第28話
「――というのが、大体のことの顛末ね」
そんな言葉で締めくくり、紅茶に口をつける。柔らかな茶葉の香りが広がって、いつの間にかこわばっていた肩の力が抜けていくのを感じた。
私の向かいでその話を聞いていた世羅と言えば、話が終わったとほぼ同時くらいに声を上げて笑う。なんなら腹を抱えて、笑いすぎて涙目になるほどに笑う彼女は久しぶりに見るくらいの笑いようだった。
「ほんっと、由良のそういうとこ好きだわ」
引き笑いを挟みながらなんとか言葉を並べて、言い終わったかと思えばまた笑う。よほど彼女のツボにハマったのだろう、これはしばらく戻ってこれないなと思って彼女の笑いが止むのを待った。
あの日、真斗さんに引導を渡す様に婚約破棄を叩きつけた日から数週間。帰ってからも繰り返し電話や連絡が向こうから来たものの、そのすべてを無視。これ以上連絡を受ける義理などなくなったのだから当然だが、ちらっと見えたメッセージには彼の怒りがこもったものがいくつも目に入り、既読をつけずに見える範囲でそれなのだから画面越しにため息をついた。
粘着質な男を振った後の末路の典型のようにとめどなくやってくるメッセージの連続に嫌気が差し、最終的には着信拒否をはじめすべての連絡手段を絶った。
世羅から連絡が来たのは、それから間もなくのこと。本命の引っ越し先の手筈が整った、という旨の連絡を受けてすぐに穂波さんと連携をとった。ある程度の流れも含めて事情を話していたおかげでその後の引っ越しも滞りなく済み、あっという間に引っ越しが終わったのが一週間前のこと。
それからは正直、目が回るような日々だった。
荷解きから役所の手続き、その他諸々――駆け巡るように過ぎていった日々を終え、ようやくひと段落が付いたから、引っ越し祝いも兼ねて、世羅の方からこちらに訪ねてきたのが今日だ。
「あの馬鹿兄貴の話は一旦として……少しはこっちの生活も慣れた?」
笑いすぎていた世羅の息がようやく整って、私に問いかける。ある程度荷解きは終わったとはいえまだ完全な部屋にはなっていない部屋を見渡していたが、「こんなもんだよね」とだけ呟いていた彼女に、私は思わず苦笑いを浮かべた。
「始めはどうなるかと思ったけどね。大分慣れてきたわ」
「そりゃよかった。アレも、こっちの消息わかってないみたいだし」
「正直、半信半疑だったのだけれど、本当に何の音沙汰もないからびっくりしてる」
世羅に紹介されたときから思っていた、彼らの目をかいくぐって引っ越しをするなんていう無理難題を、彼女は本当にやって見せたのだ。事実、あれから向こうからのアクションはなく、私の周りを含めてもそのような話は上がっていない。万が一の保険にと琴音に無理言って頼み真斗さんの様子を少しだけ見てもらったけれど、状況はかなり難航しているようだと話してくれた。
ただ、これは彼の執念と言うべきなのかもしれないが、穂波さんのところまではたどり着いていたようで、話をしているところを見たと琴音が苦笑いを師ながら話していた。不幸中の幸いなことに、聖がその前後に来訪することはなかったようで、彼女たちの関係が明るみになることもなかったようだ。
「そりゃね、こちとら家出のプロですから」
誇らしげに話す世羅にため息をつきたくもなったが、実際それに助けられている身分としては強くも言えない。改めて彼女の手広いコネクションに感嘆した。
「ひとまずはここの家は特定されることはないと思うよ。接近することも多分できない」
「それが本当に不思議なのよね……ただの住宅街なのに」
そう。彼女に言われてきた場所は何の変哲もない住宅街の一角だった。特段厳しいセキュリティーが敷かれているわけでもないし、目立たないことはいいことではあるけれどあまりにも周囲に溶け込んでいるせいで、逆に疑ってしまったくらいだ。
それでも自信満々に大丈夫、と豪語する世羅に向けていた疑念は、少なくともこの一週間である程度は払拭できたと思う。
