第29話 END
世羅と別れて聖から連絡があってから、簡単にできる荷解きをして待つこと数時間。時計を見れば間もなく聖が来る時間だと気が付いて、ここまであっという間に過ぎていたことに驚きを隠せなかった。窓の外はすっかり日も暮れていたし、これから始まる夜の時間は、思えば彼女と初めて出会った時間もこのくらいだったことを思い出す。
いつもよりも静かな夜だと思ったあの日。路地裏の隅に視線を移して一瞬だけ舞った赤い飛沫に警戒しつつも向かう足取りをやめられなかった先にいた聖に、初めて抱いた感情は、”この人を独りにしてはいけない”だった。
今にして思えばあの時の聖に自分のやるせなさを重ねていて、もしかしたら自分のことをわかってくれる人かもしれない、と直感的に思っただけだった。
だけどまさか、ここまでの関係になれるとは思っていなかった。
もっと言えば、私がここまで聖に入れ込むとは思わなかった。
いつか実家のために戻らなければならない、という制約を受け入れて諦めていた私にとって、織田聖と言う人はすごく眩しく見えた。その眩しい世界に手を伸ばしたら変わるかも、なんて淡い期待を抱いてしまった。
そんな私に訪れた様々な出会いと経験は、私が金杉家、という籠の中にいる限り経験できないことばかり。彼らの幸せのために費やしていたらきっと今の選択をすることもなかった。
「……だから、好きになってしまったのかも」
ぽつりとつぶやいた独り言に、もちろん返事などない。だけど腑に落ちた感覚は間違いじゃないと言ってくれているようで、心は晴れやかだった。
私が聖を好きになったところは――と考え始めようとしていたら、ふと気配を感じた。
気配を感じて顔を上げた先にいたのは、聖だった。少し困ったような顔をしていて、突然の出来事に驚いた私はそのまま体勢を崩してしまう。聖の方に倒れたのが幸いしたのか、彼女も驚いていたけれどそのまま私を抱き留める。
「大丈夫か?」
「ご、ごめんなさい。驚いてしまって」
まさか聖のことを考えていたら気づけなかった、なんて言えない。抱き留められ彼女の胸から見上げると、少し困ったような顔をしていた。それはきっと今この状況に、と言うより先ほど私がぼんやりしていたことに由来することだろうか。
「いやいいんだ、玄関先で声をかけたんだが、返事がなかったものだから」
「あぁ……少し、考え事をしていたの」
嘘は言ってない。とはいえ聖のことだから私がごまかしたことなんてお見通しだろう。小さな私の機微にも聡い彼女に、隠し事は無駄なあがきだ。とはいえそのままストレートに言ってしまうのも少し気恥しくて素直に言えないのは、私の悪いところだ。
そんな私の心情を知ってか知らずか、聖はいつもの優しい表情に戻る。その後の言及がなかったことを見るに、これ以上の追及はないらしい。そんな彼女の気遣いに感謝しつつ、改めて彼女に笑顔を向けた。
「お仕事お疲れ様。こっちまで来るのは大変じゃなかった?」
「いや、ちょうどこちら側で仕事があったんだ。ついで、と言ったら失礼かもしれないが、せっかくだからと思ってな」
「ううん、嬉しい。ようやく落ち着いてきたころだったから」
聖にはもちろん、ここに引っ越すことも事前に話していたし、下見も兼ねてと引っ越してまだ間もなかった頃に数度ここに訪れてくれた。最低限の物しか並んでいなかった部屋の頃から知る彼女は、ようやく家具も落ち着いてきた部屋を見渡してそうだな、と笑う。
「あの家の頃に比べれば物は少し減った気もするが、やっぱり由良のセンスがいいから違和感がない」
「あら、そんなに褒めても何も出ないわよ?」
「思ったことを言っただけだよ。こっちはこっちで落ち着く」
