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小麦畑の君に  作者: おはよう


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9/13

7話


夕陽が差し込む、王宮の裏庭。


ひっそりと置かれたベンチに腰を下ろす。


「うーん、疲れたー!」


人気がないのをいいことに、思いきり伸びをすると、凝り固まっていた身体がふっと軽くなった。

同時に、お腹の虫がぐぅと鳴る。


私はいそいそと持ってきた包みを開き、手作りのマフィンを取り出した。


「ふふ」


ふわりと広がる甘い香りに、自然と頬が緩む。

大きく口を開けて、ひと口。


バターと小麦の香ばしさが鼻を抜け、はちみつのやさしい甘さが口いっぱいに広がった。


「美味しい……!」


我ながら上手く出来たと自分に賛辞を送ると、ほっと息を吐いた。


(このあとの仕事も頑張れそう)



書記官の仕事は想像以上に忙しく、帰りが遅くなる日も少なくない。


特に今日のように会議が長引く日は、こうして各自が合間を見て休憩を取るのが常だった。


この裏庭は、数日前に見つけた場所。

整えられた庭園とは違い、華やかさはない。

そのせいか、ほとんど人が訪れることもなかった。


けれど——


人の気配のない静けさも、のびのびと育つ草花も、程よく植えられた木々も、どこかグラント領に似ている。


気づけば、ここは私のお気に入りの場所になっていた。

夕方の休憩には、自然と足が向く。



もう一度、ぐっと背筋を伸ばす。


忙しさに身体は疲れているのに、不思議と気持ちは満たされていた。


なにより——


遅くまで働く分、お給金がいい。

実家に仕送りをしても、こうしてお菓子を作れる余裕があるのだ。


私はもう一度、マフィンにかぶりつく。


「次のお休みの日は、クッキーを焼こうかな」


チョコを入れるのもいいし、バターたっぷりのシンプルなものも捨てがたい。


そんなことを考えていると——

びゅう、と強い風が吹き抜けた。


「きゃっ!」


反応が遅れた一瞬で、マフィンを包んでいたハンカチがふわりと舞い上がる。

そのまま、近くの木の枝に引っかかってしまった。


「やっちゃった……」


あのハンカチは、数年前の誕生日にミレナがくれたものだ。

覚えたての刺繍で、初めてイニシャルを縫ってくれた、大切な品。


ぐっと背伸びをして手を伸ばすけれど、到底届きそうにない。


私は周囲を見渡した。


「……よし、誰もいないわね」


小さく呟くとスカートの裾をたくし上げ、木の出っ張りに足をかけた。

そして、慣れた手つきで木を登っていく。


太い枝までたどり着くと、そっと身を乗り出し、手を伸ばした。

指先が布に触れる。


「……届いた」


ハンカチを掴んだ瞬間、ほっと息を吐く。


さて、降りよう——と下を見下ろした、そのとき。


「……え?」


そこには、驚いたように目を見開いた男性が立っていた。


思わず声が漏れる。


「えっ!?」


まさか人がいるとは思っておらず、頭が真っ白になる。


そのまま、自分の姿に気づいた。

スカートをまくり上げ、木にまたがる格好——


「っ……!」


慌てて足を隠すように裾を押さえた、その瞬間。


ぐらり、と体が傾いた。


(落ちる——!)


ひやりと心臓が冷える。

反射的に目をぎゅっと閉じ、衝撃に備えて身を固くする——


けれど。


感じたのは、地面に叩きつけられる痛みではなく。

強く、けれど優しく受け止められる感触だった。


「……大丈夫かい?」


低く落ち着いた声がすぐ近くで響き、恐る恐る目を開く。


「……王子様」


思わず、声がこぼれた。


目の前にいたのは——

あの日、王都で出会った、あの美しい男性。


私の呟きに、“王子様”はくすりと笑う。


「今度は、本物の王子様がいる王宮で言うなんて——」


少しだけ目を細めて、楽しげに続けた。


「君は、命知らずなのかな?」


その言葉に、はっとして口元を押さえる。

——今さら隠したところで、遅いのだけれど。



“王子様”は、ゆっくりと私を地面へ降ろしてくれた。

その丁寧な手つきに、胸の奥がどくん、と大きく鳴る。


そして、はっと我に返る。


「す、すみません! お怪我はありませんか!?」


今さらながら、自分が木から落ちてきたことを思い出し、慌てて頭を下げた。


「僕は大丈夫。頑丈なのが取り柄だからね」


軽く笑ってそう言うと、彼はそっと私の頭に手を置く。


「君は、怪我してないかい?」


「は、はい……」


顔に熱が集まっていくのが分かる。

恥ずかしくて、まともに目を合わせられない。


「今度からは、無理をせずに騎士を頼るんだよ」


「……はい」


小さく頷くと、“王子様”はくすくすと笑い、そのまま踵を返した。


呼び止める間もなく、背中は夕暮れの中へと溶けていく。


私は、その後ろ姿を、見えなくなるまで見つめ続けていた。


胸の鼓動が、なかなか収まらない。


これは、驚いたせい……?

それとも——


無意識に、撫でられた頭へそっと手をやる。


「あ……名前、聞けばよかった」


ぽつりとこぼれた言葉は、静かな裏庭に吸い込まれていった。



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