第11話 また頼むよ、行商人さん
「忘れてましたあああああ!」
針。針だ。
この町へ来る途中、畑の脇で籠を抱えていた女に頼まれていた。
『丈夫な針があったら、買ってきてくれないかね』
テレーゼは、床に広げた商品を見下ろした。
石鹸、櫛、布、小物。
まだ、いろいろ残っている。
全部売って帰るつもりだった。出発するときだって、そう言った。
『全部売って帰ってきます!』
けれど、全部は売れていない。
もう少しこの町にいれば、まだ売れるかもしれない。
今日だって、香水が1本売れた。明日は、もっと売れるかもしれない。
でも。
待っている人がいる。
テレーゼは少し考えてから、口に出してみた。
「帰りましょう」
声にすると、足の裏が、床にぴたりと着いた気がした。
もう一度、頷く。
「帰りましょう!」
この町での商売を、終えることにした。
全部は売れなかったけれど、それでも帰る。
「その前に、針です!」
勢いよく、立ち上がる。
「丈夫な針!」
3歩進んだところで、足が止まった。
振り返っても、もちろん部屋には誰もいない。
「…………何に使う針でしたっけ」
それは、聞いていなかった。
◇
「針って、何種類あるんです?」
翌朝。
針を扱う店の主人は、じろりとテレーゼを見た。
「何に使うんだ」
「丈夫な針です!」
「だから何に使う」
テレーゼは答えに詰まり、主人は答えを待った。
店の中が、妙に静かになった。
「分かりません!」
「帰れよ」
「待ってください!」
追い出されそうになって、慌てて台にしがみつく。
「頼まれたんです!」
「誰に」
「街道沿いの農家のおばさんに」
「何を」
「丈夫な針を」
「だから、何に使うんだ」
「それを聞き忘れたんです!」
主人は、深いため息をついた。
「針なんて、使い道でみんな違う」
そう言いながら、台の上にいくつか並べてくれる。
細いもの。太いもの。長いもの。短いもの。
「普通の縫い物ならこれ」
「はい」
「厚い布ならこっち」
「はい」
「袋物なら、これくらい太いほうがいい」
「はい」
「革を縫うなら、また違う」
テレーゼは、並んだ針をまじまじと見つめた。
「全部、針なのに」
「お前、商人なんだろ」
「はい!」
「じゃあ」
主人は、テレーゼの鞄から覗いている櫛を指差した。
「櫛なら、どんなもんでも使えば同じか?」
「違います!」
「そういうことだ」
「なるほど!」
分かりやすい。
「農家なんだな?」
「はい」
「どんな農家だ」
「畑があって」
「そりゃ農家だからな」
「袋がありました!」
「何の」
テレーゼの口が、開いたまま止まった。
「見てないのか」
「はい……」
「家畜は」
「いました!」
「何がいた」
テレーゼは、そっと目を逸らした。
「本当に見てたのか」
「おばさんと喋ってました!」
「そうかよ」
主人が、額を押さえた。
今なら、分かる。聞けばよかった。
何を縫うのか。どんな針が欲しいのか。今使っている針は、どうして駄目なのか。
あのときは、
『丈夫なのー!』
『分かりましたー!』
で、終わってしまった。
主人が、並べた針を指した。
「どうする?」
「うーん……」
一つに決めるのは、無理だ。何に使うか、分からないのだから。
「この3つ」
「3つ?」
「はい」
テレーゼは、順に指を差した。
「普通の縫い物にも使える丈夫なものと、厚い布用と、袋物に使えるもの」
「全部売るのか?」
「いえ」
首を、振る。
「持っていって、選んでもらいます」
「残りは?」
「私が持っておきます」
「売れなかったら?」
少し考えてから、テレーゼは顔を上げた。
「欲しい人が見つかるまで、探します!」
主人の口の端が、少しだけ上がった。
「そうか」
「はい!」
「じゃあ持ってけ」
「ありがとうございます!」
代金を払い、針を1本ずつ布に包んでもらって、鞄へ入れる。
店を出かけたところで、振り返った。
「あの」
「まだ何かあるのか」
「次からは、何に使うか聞きます」
「そうしなよ」
市場を出る前に、隣の乾物売りに挨拶をした。
「帰るのかい」
「はい!」
「次は、市場の外でネギを仕入れてからおいで」
「もうネギは売りませんよう!」
「どうだか」
女は笑い、目の前の客のために、乾燥豆を量りはじめた。
◇
あの雑貨屋は、開店していた。
店の中では、女店主と商品を手にした女性客たちが話をしている。
楽しそうな笑い声が転がってくる。
出足は上々のようだ。
