第三十五話 少女の決断
男が王都を立ってから一ヶ月が過ぎた。
週に三回は出している手紙は全て返却され、どれ一つとして男の手元に届いておらず、逆に男から手紙が届くことはなかった。
そんな様子を見たイウロバは、なんとも言えない感情になるが、前回のようにぼーっとするでもなく、逆に決意を固めた顔をし始めるルゥトに安心する反面、不安が積もる。
「イウロバさん、お世話になりました」
来たときと同じ格好で屋敷を去ろうとするルゥトを止めようとするが、彼女は「大丈夫!」 の一点張りで止まる気配はない。
「ねぇルゥトちゃん、今ここを出たとしてもあるいて空神族に向かうには門も閉じているから一ヶ月以上もかかるのよ? それなら待っていたほうが確実に会えるわ」
そう説得してみるが、ルゥトは首を横に振るだけで何かを答える気配はない。というより、知られたくないように思える。
「イウロバさん、本当にお世話になりました」
困ったような笑顔に、もはやこれ以上の説得は不可能だと察する。たったの数年、客と店員という間柄だが、それでも彼女の頑固さを思い知るには十分な時間であった。
最後に、ギュッと強く抱きしめる。
「ねぇ、ルゥトちゃん。私はあなたのことを娘のように思ってるの。ううん、私の年齢的には孫かしら。だからね、次に戻ってきたらまたパーティをしましょう。
今度は私の家にみんなを呼んで、ここにいる全員で。絶対に」
男が出立する前日を思い出す。知り合った人たちを寄せ集め、それだけでは少し寂しいからと店を開いて、一部は飲めや踊れやの大はしゃぎ。男は料理を振る舞い、ルゥトはいつもと変わらず客にはオーダーを取る様子を。
イウロバの最後の言葉にルゥトは小さく頷きながら彼女の両手を握りしめる。
「古き神の加護が有らんことを」
イウロバはそう言って最後に指先にキスをすると、最後に小さく微笑んで屋敷を出ていってしまった。
場所は王都から少し離れた森の奥。そこには一か所だけ魔力が生まれ出る場所があった。
ルゥトは一度帰り、動きやすい格好に着替えてからそこに来ると、ゴソゴソと空間と時間に関する魔導書を開く。
そしてその下には地図を置き、現在地には青い丸、空神族の里には赤い丸をしていた。
『時と空間を司る神よ。我は悪魔の祝福の子。災いの子。悪魔の忌み子。この魔力を以って時を変えず空間を転移せよ。
時と空間を司る悪魔よ。我は神の愛し子。神の落とし子。神の忌み子。この神気を以って時をそのままにを空間を曲げよ。』
ルゥトの周りを青い蛍のようなものが包み込み始める。それは鋭く強い光を放つと、気づけば見知らぬ場所に転移していた。
どうやら路地裏のようで辺りは腐敗臭のようなもので満ちており、誰にも見られなくてよかったと思う反面、これは危ないと脳内に警鐘が鳴り響く。
だが初めて来た場所で道がわかるはずもなく、ただひたすらに走り続ける。
(縁を…縁を辿ることができれば……!)
なにせ時間に余裕がないのだ。路地裏はやはり危なく、下手に止まるより一度人通りの多い場所に出て、喫茶店などでゆっくりと彼の情報を掴むことができれば、また色々違ったのだろう。
詮なきことを考えても仕方がないとひたすら走り続ける。ゴミ。吐瀉物。ゴミ。乞食。ゴミ。死体。それらが繰り返すこと数回、なにか硬いものにぶつかってしまい、尻餅をついてしまうと頭上から低く、威嚇するかのような声が聞こえる。
「ご、ごめんなさい…!」
咄嗟にそう謝りながら上を向くと、痩せこけ、虚ろな目をした中年ほどの男と目が合う。男はブツブツと何か呟きながらこちらを見るが、焦点は定まっておらずルゥトの中で恐怖は増す一方である。
鞄を持ち、立ち上がると再度「ごめんなさい」と謝りながらお辞儀だけして立ち去ろうとすると強い力で腕を掴まれる。
驚いてそちらを見るが、やはりどこを見ているのかわからない男の視線の先には人通り。やった! と思ったその瞬間、すごい勢いで路地裏の更に狭い建物と建物の隙間に引きずり込まれる。
ガランガランと、物置状態であった事からそれらはすべてなぎ倒され、その上にルゥトは投げ捨てられる。驚きの連続で思わず鞄から手を離してしまい、盗まれてしまわないかと違う心配をしてしまう。
「食べ物…女…腹…捨てた…」
ぶつぶつと、意味のわからない言葉ばかりを並べる男の顔をよく見てみると、最初は男を中年かと思ったが若く、兄代わりの彼とそう大差なさそうな年齢であった。
亜麻色だったのだろう、髪は泥にまみれてしまいもはや黒に近く、瞳を覗けばもともと整っていたのであろう顔立ちは痩せこけ、髭も生え散らかっており輪郭はもはやよくわからない。
鳥肌が立ち、悪寒が背中を伝う。汚いから、気持ち悪いから、男に腕を掴まれたからではない。この視線に覚えがあるからだ。
「やっ…!」
声を上げながら藻掻くが、当たり前だが男の方が力は断然に上だ。
男の右手が上がり直感的に殴られると悟ると、ルゥトは防衛本能で両目をギュッと閉じた。




