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第10話 香水が1本、売れました

 翌朝、テレーゼは市場へ向かう前に、昨日の店をもう一度訪ねた。

 扉は今朝も開け放たれていて、棚が昨日より一つ増えている。

 色のついた布が掛けられ、窓辺には小さな硝子飾りが吊るされていた。

 若い女は、店先で腕を組んでいた。


「来たのね」

「はい!」

「市場に行くんじゃないの?」

「その前に、昨日の続きを聞きに来ました」

「続き?」

「どんな『わあ』にしたいのか、です」

「ああ、言ったっけ」


 女が、困った顔をした。


「どんなって……」

「びっくりする『わあ』ですか?」

「ううん」

「豪華で『わあ』?」

「それも違うかな」

「珍しくて?」

「うーん」


 女は、店の中へ入っていった。

 テレーゼは扉の外から、その背中と、店の中を見る。


「なんていうか……」


 女が、言葉を探すように言った。


「女の人が入ってきて」

「はい」

「ちょっと嬉しくなるような」

「嬉しく」


 女は両手を広げて、テレーゼを見た。


「用がなくても、少し見ていこうかなって思うような」

「はい」

「外と、ちょっと違う感じがして」

「違う」

「別の場所に来たみたいな……」


 女は、頭を掻いた。


「駄目ね。自分でもよく分かってない」

「いえ」


 女は、まだ何か言おうとしている。

 だから、テレーゼは待った。


「綺麗なものを並べればいいと思ってたの」

「はい」

「でも並べてみたら、ただ綺麗なものが置いてあるだけで」

「はい」

「もっとこう……扉を開けたときから、違ってほしいのよ」

「扉を開けたときから」

「そう」


 テレーゼは、店の入口に目を移した。

 扉を開ける。中へ入る。見る。

 光が入る。布の色が、目に飛びこんでくる。表の物音が、少しだけ遠くなる。

 それから。


「……香りは?」


 女が、テレーゼを見た。


「香り?」

「はい」


 肩に掛けた鞄の重さを、意識する。

 けれど、まだ開けなかった。


「たとえばですけど」

「うん」

「扉を開けたとき、いい香りがしたら」


 女は、黙って続きを待っている。


「外とは、ちょっと違いません?」


 女が店の入口に立ち、通りのほうを振り返った。

 人が行き交い、荷車が通る。向かいではパンを売っていて、朝の町の匂いが、ここまで流れてくる。


「……なるほど」


 女が、呟いた。


「それは、ちょっといいかも」

「本当ですか?」

「でも、どんな香り?」


 来た。

 テレーゼの手が、反射的に鞄へ伸びた。


「それでしたら!」


 勢いよく、口が開く。


「私が持っている香水は、南の――」


 そこで、止まった。


「南の?」

「……いえ」


 一度、口を閉じる。


「どんな香りが好きです?」

「私?」

「はい」

「そうねえ」


 女は、考えた。


「甘すぎるのは嫌」

「はい」

「お菓子屋じゃないから」

「なるほど」

「でも、きついのも嫌。入った人がむせるようなのは困るし」

「はい」

「なんていうか……明るい感じ」

「明るい香り」

「そんなのある?」

「分かりません!」

「分からないの?」

「嗅いでみましょう!」


 テレーゼは鞄を下ろして、金具を外した。

 布、石鹸、櫛。売れ残った品々をかき分けた、その奥から、小さな瓶を取り出す。

 数日前、これを手に市場へ立った。


 良い香りです。珍しいんです。長く香ります。

 これはですね、それにですね、それにですね!

