17話
乾いた服に着替え、そっと衝立の裏から出たのと同じタイミングで、扉が控えめに叩かれた。
「は、はい!」
宰相様が戻ってきたのかと慌てて返事をする。
けれど、扉が開かれる気配はない。
不思議に思いながら扉へ近付き、ゆっくりと開けると――そこには、お茶のセットを片手に持った宰相様が立っていた。
「宰相様、どうされたんですか?」
「いや、慌てたような声が聞こえたから、まだ着替えの途中なのかと思って」
「ご、ご配慮ありがとうございます……」
なんだか急に恥ずかしくなって、思わず顔を伏せてしまう。
そんな私の頭に、宰相様はぽん、と優しく手を置いた。
「お茶を用意したんだ」
「言ってくだされば、私が準備しましたのに!」
主に用意をさせてしまうなんて、秘書官として失格だ。
思わず眉を下げると、宰相様は柔らかく微笑んだ。
「僕がしたかったんだ。……ほら、冷める前に飲もう」
そう言って、宰相様は空いた手をそっと私の肩に添え、中へと促す。
そして備え付けのテーブルへ茶器を並べていく。
その手際の良さから、普段から自分で淹れているのだと分かった。
「ほら、座って」
「……ありがとうございます」
促されるままソファへ腰を下ろすと、ティーカップが差し出される。
「熱いから気を付けてね」
「いただきます」
受け取ったカップへそっと口を付ける。
ふわりと広がる紅茶の香りに、自然とほっと息が零れた。
冷え切っていた身体が、ゆっくりと温まっていく。
「……すまなかった」
「え?」
静かに紅茶を味わっていると、向かいに座る宰相様がぽつりと呟いた。
顔を上げれば、そこには眉を寄せ、沈痛な表情を浮かべる宰相様の姿。
「……こうなることは予想できていたのに、君に危害が及んでしまった」
“危害”とは、先程の令嬢達のことだろう。
「宰相様が謝ることではありません。……むしろ、私が上手く対応できなかったせいで大ごとにしてしまって、申し訳ありませんでした」
「それこそ、君が謝るべきことではないでしょう」
「ですが、レイトン補佐官であれば、もっと上手く対応できたでしょうし……」
未熟な自分が情けなくて、ぎゅっと手の中のカップを握り締めた。
「セイルは王宮一の“冷徹”補佐官だからね。誰も彼の真似はできないよ」
宰相様はくすりと微笑んだ。
それは、落ち込む私を慰めるような優しい笑顔だった。
「あ、でも、レイトン補佐官の真似は少し効いたんですよ」
「真似って……君がセイルの?」
「はい!」
どこか疑うような宰相様の視線に、私は得意げに頷く。
そして先ほど令嬢達に向けた時と同じように表情を引き締めた。
「例外はございません」
レイトン補佐官を意識して、できるだけ淡々と告げる。
令嬢達へ向けた言葉を再現すると、宰相様はじっと私を見つめた。
そして――
一瞬言葉を失った後、
「あはははっ!」
弾けるような笑い声が部屋に響く。
「そ、それは……っ!」
宰相様は腹を抱え、そのままソファへ身を預けた。
笑い過ぎて苦しいのか、続きを話そうとしては肩を震わせている。
その様子に、今度は私の方が目を丸くした。
「さ、宰相様?」
ここまで笑われるとは思わなかった。
むしろ上手く真似できたと思っていたのだけれど。
「ご、ごめん……っ」
宰相様は目尻に滲んだ涙を指先で拭う。
それでも笑いは収まらないらしく、肩を震わせながら私へ視線を向けた。
「真剣な君が、あまりにも可愛くて」
「え!?」
予想外の言葉に、瞬く間に顔が熱くなる。
可愛い、なんてそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
熱くなった頬を思わず両手で押さえると、ようやく落ち着いた宰相様がひとつ咳払いをした。
「とにかく、今後も何かあればすぐに教えてほしい」
「……は、い」
「……危害を加えた相手に対して、申し訳ないなんて思っていないよね?」
