスは、


「俺もそう思う」


 と言った。


「お前は黙ってろ」

「なんでだよ」

「お前が入ると話がややこしくなる」

「ならないよ」

「なるんだよ」


 父親はテレーゼに向き直った。


「で?」

「はい」

「誰が町まで運ぶ」


 テレーゼは自分の後ろを見た。

 荷車には空いた場所がある。朝より商品も減っている。

 テレーゼは胸を張った。


「私が運びます!」


 父親も荷車を見て、それからテレーゼを見た。


「どれだけ積んでいく」

「いっぱいです!」

「いっぱいじゃ分からん」


 どこかで聞いた。


「じゃあ、試してみます!」


          ◇


 一箱。


「まだいけます!」


 二箱。


「大丈夫です!」


 三箱。


 テレーゼが荷車を見る。

 父親も見る。

 ルーカスも見る。


「もう一箱いけるんじゃ?」


 ルーカスが言った。


「お前が引くわけじゃないだろ」


 父親が言う。


「二箱に減らそう」

「三箱でやってみます!」


 テレーゼは元気に言った。

 父親がため息をつく。


「途中、坂があるぞ」

「大丈夫です!」

「揺らしたら、実が傷むぞ」

「気をつけます!」

「売れ残ったら?」


 テレーゼの口が止まった。


「売れ残ったら?」


 もう一度聞かれる。


「……売ります!」

「答えになってない」


 ルーカスが横を向いた。肩が揺れている。


「笑いました?」

「いや」

「笑いましたよね?」

「笑ってないです」

「お前は黙ってろ」

「なんで俺まで」


 父親は箱の中の実を一つ取った。


「やるなら、勝手に持っていかれちゃ困る」

「もちろんです!」

「売り物だからな」

「はい!」

「ただし、町へ普通に卸しているのと同じ値じゃ、テレーゼに売る意味がない」

「……はい」


 テレーゼは少し緊張した。ここからは商売だ。


 父親はしばらく考えてから、ぼそりと言った。


「このまま落とすくらいなら、安くても売るか」


 父親が値段を言う。

 テレーゼの目が動いた。

 頭の中で計算する。昨日、市場で見た値段と、今、父親が言った値段。

 差がある。ちゃんとある。


「その値段でいいんです?」

「その代わり、選別はそっちでやってくれ」

「選別?」

「自分の目利きで持って行け。うちは手伝わん」

「なるほど……」


 果樹園側は手間をかけないぶん、安くする、ということらしい。


 テレーゼは箱を見て、市場の値段をもう一度思い出した。

 もう一度計算する。今夜の宿代と食事代も引いた。

 三箱全部を、昨日見た値段より少し安くして売っても、わずかだが利益は残る。


「いけます」

「本当か?」

「はい!」


 仕入れた値段より高く売れる。しかも、あの値段なら買う人がいることを、昨日この目で見ている。


「やります!」

「本当に?」

「やります!」


 テレーゼが財布を出すと、父親が少しだけ意外そうな顔をした。


「今、払うのか」

「仕入れですから!」

「……そうか」


 金を数えて渡し、父親もそれを確かめる。

 これで、荷車に積まれたリンゴは、テレーゼの商品になった。


「よぉし」


 テレーゼは腕まくりをして、荷車の取っ手を握った。


「では!」


 力を込める。

 荷車は動かなかった。

 もう一度。


「ふんっ!」


 少しだけ、動いた。


 父親が言った。


「やめるなら今だぞ」

「やめません!」


 ルーカスが後ろから押してくれた。


「最初だけ手伝います」

「ありがとうございます!」

「坂は、自分で頑張ってください」

「はい!」


 がら、がら、と荷車が動き出す。


「よし……!」


 道へ出たところで、テレーゼは振り返った。


「行ってきます!」

「え。どこに」

「町です!」

「テレーゼさん。ここに帰ってきそうだなあ」


 ルーカスが笑った。

 父親が後ろから声をかけた。


「おい」

「はい?」

「売れなくて持って帰ってきても、返品は受けないからな」

「大丈夫です!」


 テレーゼは元気よく答えた。


「行ってきます! 売ってきます!」


 父親は何も言わなかった。ルーカスが、また笑った。


 テレーゼは前を向いた。

 町までの道のりと、来たときよりずっと重い荷車。

 でも、仕入れた。売る場所も、値段も見ている。

 買っている人も見た。ちゃんと考えた。


 勝算は、ある。


「ふふふ」


 テレーゼは笑った。


「これは、いけますよ……!」


 リンゴを満載した荷車を引いて、テレーゼは町へ向かった。

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