道を歩く若い女が、目を向ける。くん、と鼻を動かして、少し考え、そして店の中へ歩みこむ。
テレーゼはしばらく雑貨屋を見ていた。
女店主に挨拶をしたかったが、いつまでも客が途切れない。
声をかけたら、接客の邪魔になりそうだ。
旅帽子を脱いで、店に向かって頭を下げる。
そして宿の方に歩き出した。
◇
「帰るんですか?」
宿へ戻ると、マリーが言った。
「はい!」
「急ですね」
「急ではありません!」
「昨日まで何も言ってなかったでしょう」
「昨日、決めました!」
「それを急って言うんですよ」
「……なるほど!」
テレーゼは、荷物をまとめはじめた。
来たときより、少しだけ軽い。本当に、少しだけ。
「全部売れたんです?」
テレーゼの手が、止まった。
「全部は……」
「じゃあ、もう少しいればいいのに」
「それも考えたんですけど」
鞄の中に、目を落とす。布に包んだ針が入っている。
「帰り道に、待ってる人がいるので」
マリーは少し目を丸くして、それから笑った。
「そうですか」
「はい」
「じゃあ、帰らないとですね」
「はい!」
マリーは、荷造りを少し手伝ってくれた。
「これは?」
「石鹸です」
「これは?」
「櫛です」
「これは?」
「売れ残りです」
「全部そうじゃないんですか」
「言わないでください!」
鞄の金具を留めて、立ち上がる。
この町にいたのは、ほんの数日だった。
なのに、少し寂しい。
「マリーさん」
「はい」
「お世話になりました」
「こちらこそ」
「ご飯、美味しかったです!」
「お父さんに言ってください」
「ご主人!」
テレーゼは、厨房へ向かって声を張りあげた。
「ご飯、美味しかったです!」
「うるさい!」
「ありがとうございます!」
「聞いてないな、お父さん」
マリーが笑った。
厨房から、主人が顔を出した。
「嬢ちゃん」
「はい?」
「次に来たときは、もうちょっと静かに食え」
「努力します!」
「無理そうね」
「マリーさん!」
三人で、笑った。
テレーゼは、鞄を肩に掛けた。
「マリーさん」
「はい」
「結婚、おめでとうございます」
マリーが、少しだけ照れたように笑った。
「ありがとう」
「新しい人、いい人だといいですね」
「まだ、採用するか決まってないけどね」
「マリーさんが選ぶんですもの。きっと大丈夫です!」
「お父さんも一緒に選ぶのよ」
テレーゼは、口をつぐんだ。
顔には、しっかり出ていたらしい。
「何、その顔」
「いえ。ちゃんと相談してくださいね!」
「誰のせいで、あんなに揉めたと思ってるんです?」
「……半分くらいは、ご主人のせいでは?」
「嬢ちゃん?」
「出発します!」
逃げた。
◇
門を抜けて、街道へ出る。
テレーゼは、振り返った。
数日前、初めて見た町。
香水が一つも売れなかった町。
ネギを売って赤字になった町。
石鹸を半分に切った町。
鋏を買いに走った町。
マリーと、その父親に出会った町。
そして、初めて香水が1本売れた町。
帽子を、押さえる。
「また来ます!」
誰に言うでもなく言って、歩き出す。
鞄は、重かった。
来たときよりは軽い。でも、やっぱり重い。
「次は、もっと減らしましょう……」
一つ、学んだ。
◇
帰り道は、少し違って見えた。
道そのものは、同じだ。畑も、林も、小さな橋も、来たときに休んだ木陰も、何も変わっていない。
それなのに。
「あ」
あそこ。
行きに、農家の女と話した畑の脇だ。
「あっ!」
いた。
畑の端に、見覚えのある女が立っていた。
「おばさーん!」
テレーゼは、大きく手を振った。
女が、顔を上げる。
「ん?」
「おばさーん!」
女は目を細めて、しばらくこちらを見ていた。
「ああ!」
ようやく、気づいたらしい。
「針の嬢ちゃん!」
「はい!」
走った。
肩に掛けた鞄が、腰にばんばん当たる。
「重っ!」
途中から、歩いた。
「お久しぶりです!」
「何日も経ってないよ」
「そうでした!」
「売れたかい?」
「売れました!」
「そりゃよかった」
「全部ではありません!」
「そうかい」
「でも、売れました!」
「よかったじゃないか」
「はい!」
テレーゼは、鞄を下ろした。
「それで!」
「ん?」
「針です!」
「おお」
女の目尻に、皺が寄った。
頼んだことを覚えていてくれた。それ自体が、嬉しそうだった。
その顔を見て、テレーゼの喉の奥が、ちくりとした。
昨日まですっかり忘れていたことは、もちろん、言わないでおこう。
