15話
「そんな暇があれば、ですが」
秘書官の職に就いてから数日。
レイトン補佐官の言葉を実感するのに、そう時間はかからなかった。
朝、登城すれば山のような手紙の仕分けから始まり、宰相様への面会を求める人々の対応をし、各部署へ書類を届ける。
毎日が、目まぐるしく過ぎていく。
「お腹すいた……」
頼まれていた書類を届け終え、時計を見れば昼の時間はとうに過ぎていた。
今日のランチは、ハーブに漬けたチキンを挟んだサンドウィッチと、チョコチップをたっぷり入れたマフィン。
マフィンは、宰相様にお裾分けしようと余分に持ってきていた。
傍で働くようになって知ったのは、宰相様がとんでもなく多忙だということ。
そのせいで、昼食もまともに取れていないことが多い。
マフィンなら片手で手軽に食べられる。
好物の焼き菓子で、少しでも一息ついてもらえたら——そう思って持ってきたのだ。
(そろそろ会議も終わる頃かな)
宰相様の予定を頭の中でなぞりながら、すれ違いにならないよう急いで戻ろうと一歩踏み出した——その時。
「あなたなの? 宰相様の周りをうろつく身の程知らずは」
「え?」
声に振り向くと、豪奢なドレスに身を包んだ令嬢が三人、こちらを見据えていた。
眉間に皺を寄せ、露骨な敵意を向けてくる視線に、思わず目を瞬かせる。
「えっと……私が何か?」
「しらばっくれちゃって!」
「どんな汚い手を使ったのかしら!」
「田舎娘のくせに!」
令嬢たちは扇子で口元を隠しながら、次々と棘のある言葉を投げつけてくる。
もしかすると、これがレイトン補佐官の言っていた“厄介事”のひとつなのかもしれない。
「あの、うろついているというか……お傍でお仕事をしているだけですので……」
怒りを収めようと苦笑交じりに答えるけれど、その言葉は逆効果だったらしい。
彼女たちの目が、さらに吊り上がった。
「まあ! “だけ”ですって!」
「どれだけ私たちが応募しても受からなかったと思っているの!?」
「嫌味ったらしい!」
——どうやら、さらに火に油を注いでしまったようだ。
どうしたものかと視線をさまよわせていると、中央に立っていた令嬢が、ぱちん、と派手な音を立てて扇子を閉じた。
「まあいいわ。今すぐ宰相様とのランチのお約束を取り付けてきなさい」
「は?」
突然投げつけられた無茶な要求に、思わず間の抜けた声が漏れる。
そんな私の反応に、取り巻きの令嬢二人が一斉に口を開いた。
「なんですの、その顔は! こちらはドミトル伯爵家のカミラ様ですのよ!」
「そうよ! 言われた通り、さっさと動きなさい!」
取り巻き令嬢たちの言葉に、真ん中に立つ令嬢——カミラ嬢は、誇らしげに微笑んでいた。
その要求が通ると確信しているような表情に、気づかれないようそっと息を吐き、私は静かに背筋を伸ばした。
「宰相様との面会をご希望でしたら、規則に則った手続きをお願いいたします」
「て、手続きですって?」
「はい。一階の受付に申請書類がございますので、必要事項をご記入の上、ご提出ください。宰相様ご本人の承認が下りましたら、改めてご連絡差し上げます」
秘書官としての心得として、レイトン補佐官に最初に教えられたことのひとつ。
――『手続きを踏まずに宰相様へ近づこうとする輩には、毅然と対応すること』
まさか、こんなにも早く“輩”に遭遇するとは思っていなかった。
「な、なんて失礼なの!」
「伯爵家のご令嬢に、そんなもの必要あるわけないじゃない!」
令嬢たちの勢いに思わず怯みそうになるが、ぎゅっと手を握り締めた。
「例外はございません」
レイトン補佐官を思い浮かべながら、意識して表情から感情を抜く。
ハルクス補佐官曰く、レイトン補佐官は無表情で見つめるだけで“輩”たちを追い返せるらしい。
「な、なによ……その顔!」
「あの冷徹補佐官みたいじゃない……!」
怯んだような令嬢たちの言葉に、思わず心の中で小さくガッツポーズをした。
(レイトン補佐官の真似が効いてる?)
