第三十九話 平行の可能性
昔、村人に嫌なことをされると川に行って水浴びをする事があった。
否、これから先のことは実際にはないが、あり得た夢の話。もしもの世界。汚れを綺麗さっぱり洗い落として、少しでも“普通”の人になれるようにと。
その日はいつも以上に殴られ、暴言を浴びせられた日だった。いつも以上に念入りに洗い、気持ち悪さを少しでも払拭して服もパンッ! と水気を取っていると、叢から人が飛び出てきた。
驚きのあまりに逃げようとするが、呆気なく捕まり、恐怖で固まっていると、見知らぬ少年が心配そうに覗き込んできた。
首根っこを掴まれ、苦しいと訴えるとその人は慌てて持ち方を変えてくれた。その優しさを、なんとなくで知っている。
覗き込んできた彼は何か言うと、どこかに行ってしまい、自分を捕まえた少年と二人で帰ってくるのを待つ。その間特に何か心配するでもなく、かといって災禍の子である自分に危害を加えるわけでもない彼。
この無関心さがこのときの自分には心地良かった。
怪我してるから。災禍の子だから。可哀想だから。様々な理由をつけて寄ってきては逃げる人ばかりだったからこの反応が新鮮で嬉しかった。
黒い髪と瞳。幼さはありつつも整った顔に芯のある眼。表情からは何も読めないが、不思議なことに困っていることだけはわかる。
そして仲良くなったら、怪我をすれば心配してくれるようにもなった。焦ってくれるようになった。私ではない誰かに、恋をする様子を見せてくれるようになった。
彼は、私のキラキラと輝く星になってくれた。
翌朝。ルゥトはパチリと目を開けると大きく伸びをする。
夢のような内容は記憶にはなく、自分には知らない、どこかの自分。カーテンを開ける。
昨日のような怠さはもうない。
夢を思い出しながら少し嬉しくなる。
男が光を拒む声が聞こえ、昔のように布団にダイブすると、蛙が潰れたかのような声が聞こえ「朝だよー!」 とユサユサと揺さぶる。
男は寝癖だらけのまま起きると「おはよう……」と呟き、洗面所に行くと歯を磨き始める。
ルゥトはその様子を懐かしいなと思いながら見ていると、それに気づいた男は歯ブラシを口に突っ込んだまま
「ふぁんだ?」
と言うので思わず笑ってしまった。
朝食は宿のものではなく、キッチンを借りて男が作ったものを食べる。日は出たばかりでほんのり薄暗く、まだ肌がひりつくように寒いが逆にそれが目を覚まさせてくれる。
「じゃぁまた全部終わったら迎えにくるよ」
宿の前で名残惜しそうに頭を撫でてから神殿に向かう。たまに振り返っては手を振りること数回。完全に姿が見えなくなると、ルゥトは部屋に戻り、ある準備を始める。
以前からしたためていた魔法陣。
大きく息を吸い、ドキドキと胸が高鳴るのを感じつつも、大切なぬいぐるみを両手でギュッと抱きしめながら詠唱を始める。
詠唱を開始すると同時にほのかに青い光がルゥトを包み込む。
『時と空間を司る神よ。我は悪魔の祝福の子。我は災いの子。悪魔の忌み子。この魔力を以って時を変えず空間を転移せよ。
時と空間を司る悪魔よ。我は神の愛し子。神の落とし子。神の忌み子。この神気を以って時をそのままにを空間を曲げよ』
詠唱を終えると眩いばかりの光がルゥトを包み込んだ。
コンコンっとノックの音が響き渡る。外からはルゥトを呼ぶ声。
(ごめんね)と心の中で謝りながら声の主は中を覗き込むと、乱雑に置かれた荷物があるだけで、少女は忽然と姿を消してしまった。
目を開けると見渡す限りの本、本、本。場合が場合なら目を輝かせ、読みふけっているところだが、生憎そんな暇はない。
ドキドキと、胸の鼓動が大きく高鳴るせいで、朝食べたものがせり上がってくるのを感じる。それを少しでも紛らわせるかのように、ギュッと大事なぬいぐるみを抱きしめると、少しだけ落ち着くのを感じる。
(大丈夫。大丈夫)
ふうっと息を吐くとほぼ同時にコッコッと外…恐らく廊下からは四つの足音。
一つは声的にペティス。もう一つはそれに付き従っているアタゴ。もう一つは…黙っていてわからないが恐らく女性。そしてもう一つは……。
ガチャリと扉が開かれる。
交り合う視線は昔見た恐怖の対象。だが今はもう怖くない。
その両脇には以前お世話になった人たち。
全てをそこに託すかのように、ぬいぐるみをぎゅっと抱き締める。
「こんにちわ」
凛とした声でそう挨拶をするとほぼ同時に、強い衝撃でルゥトは気を失ってしまった。