あれだけのことを言って、一方的に連絡を絶ったというのに、真斗さんがここにたどり着けないのが、何よりの証拠だったから。
「ただね、少しだけ不安なこともあって」
「え、まだなんかあるの?」
ここまでは順調だ。何の文句も付けようのないほどに。
それでも一つだけ、私の脳裏によぎる不安があって。
「あの人が経営してる会社があるんだけどね」
「あー……あれだっけ、確か由良が経営に関して助言して、それをあたかもアレの手柄にされていたってやつ」
「その言い方には棘があるけど……まぁ、平たく言えばそうね」
「その会社がどうかしたの?」
「今までは私とのこともあって何事もなく進んでいたけれど、あの人単体になったら、って」
私の不安を口にすると、すぐに察してくれたのか世羅はあー……、と複雑な顔になる。
「正直、あの人の経営手腕だとそこまで長くはもたないと思うの」
「そりゃね。自分以外の人間をほとんど下に見てるような経営者ができるわけないしね」
「えぇ。それについては私も同感。だけど、それって経営が傾いた時に一番被害が出るのって、そこで働いてる方々じゃない」
そう。あの人一人にすべてを任せる形になってしまった会社、そしてそこで何も知らずに働いている社員の運命を、彼にゆだねてしまったのだ。そこに関してだけはどうにかできないかと思案してみたものの、自分の身を案じつつ彼らの生活を守るのは難しかった。仕方がないこと、と割り切れればよかったのだが、心はどうも割り切れなかった。
あの人たちは何も悪くない。今もきっと自分の守るべき家族のために働いてくれているというのに、私はその人たちを――そしてその先にいる家族を見殺しにしてしまった。
「それに関しては割り切るしかないなぁ……」
「えぇ、わかってるの。頭ではね」
どれだけ自分に言い聞かせてみても、結局心に引っかかった何かを取り除けなくて、自分の弱さを痛感する。いっそ自分が会社を乗っ取った方が、とも考えたがそれをしたらこの場所を真斗さんたちに知られてしまうかもしれないと思って、そこまで踏み出すこともできなかった。
「まぁ、夜逃げって感じだし、全部は持っていけないしね」
「頭では理解してるつもりなのだけれど、罪悪感が拭えなくて」
悶々とする日々の中、もしかして真斗さんが何かに目が覚めて放心店をするかも――なんて幻想を思い浮かべようとしたけれど、そんなビジョンはどこにも浮かばなかった。
そんなことをしている彼を、私は一切想像することもできなかった。
うなる私に、世羅も一緒に考え込む。彼女はこういう時、決して茶化すことなく親身になってくれるのも、私が信頼している理由の一つだった。
「その辺、上手いことできないかこっちでも考えてみるよ」
「えぇ、ありがとう。何か浮かんだら私も提案してみるから」
「おっけー。まぁ、社員さんたちはなんも悪くないからねぇ」
今でこそカジノのディーラーと言う派手な仕事をしているが、腐っても世羅も元お嬢様。いやだいやだと言いながら培われた経営のノウハウや問答は身に染みているようで、もしかしたら人を使う、という意味では彼女の方が真斗さんよりも経営のセンスはあるような気もしていた。
仮にそれが真実だったとしても、あの家にいる限り私たち女性が日の目を浴びることは出来なかったのだけれど。
「……もしかして、劣等感があるのかしら」
ふと、思ったことを口にする。世羅の前だと思慮の時間を置くことなく、自然と口から出てきてしまうのは一種の気のゆるみからなのだろうが、世羅はそんな私に何も言わずに首を傾げて私の言葉の意味に理解できないようだった。
思い浮かんだ一つの仮説を、私は続ける。
「あの家がなぜ、あそこまで女人禁制にするのか、って考えてみたの。あそこまで排斥するなんて、現代からはだいぶ遠のいている気がするじゃない?」
「まぁ……それが嫌で家出してきた、ってのはあるからねぇ」