けれど、ここで口元を緩めるわけにはいかない。
必死に笑いそうになるのを堪えながら、私は軽く一礼した。
「ご用件がないようでしたら、失礼いたします」
そう言って踵を返そうとした――その時だった。
「生意気な……!」
カミラ嬢が、手にしていた扇子を放り投げると次の瞬間、傍らに置かれていた大きな花瓶を掴み、その中身を勢いよくこちらへぶちまけた。
「きゃ……!」
全身に冷たい水が降りかかる。
飛び散った花びらと葉が、頬を掠めて床へ散った。
呆然とカミラ嬢を見つめる。
彼女は肩を激しく上下させながら、憎々しげにこちらを睨みつけていた。
けれど、その隣にいた令嬢たちは青ざめたように表情を引きつらせている。
――この花は、王宮の庭園に咲く花。
つまり、王族の所有物だ。
それを感情任せに投げつけた意味を、どうやらカミラ嬢以外は理解しているらしい。
「私は……! 宰相様とお話ししたことがあるのよ!」
カミラ嬢が震える声を張り上げる。
「優しく声を掛けていただいたことだってあるわ! 私は、私は特別なのよ……!!」
悲痛な叫びに、騒ぎを聞きつけた使用人たちが戸惑うように顔を見合わせていた。
(……私には、レイトン補佐官みたいな対応は無理ね)
内心で小さくため息をつく。
とりあえず散らばった花を片付けようと、その場に膝をつこうとした――その時。
「何をしているのかな?」
低く、柔らかな声にはっと顔を上げる。
そこには、薄く微笑みを浮かべた宰相様が立っていた。
「宰相様……」
宰相様は私へ視線を向けると、一瞬だけ目を見開く。
次の瞬間、素早く自身のジャケットを脱ぎ、包み込むように私の肩へ掛けた。
「ぬ、濡れてしまいます……!」
慌てて返そうとジャケットへ手を伸ばす。
けれど宰相様は、有無を言わせない声音でそれを制した。
「いいから」
そのまま胸元を隠すように、ジャケットの前をぎゅっと合わせてくれる。
そして――。
宰相様は静かに顔を上げ、令嬢たちへ視線を向けた。
「で、これは何の騒ぎかな?」
いつもと変わらない、穏やかな微笑み。
けれど、その目は少しも笑っていなかった。
その静かな圧に、令嬢たちは目に見えて震え始める。
「さ、宰相様! 私はただ、あなたにお会いしたくて――」
縋るように伸ばされたカミラ嬢の手を、宰相様はするりと躱した。
「近衛兵、何をしているんだい? 彼女たちを捕らえなさい」
「し、しかし……」
いつの間にか集まっていた近衛兵たちが、戸惑うように宰相様と令嬢たちを見比べる。
相手は伯爵家の令嬢だ。
しかも、一見すればただの口論にも見える。
この場で拘束していいものか迷っているのだろう。
「さ、宰相様。そこまでしなくても……」
思わず止めようと声を掛ける。
けれど宰相様は、不思議がるように片眉を跳ね上げた。
「何を言ってるんだい? 王宮職員への暴行に、王族所有物の損壊――“そこまで”するには十分すぎると思うけど」
そして、ちらりと近衛兵たちへ視線を向ける。
「そうだろう?」
その冷ややかな眼差しに、近衛兵たちははっとしたように姿勢を正した。
「か、畏まりました!」
慌てて令嬢たちへ向かっていく。
「や、やめてよ!」
「大人しく同行してください」
「宰相様! こんなの酷いわ!」
なおも宰相様へ手を伸ばすカミラ嬢は、両脇を抱えられるようにして連れて行かれる。
取り巻きの二人は青ざめた顔で俯き、大人しく近衛兵の後に続いていった。
騒ぎが収まると、周囲にいた使用人たちが静かに後片付けを始める。
「あ、お手伝いします!」
自分も花を拾おうと身を屈めかけた、その時。
「君は、他にやることがあるでしょ」
宰相様に静かに止められた。
「やること、ですか?」
意味が分からず首を傾げると、宰相様は深々とため息を落とす。
「着替えないと、風邪を引いてしまう」
「だ、大丈夫です! 私、丈夫なので!」
ぐっと両手を握ってみせると、肩に掛けられていたジャケットがずり落ちかけた。
宰相様は慌ててそれを掴み――そのまま、私の身体を横抱きに抱え上げる。
「きゃ……!?」
突然のことに、思わず小さな悲鳴が漏れた。
「しっかりジャケットを掴んで」
「え?」
きょとんと見上げると、宰相様はそっと顔を寄せ、私の耳元で低く囁く。
その距離に、どくんと心臓が跳ねた。
「……服、透けてるから」
「――っ!!」
その言葉で、真正面から水を浴びたことを思い出す。
そして今、自分が薄いシャツ一枚しか着ていないことにも。
そこまで思い至った瞬間、全身が一気に熱くなった。
「大人しく連れて行かれる気になったかな?」
先程よりも柔らかくなった声。
羞恥で顔を上げられないまま、私は小さく頷いた。
「……はい」
その返事に、宰相様がくすりと笑った気配がする。
けれど私は、その顔をまともに見ることができないまま―― ただ、ジャケットをぎゅっと握り締めることしかできなかったのだった。




