7話
夕陽が差し込む、王宮の裏庭。
ひっそりと置かれたベンチに腰を下ろす。
「うーん、疲れたー!」
人気がないのをいいことに、思いきり伸びをすると、凝り固まっていた身体がふっと軽くなった。
同時に、お腹の虫がぐぅと鳴る。
私はいそいそと持ってきた包みを開き、手作りのマフィンを取り出した。
「ふふ」
ふわりと広がる甘い香りに、自然と頬が緩む。
大きく口を開けて、ひと口。
バターと小麦の香ばしさが鼻を抜け、はちみつのやさしい甘さが口いっぱいに広がった。
「美味しい……!」
我ながら上手く出来たと自分に賛辞を送ると、ほっと息を吐いた。
(このあとの仕事も頑張れそう)
書記官の仕事は想像以上に忙しく、帰りが遅くなる日も少なくない。
特に今日のように会議が長引く日は、こうして各自が合間を見て休憩を取るのが常だった。
この裏庭は、数日前に見つけた場所。
整えられた庭園とは違い、華やかさはない。
そのせいか、ほとんど人が訪れることもなかった。
けれど——
人の気配のない静けさも、のびのびと育つ草花も、程よく植えられた木々も、どこかグラント領に似ている。
気づけば、ここは私のお気に入りの場所になっていた。
夕方の休憩には、自然と足が向く。
もう一度、ぐっと背筋を伸ばす。
忙しさに身体は疲れているのに、不思議と気持ちは満たされていた。
なにより——
遅くまで働く分、お給金がいい。
実家に仕送りをしても、こうしてお菓子を作れる余裕があるのだ。
私はもう一度、マフィンにかぶりつく。
「次のお休みの日は、クッキーを焼こうかな」
チョコを入れるのもいいし、バターたっぷりのシンプルなものも捨てがたい。
そんなことを考えていると——
びゅう、と強い風が吹き抜けた。
「きゃっ!」
反応が遅れた一瞬で、マフィンを包んでいたハンカチがふわりと舞い上がる。
そのまま、近くの木の枝に引っかかってしまった。
「やっちゃった……」
あのハンカチは、数年前の誕生日にミレナがくれたものだ。
覚えたての刺繍で、初めてイニシャルを縫ってくれた、大切な品。
ぐっと背伸びをして手を伸ばすけれど、到底届きそうにない。
私は周囲を見渡した。
「……よし、誰もいないわね」
小さく呟くとスカートの裾をたくし上げ、木の出っ張りに足をかけた。
そして、慣れた手つきで木を登っていく。
太い枝までたどり着くと、そっと身を乗り出し、手を伸ばした。
指先が布に触れる。
「……届いた」
ハンカチを掴んだ瞬間、ほっと息を吐く。
さて、降りよう——と下を見下ろした、そのとき。
「……え?」
そこには、驚いたように目を見開いた男性が立っていた。
思わず声が漏れる。
「えっ!?」
まさか人がいるとは思っておらず、頭が真っ白になる。
そのまま、自分の姿に気づいた。
スカートをまくり上げ、木にまたがる格好——
「っ……!」
慌てて足を隠すように裾を押さえた、その瞬間。
ぐらり、と体が傾いた。
(落ちる——!)
ひやりと心臓が冷える。
反射的に目をぎゅっと閉じ、衝撃に備えて身を固くする——
けれど。
感じたのは、地面に叩きつけられる痛みではなく。
強く、けれど優しく受け止められる感触だった。
「……大丈夫かい?」
低く落ち着いた声がすぐ近くで響き、恐る恐る目を開く。
「……王子様」
思わず、声がこぼれた。
目の前にいたのは——
あの日、王都で出会った、あの美しい男性。
私の呟きに、“王子様”はくすりと笑う。
「今度は、本物の王子様がいる王宮で言うなんて——」
少しだけ目を細めて、楽しげに続けた。
「君は、命知らずなのかな?」
その言葉に、はっとして口元を押さえる。
——今さら隠したところで、遅いのだけれど。
“王子様”は、ゆっくりと私を地面へ降ろしてくれた。
その丁寧な手つきに、胸の奥がどくん、と大きく鳴る。
そして、はっと我に返る。
「す、すみません! お怪我はありませんか!?」
今さらながら、自分が木から落ちてきたことを思い出し、慌てて頭を下げた。
「僕は大丈夫。頑丈なのが取り柄だからね」
軽く笑ってそう言うと、彼はそっと私の頭に手を置く。
「君は、怪我してないかい?」
「は、はい……」
顔に熱が集まっていくのが分かる。
恥ずかしくて、まともに目を合わせられない。
「今度からは、無理をせずに騎士を頼るんだよ」
「……はい」
小さく頷くと、“王子様”はくすくすと笑い、そのまま踵を返した。
呼び止める間もなく、背中は夕暮れの中へと溶けていく。
私は、その後ろ姿を、見えなくなるまで見つめ続けていた。
胸の鼓動が、なかなか収まらない。
これは、驚いたせい……?
それとも——
無意識に、撫でられた頭へそっと手をやる。
「あ……名前、聞けばよかった」
ぽつりとこぼれた言葉は、静かな裏庭に吸い込まれていった。