聖の言う通り、この引っ越しに先だって大分物を減らした自覚ならあった。それは実家に縁の深いものや、彼らを思い起こさせるものが主で、逆に今回の一件がなければ到底捨てられるようなものではなかったようにも思う。
人によってはきっと価値のあるものだと手を伸ばしてくるのかもしれないが、私にとってのそれは、ただの呪いでしかなかった。
だから、そうなったこの部屋を見て落ち着く、と言ってくれた聖は無意識かもしれないが私にとっては嬉しいことこの上なかった。
聖はそのままソファーの方へと向かって、いつも通りに腰かける。ふぅ、と一息つく仕草にも随分見慣れてきて、彼女の羽織りを受け取るとようやくリラックスした体勢になった。
「今日は何か?」
「大したことじゃないさ。この辺りで薬の密売があったと聞いて、アタシの関知していない話だから直接な」
「あら、そういうのは他の組員がやるものじゃないの?」
「本来はそうだな。ただ、薬に関してはアタシの馴染みのところが卸しているから、看過できないってことでね」
そういう聖からため息がこぼれる。彼女なりの統治の仕方に関して文句を言うつもりなどは毛頭ないが、それでも大変だと思うことしか私にはできない。
私も一応ではあるが経営に携わったことのある人間だが、彼女のいる世界でのそれとはきっと勝手も何もかも違う。私がおいそれと口を突っ込んでいい話ではないのだから。
だから私にできるのは、こうして疲れてきた彼女と話をするだけ。なんなら私たちの関係は私から持ち掛けた契約によるものでしかないし、本来なら彼女がこうしてここに来るのだって疲れないか、と僅かながら浮かんだ可能性を聖は感じ取ったのか、彼女は苦笑いを浮かべた。
「この時間はアタシの息抜きの時間でもあるんだ、そんな顔をしないでほしい」
「……本当になんでもお見通しね、聖は」
「なに、由良がわかりやすいだけだよ」
そう言って笑う聖に、作っていたカフェオレを手渡す。ありがとう、と受け取って一口飲む姿を眺めて、彼女が張りつめていた空気が解ける瞬間を見れば私も自然と頬が緩む。隣に腰かけようと身体を動かせば、聖は何も言わずにそのスペースを空けてくれた。
聖と出会ってから、私の見る世界が変わった。
最初は自分に似ている気がしたから。僅かに残されていた実家への反発の気持ちを少しでも解消出来たらと彼女を使って交渉をした。その条件に、と自分の身体と金銭を差し出してまで繋ぎとめておきたかった縁は、今もこうして契約と言う形で続いている。いつ破棄されたっておかしくないこの細い関係にいつの間にか依存してしまっている私を、聖は知っているのだろうか。
このまま続けばいいのに、と願うだけの私の気持ちは、きっと恋と呼ぶのだろう。
それに気づかされたのは、奇しくも私の婚約者が差し向けた人間たちの罠だった。
そしてそれは、私が聖の住む世界の一端を覗くきっかけともなった。
「こっちの生活はどうだい?」
「おかげさまで大分慣れてきたわ。友人には感謝してもしきれないくらい」
「それは良かった。手伝えることがあれば遠慮なく言ってくれ。アタシが直接かかわることは難しいが、穂波に頼るといい」
「それに関しても助かってるわ。穂波先生には色々お世話になったから」
彼女は、織田聖という人は、私たちの住む世界の住人とは違う。血で血を争い、容赦ない彼女の非道さを目の当たりにした。真っ赤に染まった部屋と、そこに転がるいくつもの死体。抗争の中で深手を負った聖から絶え間なく流れる血。身近な人の死を実感して、正直あの時は生きた心地がしなかった。
でも、きっと聖にとってはあれは日常茶飯事なのだろう。自分が死ぬかもしれない、という時だって最後まで私をかばってくれて、私の心配ばかりだった。それが彼女の本性なのだろうが、おいそれと承諾できるほど物わかりがよくなかった。
