第三十三話 精神
あれから十日が経った。
余程の恨みを買っているのであろう、空神族には毎日のように刺客が向けられていた。それは族長だけではなく、男にも向けられていることもあり、“影”も男もなかなか休む間もなく働き続けていた。
ルゥトにも中々手紙を送ることもできず、やきもきする一方である。
「……疲れた…」
本日も月が落ち始める頃やっとで部屋に戻る。王都にいた時たまにこういった事はあったが、一日においての満足感が無ければ疲れるのみで、寝ても疲れは取れない。等と思いながらベッドに入る。
あの子は今頃何をしているだろうか。以前のようになっていないだろうか。不安を感じていないだろうか。
外からなんとなくで感じる視線は毎日で、もはや慣れてしまった。敵意でも殺意でもないよくわからないこの視線は一体何なのだろうか。
影であればもっと黒いものを感じるし、そこに少しでも欲が混じっているのならばゾワゾワしたものが背筋をなぞるはずだ。
心配するかのような眼差しと、どこか包み込むような眼差し。脳裏にある一人を思い浮かべながらゆっくり夢の中に落ちていった。
そしてあれからさらに十日ほど経った。
もはやどう過ごしていたのかは思い出せないし、思い出したくもない。ここに来てからのことだけでなく、ここに来る前のこと。そしてそれ以前のこと。
目の前では会談が開かれており、話しているのは水神族長で感情の乗っていない声色で淡々と今後のことを話し続ける。
「ところで」
話を切ったのは随分と珍しく口を開いた側近のアザミだ。
「側付き殿…否、側近殿は今どこで何を?」
その言葉に答える義理も意味もないなと、口を閉ざしていると主はどこか愉快そうに口を歪めながら
「王都で女を引っ掛けて喫茶店経営だ。お気楽なもんだろう?」
里が不景気なこのときに。
最後の一言に何も思わないでもないが、心を押し込む。大丈夫。あと十日ほど。
ギュッと目をつぶり瞼の裏にあの子の笑顔を思い浮かべようとする。
笑顔って、なんだったっけか。
その日の夜、いつもより少し早い時間に部屋に戻ると、珍しくいつもの視線はなく、ベッドに腰掛けてふうっと息を吐く。
まるで両足が沼に浸かったかのように重く、体は濡れたタオルで覆われているかのような感覚。疲労感だけでこうなるものだったか? などと思いながら両手で顔を覆う。
最近、消えていたはずの感触が戻り始める。
肉と骨を切り、血飛沫が上がる感覚。命が冥府に落ちる現実。
(いっそ、あの人を助けず自分も一緒に…)
そう思った瞬間、昼間には思い出せなかった少女の顔が瞼を過る。
駄目だ、そんなことを思っては。
両手を頬で強くバチン! と叩くと思っていた以上の力に驚いてしまう。だが少し頭の中はスッキリしたようで、重かった体もほんの少し軽くなったのがわかる。
以前タロに吉兆の印だの何だのと言われたことを思い出す。それはきっと自分のことではなく、彼女の事だったのだろう。でなければ今頃とっくにすべてを諦めていたはずだ。
男はそんなことを思いながら風呂の準備を始めた。
そしてそれから十日が経った。
本来ならば帰る日なのだが、いくつかのアクシデントにより、それができなくなってしまった。
まず、火神族との会談の日にペティスの暗殺未遂が起きてしまった。
幸い、大きな怪我もない上に生きたまま捕らえることができたが相手は「空神族の側近にやらされた!」 などと言っているそうだ。
だが男が黒幕なのだとしたら、あの場で最初に動けるはずがないと、アタゴが弁明してくれ、なんとか無実に終わった。
次いで風神族側近コマリの夜這い。前々回、族長会議の際も同じことをされたが、まさかこの年になってもやるとは思っておらず、驚きのあまり腹部を深く刺してしまい騒ぎになった。
コマリは誘われたのになどと嘯いたが、これもまたアタゴが機転を利かせて「彼には心に決めた人がいる」と助けてくれた。