「えぇ。そこまでしてでも、男性を矢面に立たせるのは、もしかしたら彼らの女性に対する一種の劣等感なんじゃないか、って話」
私の仮説に、世羅は眉間にしわを寄せる。明らかに不機嫌な顔になったが私は構わず続けた。
「あの人たちも心のどこかでは私たちの才能を理解しているんだと思う。だけどそれを認めてしまえば、自分たちの立つ瀬がなくなってしまうでしょ?」
「……それを、あのプライドの塊みたいな人たちじゃ耐えられない、と?」
「そういうこと。だからあくまでも私たち女性は補佐役として、三歩下がったところから見守らせていたとしたら?」
私の問いに、世羅は反吐を吐くような仕草をした。首を振ってやってられないね、と吐き捨てるように放ってから言葉をつづけた。
「冗談じゃない。男尊女卑だとかひと昔もふた昔も前の価値観に縋って、自分たちのプライドを守るためにあたしたちをのけ者にしてきたってことでしょ? だったとしたらやってられないね。やっぱり家出してきて正解だわ」
あからさまに嫌気の挿した顔をする世羅に、私も同調するようにうなずいた。
「なーにが女は男の後ろで家を守ることこそ幸せだ、だよ。こっちの事情はお構いなしって話じゃん」
「えぇ。本当にそうね」
幸せの定義を用意され、そうであることが正しいと言い聞かせられていた日々も、今思えばそれはきっと、”彼らにとって”の幸せでしかなかったのだ。彼らが幸せになるために、女性と言うアクセサリーがあって、そのアクセサリーは彼らの威厳を誇示するためにブランド品として育てられただけだったのだろうと思うと、今まで自分が受けてきた様々な教育に合点が付いてしまった。
でも、私はこの年になってようやく、それは違うのだと気が付くことができたのだ。
そのきっかけをくれたのは真斗さんでもなく、世羅でもない。両親でもなく、その人は。
「じゃあ、由良は織田さんのおかげで目が覚めた、ってわけだねぇ」
にやり、とあからさまにからかう口調で名前を出す世羅に、そうかも、と笑って見せる。
「まさかとは思ったけどね。そういう意味でも、聖には感謝しかないわ」
「それはぜひご本人に伝えてやんなさいな。あたしじゃないっしょ」
そういうと世羅は立ち上がる。時計を見れば結構時間も経っていて、そろそろ陽が落ちる頃。彼女の仕事が始まる時間に近づいていることに気づいたようで、そろそろ帰るわ、と身支度を始めた。
「仕事前なのに来てもらっちゃってごめんなさい」
「いいっていいって。それにこれからむしろあたしもここに来れるようになるから、定期的に顔出しに来るよ」
「えぇ。そうしたらいい茶葉を用意して待ってるわね」
他愛ないやり取りをして、世羅を見送る。彼女がここに来ることが増えるなら、とこれからの未来に想像を膨らませて、少しだけ気が晴れた気がした。
ここは、私の新しい城。私にとっての悪が来ることのできない、私が選んだ場所だ。
ここには、きっとこれからの未来で出会う人たちと色んな会話がされるだろう。
そんな未来に、あの人も――
ふと、机にあったスマホが通知を鳴らす。画面を見ればそこにあったのは、今まさに顔を思い浮かべていたその人からのもので、少し驚きながらもアプリを起動した。
【急な連絡をしてすまない。近くに居るんだが、立ち寄ってもいいか?】
文字だけだと少しぶっきらぼうに感じるそれに、自分の頬が緩むのを感じる。こんな風に連絡をくれるようになったのも最近のことで、もっと言えばこの家に引っ越しをしてからのことだった。
【もちろん。まだ少し荷物が残っているけれど、それでもよければ】
【わかった。予定が終わった後に向かうから、その時にまた連絡する】
簡単なやり取りをして、彼女が来るのならと片づけを兼ねて準備をしなければ。
心なしか、その足取りはいつもよりも軽く感じた気もしたが、きっとそれは気のせいじゃないと信じている。




