8話
「お昼、行ってきます」
隣の席のミルトン書記官に声をかけると、彼は書類の山から顔を覗かせた。
「うん、ゆっくりしておいで」
そう微笑むミルトン書記官の顔には、疲れがにじんでいる。
社交シーズンを間近に控えた今、王宮内のどの部署も忙しさに追われていた。
この書記官室も例に漏れず、いつにも増して“大荒れ”の日々が続いている。
いつもは皆で囲む昼食も、最近ではそれぞれ手の空いた時間に取るようになっていた。
時計に目をやれば、昼食には少し遅い時間を指している。
空腹を訴えるお腹をなだめながら、私はバスケットを手に書記官室を後にした。
向かったのは、いつもの裏庭。
今日もやはり、人影はない。
以前、“王子様”と再会してから、もう一度会えるのではと密かに期待していた。
けれど、来ない日が続けば、その期待も次第に胸の奥へとしまわれていく。
誰もいない静けさが、疲れた心をそっとほどいてくれる。
ひとつ伸びをしてから、バスケットを開いた。
今日は、クリームチーズとサーモンを挟んだベーグルに、休みの日に焼いたクッキー。
ベーグルサンドにかぶりつきながら、ふと思い出したように、バスケットの中から手紙を取り出した。
父からの手紙。
定期的に送られてくる小麦や野菜に添えられて、こうして手紙も届く。
グラント領での出来事や、ミレルとミレナの様子。
それを読むたびに、皆が元気に暮らしているのだと分かって、離れていても安心できた。
——けれど、時々。
今のように忙しい日々が続くと、胸の奥に寂しさが顔を出す。
領内を駆け回り、家族や領民と笑い合っていた日々が、ふと恋しくなる。
鼻の奥がつんと熱くなり、視界がにじみそうになるのを、慌ててベーグルサンドで押し込んだ。
夏になれば、長期休暇がもらえる。
そのときは、たくさんのお土産を持って帰ろう。
父には新しい作業着を。
ミレルには万年筆を。
ミレナには流行りのドレスを。
楽しいことを考えていると、不思議と寂しさも薄れていく。
湿った目をぎゅっと閉じてから、もう一度大きくかじりついた。
——そのとき。
「ふふっ」
聞き覚えのある声に、はっとして顔を上げる。
視線の先には、あの“王子様”がいた。
口元を押さえながら、楽しそうに笑っている。
大口でかぶりついていたところを見られたのだと気づいた瞬間、顔に一気に熱が集まった。
声を出そうにも、口の中はベーグルでいっぱいで、どうにもならない。
思いもよらない状況に慌てていると、“王子様”がゆっくりとこちらへ歩み寄ってくる。
「ごめんごめん。驚かせたね」
そう言って、自然な仕草で隣に腰掛けた。
肩が触れてしまいそうなその距離に、胸の奥が小さく跳ねる。
とにかく口の中のものをどうにかしようと、必死に咀嚼する。
その様子を見ていたのか、隣からまたくすりと笑い声が漏れた。
ちらりと視線を上げると、“王子様”は楽しげにこちらを眺めている。
恥ずかしさに耐えきれず、思わず手で顔を覆った。
その仕草がまた面白かったのか、彼は小さく肩を揺らす。
「レディの食事風景を見つめるなんて、無作法だったね」
そう言いながらも、視線を逸らす様子はない。
指の隙間からそっと覗けば、やはり楽しそうにこちらを見ていた。
「リスみたいで、可愛らしくて」
「……リス、ですか?」
ようやく口の中のものを飲み込みながら、かすれた声で聞き返す。
「うん。リスは木登りが得意でしょ?」
“王子様”はくすくすと笑いながら、そっと指先を伸ばすと、私の口元についたパンくずを軽く払ってくれた。
触れられた場所に、じんわりと熱が広がる。
「それに、口いっぱいにして食べるところも、リスみたいだ」
「す、すみません……」
先程から語られる姿は、令嬢とはかけ離れている。
貴族の端くれとはいえ、男爵令嬢である自身を思い出し、思わず反省の言葉が漏れた。
「ああ、咎めているわけじゃないんだ」
少しだけ声を落として、彼は続ける。
「……だから、そんな顔をしないで」
そう笑うと、彼はそっと頭を撫でた。
その優しい仕草に、胸の奥が騒がしくなる。
静かな裏庭で、この音が聞こえてしまいそうな気がして、私はそっと自分の胸を押さえたのだった。