以前、明るくなったはずが、深い深い闇へと落ちていくのがわかる。両手を使って何か作りたいのに壊すばかり。両足を使って駆け回りたいのに忍び足ばかり。辟易する生活だ。
もはや、寝る以外の楽しみがなくなりつつあるのではないかと思う一方である。あぁ、やはりこんな事なら来るのではなかった。そう思いながら今宵もまた、沼底に落ちるかのようにドロリドロリと溶けていった。
空神族に来てから一ヶ月と約一週間が経った。アタゴは少し観慣れつつある光景に辟易しながらも、廊下を歩いていると空神族の集団と鉢合う。
少し頭を下げ、一族が過ぎるのをチラリと横目で見てみると、二年ほど前に会った時とは打って変わって、生気がなくなった彼にほんの少し胸を痛める。
あの時、仲良くなったと確かに感じたのだが、今は他人の様によそよそしく、もはや面影はない。それに、どこか淀んで見える。彼の様子に、周りから姿が見えない魔法をかけた少女に問うてみる。
「…恐らく、精神汚染されているのかと」
「どういうことでしょうか、ルビィ」
運び屋から火神族護衛に来たルビィ。彼女は銀髪の少しだけ癖のあるロングヘアに、ルビーのような紅い瞳。肌は陶器のように艶やかでツイッと指した指はスラリと長い。
運び屋の少女用の服はトワの時と違い短いキュロットで、服の色も真っ白だ。
「彼の左手薬指。あそこに何か憑いています」
アタゴはほうっと呟くと、懐中時計を懐から取り出す。それはそれは丁度いいと思いながら
「私は市に行ってきます。あなたは主をお願いします」
そう告げると、アタゴはそのまま神殿を出ていってしまった。
その次の日の昼、男は空神族用の屋敷をぐるりと巡回する。空に浮かび上がっている魔術の類をたまに撃ち落とし、視線を感じればそちらに短刀を投げていた。
もはや他人の死なぞ、視線なぞどうでもよかった。
「随分とまぁ、精が出ますね」
そう声をかけながら草むらからガサガサと出てきたのはアタゴだ。男は何も言うでもなく、ジロリとアタゴを一瞥すると右手を上げる。途端、視線が一気に引いたのを感じ“影”を引かせたのかと理解した。
「……何か」
前回とは全く異なる様子にアタゴは少々怖気づいてしまうが、小さく息を吐くとあるものを取り出す。
「これを。あの子に以前お願いされて作ったものです」
男は手を差し出すと、コロンっと橙色の魔法石が嵌められた指輪が転がり落ちる。
「以前、神殿に無理やり連れ込んだ際、あの子から託されたものです。
あの日、彼女が“もう一度会った時に渡してほしい”と。因みに私もお揃いですよ」
そう言いながら足の裾を少し捲くると、アンクレットには確かに同じ色の魔法石が使われていた。そしてペティスも同様のバングルが着けられているようで、男三人むさ苦しくお揃いコーデということだ。
「最初はもう会うことはないだろうと思ったのですがね。適当に机の引き出しに仕舞っていたところ、貴方が今回の会議に出席すると聞いたので急いで取り出したのです。」
ふふん。と、どこか誇らしげにするアタゴと指輪を交互に見る。もう、顔も名前も思い出せなくなってきていた少女の顔が、まるで雲を晴らすかのように鮮明に思い出し始める。
「あなたの指のサイズがわからなかったので、これを。あとその色の魔法石の効果は……」
アタゴはピタリと話すのをやめて、ほんの少し微笑みながら彼の背中を優しく撫でる。
「言ったでしょう、何かあったら私たちを頼りなさいと。どんな形であれ力になりましょう」
ズッと鼻を啜る音が聞こえるが、アタゴ以外今は他に誰もいない。
ペティスも後で合流すると言っていたなとアタゴは思い出すが、この現場を見て無闇矢鱈と口を出すようなお人ではないと、小さく丸くなってしまった大きな子供にハンカチを差し出すと、そのまま暫く背中を撫で続けた。




