6話
初出勤から、気づけば二ヶ月が経っていた。
最初は慣れない仕事に悪戦苦闘していたけれど、周りの人たちに助けられて、今ではだいぶ仕事にも慣れてきた。
「グラント書記官、そろそろお昼休憩だよ」
午前中の会議の議事録をまとめていると、ミルトン書記官が声をかけてくれる。
ふと時計に目をやれば、針はすでに昼休みの時間を指していた。
「本当に、あっという間ですね」
思わず手を止めて呟く。
忙しい日々は、驚くほど早く過ぎていく。
仕事に集中していると、時間を忘れてしまうことも少なくなかった。
「それだけ、しっかり仕事してるってことだよ」
ミルトン書記官が、柔らかく微笑む。
隣の席にいる彼は面倒見がよく、困っているといつの間にか手を貸してくれている。
「グラント書記官は丁寧だものね。書類も見やすくて助かってるわ」
向かいの席から顔を覗かせたのは、ベリータ書記官だった。
彼女はベリータ子爵の奥方で、子育てがひと段落したのを機に書記官として働き始めたらしい。
気さくで面倒見がよく、どこかお姉さんのような存在だ。
書記官室に備えられたテーブルセットに腰を下ろし、持参したバスケットを広げる。
中には、手作りパンで挟んだ野菜たっぷりのサンドイッチ。
王宮内には食堂もあるけれど、やっぱりそこも“貴族価格”。
気軽に利用できない私は、毎日お弁当を持参している。
けれど——
同じようにお弁当を持ってきているミルトン書記官やベリータ書記官、そして数人の同僚たちと囲む昼食の時間は、思っていた以上に賑やかで楽しかった。
「やっぱり、グラント書記官も出会いを求めて王都に来たの?」
きらきらと目を輝かせた同僚の問いに、思わず目を瞬かせる。
王宮で働く貴族の令嬢の多くが、将来の結婚相手との出会いを求めている——そんな話は聞いたことがあるけれど。
「いえ、私は家族の支えになれたらと思って来たんです」
双子たちの行く末さえままならない我が家の懐事情。
出会いのために着飾るドレスや宝石などを買う余裕はない。
それに——
「もう、結婚適齢期も過ぎていますし」
苦笑まじりにそう言った瞬間。
場の空気が、ぴたりと止まった。
(あれ……?)
違和感に首を傾げると、ベリータ書記官がおそるおそる問いかけてくる。
「……グラント書記官って、十六歳くらいじゃなかったの?」
「えっと、二十二歳……なんですが」
思いがけない言葉に、思わず声が小さくなる。
その一言で、今度は皆の目が一斉に見開かれた。
「ご、ごめん! 僕より年下だと思ってた!いや、思ってました!」
慌てて言い直しながら頭を下げるミルトン書記官。
「いやー、年齢の割にしっかりしてるとは思ったけど……!」
「やだ私、すっかりお姉さん気取りしてたわ!」
場に笑いが広がっていく。
周りからもくすくすと笑い声が漏れ、私も思わず頬が緩むのだった。
ひとしきり驚きと笑いが落ち着いたところで、ベリータ書記官が咳払いをひとつして、改まったように口を開いた。
「グラント書記官。年齢なんて関係ないわ」
にっこりと微笑む。
「仕事も大事だけど、ちゃんと楽しまなくちゃだめよ?」
「そうそう! 王都には素敵な方がたくさんいるんだから!」
ベリータ書記官の言葉に同調するように、同僚たちも目を輝かせる。
「素敵な方、ですか……」
小さく繰り返したそのとき——
ふと、王都に辿り着いた日に出会った“王子様”の顔が脳裏に浮かんだ。
三番街にいたとは思えない、整った身なり。
あの人は、一体——
「あ、でも宰相様は好きになっちゃだめよ!」
「宰相様、ですか?」
突然の言葉に、顔を上げる。
「グラント書記官、まだお会いしたことないのね」
「……悪い人、なんですか?」
素直にそう尋ねると、ベリータ書記官は意味ありげに口元を緩めた。
「ある意味、悪人よ」
「僕はそうは思いませんけど」
ミルトン書記官がすかさず口を挟む。
どうやら、その評価には納得していないらしい。
「女性にとっては、とんでもなく悪い人なの!」
びしっと人差し指を立て、ベリータ書記官が力説すると、ミルトン書記官は苦笑しながら肩をすくめた。
「ああ……それは、否定できないですね」
「どういう意味ですか?」
首を傾げると、女性陣がそろってため息をつく。
そして——
「宰相様——リディオル・アルヴァート公爵様はね」
ベリータ書記官が、少しだけ声の調子を落として続けた。
「見目は麗しく、仕事は優秀。
それに、いつも穏やかで、誰にでも分け隔てなく優しいの」
まるで“それが罪”であるかのような言い方に、思わず目を瞬かせる。
「えっと……それで、どうして悪い人になるんですか?」
語られる宰相様の人物像は、どう聞いても私の知る“悪い人”とは重ならない。
首を傾げていると、ベリータ書記官がぽん、と肩に手を置いた。
「優しさはね、ときに“罪”になるのよ」
何か思い当たる節があるのか、ベリータ書記官の言葉には妙な重みがあった。
「そうそう! 宰相様は誰にでも優しいから、つい勘違いしちゃうのよね」
同僚がうんうんと頷く。
「でもね、誰にも一線は越えさせない、“壁”があるのよ」
「“壁”、ですか……?」
「ええ。——ま、そこがまた魅力なんだけどね!」
「「分かるー!」」
女性陣の黄色い声が上がり、男性陣は苦笑いを浮かべている。
父や弟、領地の気のいいおじさんたちくらいしか異性との関わりがなかった私には、その盛り上がりがいまいちぴんと来ない。
「でも宰相様って、確か——」
同僚が何かを言いかけた、そのとき。
「ほらほら、休憩時間は終わりだよ」
落ち着いた声に振り返ると、ハーヴィス書記官長が呆れたように立っていた。
上官の登場に、皆が慌てて片付けを始める。
「さあ、午後も頑張りましょう」
ミルトン書記官の一声で、それぞれの席へと戻っていく。
私もバスケットを片付け、机に向き直った。
手に取った書類に、ふと目が止まる。
そこに記されていた署名——
——リディオル・アルヴァート
噂の宰相様の名だった。
流れるように整った文字。
(……彼の人は、字も綺麗な方なのね)
ほんの少しだけ、どんな人なのか気になってしまう。
けれど——
(私には、関係ないわね)
そう心の中で苦笑いをすると、小さく頭を振る。
そして背筋を伸ばし、目の前の仕事へと意識を向けた。




