10話
「グラント書記官、楽にしてください」
「は、はい……」
目の前にいる無表情な男性が、事務的な口調でそう告げる。
けれど、とても“楽に”できるような気分ではなかった。
朝、登城した途端、ハーヴィス書記官長に呼び出された。
そのまま何の説明もないまま連れてこられたのは、豪奢な一室だった。
場違いなほどに整えられた調度品。
重厚な空気に、顔が強張る。
ちらりと隣に座るハーヴィス書記官長の顔を盗み見れば、彼は不機嫌そうに眉根を寄せていた。
その様子に、胸の奥がざわつく。
(もしかして、何かやらかしてしまった……?)
思い当たる節を必死に探すが、浮かんでくるのは些細なことばかりだ。
胃のあたりが、きゅっと痛む。
叱責で済めばいいが——
もし、このまま解雇でも言い渡されたら。
(……新しい仕事、探さなきゃ)
そんな最悪の想像が、頭をよぎる。
「グラント書記官、いくつか質問をしても?」
「は、はい……!」
無表情な男性の声に、びくりと肩が跳ねる。
その様子に、彼は一瞬だけ何か言いたげな表情を浮かべたが、すぐに咳払いをひとつすると、手元の書類へと視線を落とす。
室内に、わずかな沈黙が落ちた。
「朝は得意ですか?」
「え?」
「朝は、得意ですか?」
予想もしていなかった質問に、間の抜けた声が漏れる。
目の前の男性はわずかに目を細めると、同じ問いをもう一度繰り返した。
「は、はい!」
慌てて答えると、彼は小さく頷き、手元の書類にさらさらと何かを書き込む。
「家族構成は?」
「父と、弟と妹がおります」
「結婚のご予定は?」
「えっと……予定は、ありません」
「……理由を伺っても?」
一瞬、言葉に詰まる。
「私の実家は裕福ではないので、今は働いて、家族の助けになりたいんです。……それに、その……相手もいませんし……」
王国では、十六を過ぎれば結婚する女性が多い。
貴族であれば、それ以前から婚約者がいるのが当たり前だ。
そのどちらにも当てはまらない自分が、少しだけ気恥ずかしくて、声は自然と小さくなった。
「……結構」
男性はそれだけを告げると、淡々と次の質問へ移る。
なぜ、自分はこんな煌びやかな部屋で質問攻めにあっているのか——
その意図が、まったく見えない。
そもそも、目の前のこの男性は何者なのか。
頭の中に疑問が渦巻くが、それでも差し出される問いに、ひとつずつ答えていくしかなかった。
「では——」
男性は言葉を切り、まっすぐにこちらを見据える。
「贅沢は、好きですか?」
「……は?」
思わず目を瞬かせる。
しかし、目の前の男性は表情ひとつ変えず、こちらを見据えていた。
その様子に、これも正式な問いなのだと察し、慌てて姿勢を正す。
——何をもって“正式”なのかは分からないけれど。
「贅沢、の基準が分かりませんが……」
言葉を区切り、少しだけ考える。
「私にとっての贅沢は、焼き立てのパンを食べながら、ゆっくり紅茶を飲む時間です。——その時間が好きかと問われれば、大好きですね」
ふんわりと焼けたパンを思い浮かべると、自然と頬が緩んだ。
「……ドレスや宝石には興味は?」
「美しいとは思いますが……あっても、使い道がありませんし」
「では、広大な土地や豪邸は?」
「お手入れが大変そうですね」
「大勢の人を侍らせたいとは思いませんか?」
「あはは……うちの家には、そんなに人は入りませんよ」
思わず苦笑いを浮かべると、男性の口元がほんのわずかに——見逃してしまいそうなほど一瞬、緩んだ気がした。
「では、貴方が欲しいものは何ですか?」
「もの、ですか」
頭の中で、自分の身の回りを思い浮かべる。
雨風をしのげる家があり、パンやお菓子が焼ける立派なオーブンもある。
服などの日用品も、いただいたお給金で十分に揃えられている。
“欲しいもの”と問われても、すぐには思い浮かばなかった。
けれど——
「もの、ではありませんが……知識、でしょうか」
「知識?」
男性の声音が、わずかに変わる。
「はい。——有事の際、知識は人を救ってくれますから」
「……」
室内に、静かな沈黙が落ちた。
“もの”ではない答えは、やはり的外れだったのだろうか。
一度も口を開かなかったハーヴィス書記官長を、そっと盗み見る。
すると彼は、目元を下げて柔らかく微笑んでいた。
その表情に、ほっと胸をなで下ろした——そのとき。
「立派なお嬢さんでしょう?」
不意に降ってきた声。
低く、柔らかなその声音には、聞き覚えがあった。
驚いて振り向くと、いつからそこにいたのか——
“王子様”が壁にもたれ、穏やかに微笑んでいる。
「おう……!」
思わず“王子様”と呼びかけそうになり、慌てて口を押さえた。
「ははは、危機管理能力もばっちりだ」
楽しげに笑うと、“王子様”はゆっくりとこちらへ歩み寄る。
「セイル、満足した?」
「ええ。予想以上に」
親しげに言葉を交わす二人。
状況が飲み込めずにいると、セイルと呼ばれた無表情の男性が、丁寧に頭を下げた。
「グラント書記官。不躾な質問の数々、失礼いたしました」
「そ、そんな……!謝っていただく必要なんてありません!」
どこの誰かは分からないが、明らかに目上の人物。
そんな相手に頭を下げられ、思わず慌ててしまう。
「いや、謝るべきだ。些か失礼な問いもあったからね」
“王子様”が、わずかに声音を引き締めてたしなめる。
「……し、謝罪は受け取りますから、どうか顔を上げてください」
そう告げると、セイルはようやく顔を上げた。
その表情は相変わらず淡々としているが、どこか先ほどより柔らいで見える。
「改めまして、私は宰相閣下の筆頭補佐官を務めております、セイル・レイトンと申します」
宰相の筆頭補佐官——
それは、王宮において実務を取り仕切る、頂点に最も近い立場のひとつだ。
そんな人物と、今まで普通に言葉を交わしていたのだと気づき、思わず目を見開く。
けれど、それ以上に——
「……宰、相……様?」
ぎこちなく言葉を区切りながら、ゆっくりと“王子様”へ視線を移す。
彼は、いつもと変わらない穏やかな笑みを浮かべていた。
「隠していたわけじゃないんだけど、驚かせてしまったね」
そう言って、彼は穏やかに手を差し出した。
握手を求める、その仕草はどこまでも自然で——
「リディオル・アルヴァート。……一応、この国の宰相をしているよ」