「何に使う針なのか、聞くのを忘れていたので」
言ってしまった。
「ははは!」
笑われた。
「それで」
テレーゼは、布包みを3つ取り出した。
「いくつか持ってきました」
「いくつも?」
「はい。これが普通の縫い物にも使える丈夫なもので、これが厚い布で、こっちが袋物に――」
「ああ、これだよ」
「え?」
女が、1本をつまみ上げた。
「これこれ」
「袋物のですか?」
「そう。穀物袋を直すんだ」
「穀物袋!」
テレーゼは、天を仰いだ。
あのとき、女の足元に置いてあった、口を縛った大きな袋。
「聞けばよかった!」
「今さらだねえ」
「はい……」
女は、針を指先で確かめた。
「うん。いいね。今使ってるのが曲がっちまってさ」
「曲がったんですか?」
「何度か戻したんだけど、もう駄目でね」
「それを先に聞いていれば……!」
「だから今さらだって」
「はい……」
それでも、合うものがあった。
「これ、くださいな」
「はい!」
値段を言おうとして、止まった。
いくらだろう。
仕入れ値は分かる。それより安く売ったら、また赤字だ。それは、石鹸で学んだ。
でも、いくら乗せればいいのか。自分は、町で買ってきただけだ。
「いくらだい?」
「ええと……」
テレーゼは、仕入れ値に少しだけ足した金額を言った。
女が、眉を上げた。
「それだけ?」
「はい?」
「町まで行って買ってきたんだろ?」
「はい」
「帰りに持ってきた」
「はい」
「だったら、これで」
手のひらに、硬貨が載せられた。
「多いです」
「いいんだよ」
「でも」
「私が町まで行ったら、一日潰れる。やらなきゃならない畑仕事もあるしね」
女は、針を布に包み直した。
「欲しいものを代わりに買ってきてもらえるなら、その分は払うよ」
テレーゼは、手の中の硬貨を見た。
針の値段より、多い。
「でも私、帰るついでですよ?」
「私には関係ないよ。私は町まで行かずに済んだ。それでいいじゃないか」
女は、あっさりとそう言った。
テレーゼの耳の奥で、別の声がよみがえった。
『探し歩かずに済んだ分なら、その値段でいい』
あの仕立屋は、テレーゼの言った値段を払った。
今度は、それでは少ないよ、と言われた。
硬貨を見て、それから、女の手にある針を見る。
「どうしたんだい?」
「いえ」
テレーゼは、笑った。
「商売って、いろいろあるんですね」
「そりゃあるだろうよ」
「はい!」
女には、当たり前のことらしい。
テレーゼには、新しかった。
「そうだ」
女が言った。
「今度、またこの道を通るかい?」
「はい!」
即答した。
まだ、次の旅先すら決まっていない。それでも。
「通ります!」
「じゃあ、町へ行くとき声かけておくれ」
「はい?」
「何か頼みたいものがあるかもしれないから」
テレーゼは、思わず女の顔を見返した。
「ちゃんと、今度は何に使うか聞くんだよ」
「聞きます!」
「ははは」
女は笑って、それから言った。
「また頼むよ、行商人さん」
テレーゼの瞬きが、止まった。
行商人さん。
出発した日、旅商人だと、自分から名乗った。まだ、何一つ売ったことがないうちに。
『今日から旅商人なんです!』
今度は、人から呼ばれた。
「…………はい!」
大きく、頷く。
「お任せください!」
「そこまで大層なもんじゃないよ」
「旅商人テレーゼに、お任せください!」
「分かった分かった」
テレーゼは、鞄を肩に掛け直した。
「では!」
「ああ、気をつけて」
「はい!」
歩き出して、少ししてから振り返る。
女はもう、畑へ戻っていた。
針を頼んだ人にも、針を届けた人にも、それぞれに仕事がある。
「……行商人さん」
もう一度、小さく言ってみる。
鞄の重さが、さっきまでと少し違って感じられた。
「ふふ」
道は続いている。行きと同じ道だ。
けれど今度は、帰る道だった。
◇
日が西へ傾きはじめたころ。
坂を上りきったところで、見慣れた景色が目に飛びこんできた。
城壁と、門。その向こうに並ぶ屋根。
「帰ってきた」
郡都だった。
歩き出すと、だんだん足が速くなる。
門をくぐれば、知っている道がある。
知っている店がある。
知っている人たちがいる。
《ひなぎく亭》。
マルタ、オットー、子どもたち。
それから。
「ヨハン」
名前を口にしたら、足が、また一段速くなった。
テレーゼは、帽子を押さえた。
「ただいまです!」
まだ、誰にも聞こえない距離だけど。
街に向かって、言った。




