第1話 汽車、いいですねえ……
「多いな」
ヨハンが言った。
荷台の縄を締めていたテレーゼは、ぴたりと手を止めた。
「何がです?」
「荷物」
「はい!」
「増えたな」
「はい!」
「……褒めてないけど」
《ひなぎく亭》の裏手に置かれているのは、小さな二輪の荷車だった。
新品だった木の板には、テレーゼの荷造り作業のせいで、もう細かな擦り傷がいくつもついている。
その荷台に、布、石鹸、針、紐、ちょっとした日用品。
それから、旅先で売れそうだとテレーゼが見込んだ品々が、隙間なく積み込まれていた。
革鞄一つで出かけた前の旅とは、ずいぶん違う。
テレーゼは腰に手を当てた。
「前の旅で、分かったんです」
「何が」
「お客様が欲しいものって、人によって全然違うんですよ!」
「うん」
「ですから――」
テレーゼは胸を張って、荷車いっぱいの商品を誇らしげに示した。
「いろいろ持っていけばいいんです!」
ヨハンは荷車を見て、テレーゼを見て、もう一度荷車を見た。
「……これを、引けるの?」
「もちろんです!」
「そう」
止めはしなかった。それはそれで、テレーゼには少し面白くない。
「もっとこう、頼もしいですね、とかないんです?」
「まだ引いてないから」
「引けますよ!」
「そう」
「引けますからね!」
「分かったって」
工房へ戻っていくヨハンの背中に向かって、テレーゼは頬をふくらませた。
そこへ、《ひなぎく亭》の勝手口からマルタが顔を出した。
腰に差した布巾で手を拭きながら、荷台の隅に置いた包みを顎で示す。
「テレーゼ。昼の分、入れておいたよ」
「ありがとうございます!」
「今度は何日くらい?」
「まだ分かりません!」
「相変わらずだねえ」
マルタは笑った。
何日になるのか、テレーゼ自身にも本当に分からない。
決まっているのは行き先だけだ。郡都から街道を東へ1日半ほど行ったところに、このところ急に大きくなっている町がある。
つい数年前、そこに鉄道の駅ができた。それから旅人が増え、荷物が増え、宿や店も次々に増えたらしい。
昨日、《ひなぎく亭》でその話を聞いたとき、テレーゼは即座に聞き返した。
「人が増えた?」
「そうらしいね。駅の周りなんか、昔とは全然違うって――」
「じゃあ、たくさん売れるってことです!?」
それで行き先が決まった。旅商人の目的地というのは、案外そんなふうに決まるものらしい。
「じゃあ、行ってきます!」
テレーゼは旅帽子をかぶり、革鞄を斜めにかけて、荷車の取っ手を握った。前の旅に出たときより、ずっと手際がいい。
「行ってらっしゃい」
マルタが手を振る。店の奥からは、オットーの「気をつけてな」という声がした。
工房の戸口まで戻ってきたヨハンも、もう一度荷車に目をやった。
「全部売れなくても、帰って来いよ」
「全部売ってきます!」
「無理すんな」
「大丈夫です!」
「うん」
ヨハンは一度口を閉じた。それから、付け足すように言う。
「行ってらっしゃい」
「はい!」
テレーゼは元気よく荷車を引き出した。
「行ってきます!」
夏の終わりが近い街道には、まだ強い日差しが落ちている。
がらがら、と車輪を鳴らして、テレーゼは機嫌よく歩いた。
郡都の家並みが、少しずつ後ろへ遠ざかっていく。
しばらく歩いたところで、ぽつりと声が出た。
「……重いですね?」
返事はない。当然だった。
今さら《ひなぎく亭》に向かって言っても、誰にも聞こえない。
振り返ると、さっきまであれほど頼もしく見えた商品の山が、急に、自分を苦しめる重石の寄せ集めに見えてきた。
「いいえ」
テレーゼは取っ手を握り直した。
「前よりたくさん運べるんですから!」
それは間違いではない。鞄を肩に掛けて歩いていた前の旅とは、比べものにならない量だ。便利にはなった。
「多少重いくらいは――」
そこで、道が上り坂になった。
がら、がら、と車輪の音が急にゆっくりになる。
「……多少?」
たいした勾配ではない。馬車なら気にも留めない坂だ。
けれど、自分の腕で荷車を引く者にとっては話が違った。
取っ手が、手のひらにじわりと食い込んでくる。
「ふ、ふふ」
テレーゼは不敵に笑った。
「これくらい……!」
一歩。
「ぜんっぜん……!」
また一歩。
「平気、です……!」
坂を上りきったところで、テレーゼは道端に荷車を止め、膝に手をついて息を整えた。
両腕が、肘から先だけ誰かに借りてきたもののように重い。
「次からは、もう少し……」
言いかけて、首を振る。
「いえ。売れば軽くなります!」
解決した。
たぶん。
そのとき、遠くで低い音がした。
顔を上げると、街道の向こう、林の切れ間に黒い煙が昇っている。
「……あ」
音が近づいてくる。
地面を震わせるような響きに、規則正しい金属音が重なって――
ポオオオオ――ッ!
「わっ!」
テレーゼは思わず旅帽子を押さえた。
街道と並んで走る線路の上を、巨大な蒸気機関車が駆け抜けていく。
黒い車体が白い蒸気を吐き、連なった車両の窓の向こうには、人の姿も荷物も見えた。
熱い風が、テレーゼの頬を打つ。
石炭の煙の匂いが、鼻の奥をつんと刺した。
テレーゼが朝から一生懸命歩いてきた道のりを、汽車は凄まじい速さで抜けていく。
長い汽笛が遠ざかり、煙だけが空に残っていた。
テレーゼはしばらくその場に立っていた。
それから自分の荷車に目を落とし、黙ってまた歩き出した。
「汽車、いいですねえ……」
車輪が、がらがら、と返事をする。
「乗りたいですねえ……」
誰も答えなかった。
◇
それでも、歩けば、着く。
翌日の昼前、長い坂を下りきったところで、目の前に町が現れた。
「おお……」
思わず声が出た。
聞いていたより大きい。
いや、町そのものが巨大なわけではない。ただ、動いている。
建てかけの家。
新しく敷かれたらしい道。
資材を運ぶ荷車。
駅へ急ぐ人々。
旅装の男に、大きな荷物を背負った労働者。
馬車、商人、宿の看板、食堂から流れてくる匂い。
木槌の音が、あちこちで響いている。
遠くには駅舎の屋根が見え、また汽笛が鳴った。
「すごい……」
昨日の坂道で棒になった脚に、じわりと血が通い直した気がした。
人がいる。それも、たくさん。
前の旅で知ったことがある。
商品を持っているだけでは売れないし、いい品だと説明するだけでも売れない。
相手が何を欲しがっているのかを聞き、何に使うのかを聞き、その人に合うものを探す。
そうして、やっと売れる。
だったら、これだけ人がいる町には、何かを欲しがっている人も、それだけたくさんいるはずだ。
テレーゼは荷車の取っ手を握り直した。
さっきまでは、ただ重かった荷物が、また商品に見えてくる。
「これは――」
町へ向かって、一歩踏み出す。
「売れますよ!」
がらがら、と荷車を鳴らしながら、旅商人テレーゼは新しい町へ入っていった。
読んでくださって、本当にありがとうございます。
テレーゼの第二の旅が、始まりました。
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