9話
いつもの裏庭で、図書室から借りてきた本を読んでいると、不意に影が落ちた。
顔を上げれば、そこには“王子様”の姿。
「難しい本を読んでいるんだね」
穏やかに微笑みながら、彼は隣に腰を下ろした。
「私は、自分の領地のことしか知らなかったので……勉強あるのみです」
そう言って、両手で小さく拳を作ってみせる。
その様子に、“王子様”は目元をやわらかく緩めた。
「知識は武器になるからね。いいことだと思うよ」
そう言うと、彼は静かに自分の本を開く。
私に“難しい本”なんて言っていたけれど、彼が読んでいる本のほうが、よほど難しそうだ。
ちらりと横顔を盗み見てから、私も再び本へと視線を落とした。
静かな裏庭で、二人きりの時間。
言葉を交わさなくても、不思議と心地いい時間が流れていく。
三度目の再会以来、こうして裏庭で顔を合わせることが増えた。
名前も、役職も知らない“王子様”。
何度か聞こうと思ったことはある。
けれど、彼もまた私のことを深く尋ねてこないから、なんとなく口を噤んだ。
なにより、身分や立場に縛られない、この関係を壊したくなかったから。
本を片手に、メモを取っていると——
「ぐぅ」
静かな裏庭に、お腹の虫の音が響いた。
思わずお腹を押さえ、恐る恐る隣を見る。
“王子様”は顔を伏せていた。
——けれど、その肩は、明らかに震えている。
「……聞こえましたか?」
おそるおそる尋ねると、
「…………いや、聞こえてないよ」
そう否定はしてくれたものの、たっぷりと空いた間と、笑いを堪える表情がすべてを物語っている。
(絶対に聞こえてる……!)
恥ずかしさに顔が熱くなるのを誤魔化すように、私は慌てて鞄を漁った。
取り出した包み紙をそっと開くと、中には休日に焼いたクッキーが並んでいる。
一枚つまみ上げ、残りを“王子様”へと差し出した。
「よかったら、どうぞ」
どこの誰かは分からないけれど、その身なりから高貴な人なのは間違いない。
そんな人に、自作のお菓子を差し出すのは気が引けたけれど、ひとりで食べるのもなんだか気まずい。
「君の大切な食料なのに、いいのかい?」
からかうように目を細めながらも、“王子様”は素直にクッキーを一枚受け取ってくれる。
「……口止め料です」
小さく呟いてクッキーをかじり、ちらりと視線を向けると、彼はきょとんと目を丸くした。
——そして次の瞬間。
くしゃりと相好を崩し、手にしたクッキーを軽く掲げる。
「墓場まで持っていくと約束するよ」
まるで誓いを立てるかのような仕草。
けれど、その手にあるのは素朴なクッキーで。
あまりにも不釣り合いなその光景に、思わず吹き出してしまった。
つられるように、“王子様”も笑い出す。
静かな裏庭に、二人分の笑い声がやわらかく広がった。
“王子様”は、手にしたクッキーを一口齧る。
「……美味い」
思わず、というふうにこぼれたその一言に、ほっと安堵の息が漏れた。
「三番街のお店かい?」
「えっと……私が作ったんですが」
「君が?」
「……はい」
売り物と間違われるなんて、これ以上ない褒め言葉にじわりと顔が熱くなる。
“王子様”は、しげしげと手の中のクッキーを眺めていた。
「……もしよかったら、持っていってください」
「いいのかい?」
残りのクッキーを差し出すと、“王子様”は目を瞬かせる。
私がこくりと頷くと、彼はふわりと微笑んだ。
「ありがとう。これで、残りの時間も頑張れそうだ」
その言葉に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「……甘い物、お好きなんですか?」
クッキーを受け取る姿が、どこか嬉しそうに見えて、思わず尋ねる。
「あー……」
一瞬、言葉を濁して視線を泳がせる。
不思議に思って首を傾げると、彼はごほん、とひとつ咳払いをした。
「……焼き菓子が、特に」
小さく答えたその頬は、わずかに赤らんでいる。
その様子が可愛らしくて、思わずくすくすと笑ってしまうと、“王子様”は少しだけ不貞腐れたように目を細めた。
「……パティスリーに並ぶ男の肩身の狭さを、君は知らないだろう」
「確かに……圧倒的に女性が多いですよね」
大勢の女性の中にひとり立つ“王子様”の姿を想像する。
——きっと、目立つに違いない。
「……もしよければ、また何か作ってきます」
「いいのかい?」
「笑ってしまったお詫び、ということで」
「そういうことなら——いくらでも笑ってくれていいよ」
そう言って笑うと、彼はクッキーの包みを大事そうにポケットへしまい込んだ。
その仕草が、なぜだか少し嬉しい。
「そろそろ時間かな」
「わ、もうこんな時間!」
裏庭に立つ柱時計が、休憩の終わりを告げていた。
慌てて荷物をまとめ、ぺこりと“王子様”に頭を下げる。
「お先に失礼します!」
「うん。お仕事、頑張ってね」
その言葉にもう一度頭を下げると、私は足早に書記官室へと向かった。
——その足取りは、いつもより少しだけ軽かった。