 ――一瓶も売れなかった。


「これです」


 テレーゼは、瓶を差し出した。


「開けても?」

「どうぞ」


 女が栓を外すと、ほんの少し、香りが広がった。

 テレーゼは、黙っていた。

 女が、もう一度、確かめるように顔を近づける。


「……あ」


 小さな声だった。


「はい?」

「これ、好き」


 テレーゼの背筋が、ぴんと伸びた。


「本当ですか!」

「うん。甘いけど、重くない」

「はい!」

「花?」

「そうです! これは南の地方で採れる花を――」


 説明しかけて、テレーゼは口をつぐんだ。

 女が、首を傾げる。


「続けてください」

「いいのですか?」

「うん。今は聞きたいから」


 今は。

 その一言を、テレーゼは、舌の上でそっと転がした。


「では!」


 テレーゼは、説明した。

 花のこと。作っている場所のこと。どのくらい香りが残るか。瓶をどう保管すればいいか。

 今度は、相手の顔を見ながら。

 聞かれたことに、答えながら。

 女が、瓶を持ったまま店の奥へ歩いていった。


「これ、どう使えばいいと思う?」

「ご自分につけるのではなく?」

「店で使うなら」

「あ」


 それは、考えていなかった。

 テレーゼも店の中へ入り、二人で考えた。


「布に少し?」

「染みになりません?」

「じゃあ、入口の近くに何か置いて……」

「お花とか?」

「香りが混ざらない?」

「ああ!」


 また、考える。

 正しい使い方など、テレーゼも知らない。それでも女と並んで、店の入口を見て、棚を見て、窓を見た。


「小さな布に少しだけつけて、見えないところに置くとか」

「それなら試せそう」

「つけすぎないほうがいいです」

「どうして?」

「今、瓶を開けたくらいがちょうどよかったので」

「なるほど」


 女が笑った。

 昨日のテレーゼは、「変な人」だった。

 そして、今日は。


「あなた、変わった商人ね」

「よく言われます!」

「それも?」

「それは今日初めてです!」


 女はまた笑って、手の中の瓶に目を落とした。


「これ、いくら?」


 テレーゼは、固まった。

 女が、不思議そうに顔を覗きこむ。


「どうしたの?」

「いえ」


 値段を、言った。

 値下げは、しなかった。

 女は瓶を見た。店を見た。もう一度、瓶を見た。


「うん」


 そして、言った。


「買います」


 すぐには、返事ができなかった。


「…………本当に?」

「売りたくないの?」

「売りたいです!」

「じゃあ買う」

「でも、この値段ですよ?」

「今、自分で言ったでしょう」

「言いました!」

「じゃあ、それで」


 テレーゼは瓶を両手で持って、女に渡した。

 代わりに受け取った硬貨を、数える。合っている。一枚も、少なくない。


「大丈夫?」

「はい」


 大丈夫では、なかった。

 心臓が、肋骨の内側を駆け回っている。


「ありがとうございました」


 深く、頭を下げる。


「こちらこそ」


 女は香水を持って、店の中へ戻りかけた。


「あ、そうだ」

「はい!」

「店が開いたら見に来て」

「いいんですか?」

「あなたの香水で『わあ』ってなるか、見てみたいでしょう?」

「見たいです!」

「じゃあ、来て」

「はい!」


 テレーゼは何度も頷いて、鞄を肩に掛け直した。


「では!」

「うん」

「ありがとうございました!」

「こっちこそ」


 歩き出す。

 3歩、5歩、10歩。

 曲がり角まで来たところで、足を止めて、振り返った。

 店は、まだ見える。開け放たれた扉の奥で、女が香水瓶を棚に置いていた。


「…………売れた」


 小さく、口に出してみる。

 数日前と、同じ香水だった。中身も瓶も、値段も変わっていない。

 テレーゼは、硬貨を握った。

 ネギが売れたときとも、石鹸で利益が出たときとも、少し違う。


「……商売って」


 テレーゼは、笑った。


「面白いですね」


 通りがかった人が、怪訝な顔でこちらを見た。

 気にしなかった。


「よし!」


 帽子を、かぶり直す。


「今日も売ります!」


 市場へ向かって、歩き出した。

 足は軽い。荷物は、まだ重い。

 石鹸、櫛、布、小物。これを欲しい人は、どんな人だろう。何に使うのだろう。


「ふふ」


 笑い声をこぼしながら、テレーゼは市場へ向かった。


          ◇


 その日の夕方。

 宿へ戻ったテレーゼは、売上を帳面につけてから、荷物を広げた。

 残っているものを、一つずつ確かめていく。


「石鹸」


 ある。


「櫛」


 ある。


「布」


 ある。


「小物」


 ある。


 そこで、手が止まった。

 何か、忘れている。

 首を、傾げる。

 旅に出て、市場に立って、ネギを売って、石鹸を売って、鋏を買いに走って、マリーたちと話して、香水が売れて。


 出発した日のことを、思い出した。

 重い荷物。街道。畑。その脇で、籠を抱えていた農家の女。


『丈夫な針があったら、買ってきてくれないかね』


 小物を持った手が、宙で止まった。


「…………あ」


 跳ねるように、立ち上がる。


「針!」


 扉の向こうから、マリーの声がした。


「どうしました、テレーゼさん?」

「忘れてましたあああああ!」

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― 新着の感想 ―
おぉ、おぉ、まさかの香水がこんな売れ方をするなんて♪ でも、お店を素敵な感じにするためのアクセント♪しかも求められて買ってもらえることができましたね(*^^*)♪ そうそう、針だよ針〜!ww やっ…
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