――ううん、あの時初めて物わかりの言いふりをやめた。
死んでほしくなかった。ようやく芽生え始めた気持ちを、なかったことにはできなかった。物わかりの言いふりをして、何もかも諦めて受け入れてきた人生の中で初めて受け入れることをやめたのだ。
「それにしても、このカフェオレ美味いな」
「そう? この辺りを廻っていた時に見つけたコーヒー屋さんで買ってみたの。お口にあったようでないより」
「あぁ。甘さも含めてちょうどいいよ」
馬鹿な女が恋をした。同性に。そして何より、暴力団と言う世の中にとって悪の組織の人間に。
傍から見ればただの愚行だと笑うだろう。自分の命を滅ぼす気かと嘆く人もいるだろう。
金杉財閥、なんて裕福という言葉じゃ足りないほどの場所に生まれた人間なのだからもう少し身を案じた方がいいと思うのだって当然だ。世間的にどちらがいいかなんて明らかで、日の下で堂々と歩くことができる今を、自ら進んで捨てるなんてと詰るものだっているのは確かだ。
私に足りないものなんてない。金杉財閥の人間として生きて、そのために死んでいく人生を幸せと呼ぶのなら、これ以上の幸福はない。間違っても織田組なんて言う指定暴力団の人間――それもその組長と関わるなんて、と。
でも、私にとっての何よりの幸福は、地位や名声なんてものからは得られない。
「これからどうするんだ?」
「そうねぇ、正直今はあんまり考えてないわ。実家関係についてはしばらく触れないつもりでいるし、特にやりたいことも浮かばないしね」
「そうか」
「強いて言うならこの辺の散策に、読み終わってない本を読んだり……あぁ、ツーリングもしたいわね」
「それはいい。いい気晴らしになるんじゃないかい?」
「そう思ってるわ。こっちに来て行ける場所もまた少し変わったから」
聖と出会って、私の見える景色が変わった。いつかやってくる終わりの時間を待っているあの時間は灰色だとするのなら、世界はこんなにも鮮やかだったのかと思えるほど世界が色づいた。我ながら単純だと思わずにはいられないほどに。
恋は人を変える、なんてよく言ったものだ。こんなにもあっさり変わってしまうのだから。
「ねぇ、聖」
「ん?」
他愛もない会話をして、ふと貴女の名前を呼ぶ。初めて会ったその日からずっと呼び続けていたその名前はすっかり口に馴染んで、何より名前を呼ぶとひときわ表情の変わる聖に、私は何度だって愛おしさがあふれてしまいそうになった。
私の声に、聖は何かを察したのか腰を抱く。瞳の奥、僅かに揺らめいた獣の気配を感じて背筋がぞくりと震えると、聖は静かに笑った。
「本当に、困った女だ」
「そう?」
「そうだよ。初めて会ったあの日から、由良は何も変わらない」
「そんなことないわ。貴女と出会ってから、たくさんのことが変わったのよ?」
「環境は変わったかもしれないが、由良自身は何も変わっちゃいないさ」
口づけを一つ落として、聖の手が私の腰をとらえ、もう片手で私の頭を撫でる。大きくていくつも豆をこしらえた、裏の人間として生きてきた手。前髪で隠された茨のタトゥーが垣間見える距離にまで近づいた私たちの距離は、再びゼロになる。
「初めて会ったときから、ずっと変わらず困った女のままだよ」
「あら、そんな私はお嫌い?」
「さてね。契約は契約だから」
そういう聖の真意はわからない。だけどこのまま彼女の力に身を任せればいい。今までと何も変わらない、契約書の上にある関係のまま、続けることができるから。
それはきっと、私たちを繋ぐ唯一で細い糸。
私は愚かな恋をした。織田聖と言う世の悪を愛してしまった。
聖を好きになったところなんて、きっと一つや二つじゃ表せない。
そしてそれは、きっとこれからも増えていく。
――細くて僅かな赤い糸が繋がっていると信じている、その限りは。