煮え切らない返事に、宰相様は眉を寄せる。
探るような視線に、私は小さく息を吐いた。
私に水を掛けた令嬢――カミラ・ドミトル伯爵令嬢。
会ったことはないけれど、その名前は知っていた。
毎日のように届く彼女からの手紙。
花が添えられていることもあれば、封筒に短い言葉が綴られていることもあった。
それだけ、宰相様へ届けたい想いがあったのだろう。
その手紙を本人へ届けることなく、ゴミ箱へ放り込む事に罪悪感を覚えないわけにはいかなかった。
――だから。
「……暴力を良しとは思いませんが……不満を受け止めるのも埋葬者の義務かな、と」
「……埋葬者?」
「あの箱は、ゴミ箱という名の“手紙達の墓場”ですから」
私は自分の机の脇に置かれたゴミ箱を指差した。
宰相様は目を瞬かせ――そして、くしゃりと破顔する。
「君は本当に面白いね」
ひとしきり笑った後、ふっと表情を和らげた。
「――だけど、義務があるなら、それは僕にだろう?」
「え?」
「手紙を破棄するよう指示しているのは僕なんだから」
「でも、それは宰相様の優しさですし……」
「優しさ?」
「はい」
私はカップを両手で包みながら続ける。
「手紙を受け取れば、お返事がいただけるかもしれないと期待してしまいますから」
応えられないなら、期待もさせない。
宰相様へ手紙を送っても、読まれず破棄される。
それは王宮内では周知の事実だった。
一部には何度も送り続ける令嬢もいるけれど、大半は二通目以降が送られてくることはなかった。
思ったままを口にすると、しばしの沈黙が落ちた。
やがて宰相様が静かに口を開く。
「……ただ煩わしいだけかもしれないよ」
自嘲を含んだような乾いた声に、私は首を横に振った。
「あれだけの量ですから、煩わしさもあるとは思います。でも……」
言葉を区切り、真っ直ぐに宰相様を見つめる。
「宰相様は、お優しい方ですから」
「……っ」
その瞬間、宰相様は驚いたように目を見開いた。
「……以前は悪い人、と言っていたのに」
宰相様はぼそりと呟き、わずかに視線を逸らした。
どこか拗ねたようなその仕草に、思わず頬が緩む。
以前、書記官の同僚達から聞いた宰相様の噂。
誰にも越えさせない一線。
決して踏み込ませない“壁”。
けれど今なら分かる。
それもまた、彼なりの優しさだったのだと。
「えっと……その節は失礼しました」
本人に向かって“悪い人”と言ってしまった日のことを思い出し、苦笑いを浮かべる。
すると宰相様はふっと肩の力を抜いた。
そして――
「……ありがとう」
柔らかく微笑む。
その表情があまりにも綺麗で。
胸の奥で、何かが弾けた気がした。
その音を聞かれてしまいそうで、慌てて胸元を押さえる。
そして誤魔化すように勢いよく立ち上がった。
「で、ですが! 宰相様はご自分には優しくありません!」
私は自分の席へ向かうと、むんずと鞄を掴む。
そして目を瞬かせている宰相様の元へ戻り、そのまま鞄を突き出した。
「朝から何も召し上がっていませんよね?」
「えっと……?」
不思議そうに首を傾げる宰相様を横目に、鞄の中を探る。
昼食用に持ってきていたサンドウィッチとマフィンを取り出した。
「お昼にしましょう!」
「う、うん」
「では、私はお茶を淹れ直してまいります!」
「それならメイドを呼ぶから――」
「行ってきます!」
私の勢いに戸惑うような宰相様の言葉も聞かず、そそくさと部屋を飛び出した。
扉を閉める。
誰もいない廊下の静けさに、ようやくほっと息を吐いた。
目を閉じれば浮かぶのは、先ほどの宰相様の笑顔。
笑った顔なんて、今まで何度も見てきたはずなのに。
どうして今日は、こんなにも胸が騒ぐのだろう。
胸の奥に広がる熱を押し込めるように、小さく頭を振る。
それでも頬の熱は消えてくれなくて――
私は冷たい風を求めるように、いつもより少し早足で廊下を歩き出した。




