第27話
「……その伝票を早く寄越せ」
立ち上がったままの真斗さんは、私が取り上げた伝票に手を伸ばす。それに反抗するように手を引っ込めた私に舌打ちをして、再び座りなおした。
向かい合う彼の視線は、いつもよりも鋭い。優しさも何もない、彼の本性に近いものだ。普段は私に向けるつもりもなかったからか、少し困惑しているようにも見えたがその真意は私にはわからない。
「そんなくだらないことを言うために俺を呼んだのか」
「くだらないことかどうかを決めるのは私です。危うく命の危険に晒された身ですから、真相を知りたいと思うのは当然でしょう」
正直、私としても何か悪い冗談だと思いたかった。聖の冗談だ、と切り捨ててしまいたかったが、そう切り捨てることのできない彼女の表情を思い出して真相を確かめたかったのだ。
藤嶺、と言う名前は多くはないが彼だけのことを指すとは限らない。彼の両親も、そして世羅だって可能性から除外することはできないのだ。
だからと言っても、考えられる人間はごく僅かだ。そもそも世羅は私たちに関係があることをあの事件以前知っているような素振りはなかったし、たとえ知っていたとしてもあんなことをけしかけるようには思えない。回りくどく見えても私に対しては直球で聞いてくるのが彼女だ。逆にあんな回りくどいことをするとは思えないし、何より私を命の危険に晒すようなことをするとはとても思えなかった。
――じゃあ逆に、この目の前の男ならあり得ると思ってしまったというのか。
はじめは考えたくはなかった、と言う方が正しい気がする。いくら真斗さんでも、婚約者の命を危険に晒すなんてするとは思えなかった。思いたくなかった、と言う方が正しい気もするけれど、どちらにせよ彼の可能性を思い浮かべたくなかったのは、私に残された僅かな彼への期待だったのかもしれない。
だけど、今の反応の全てで、そうじゃないのだと知らされた。
隠すのは上手い彼だとはいえ、さすがに先ほど投げかけられた直球な質問に狼狽えてしまったのだ。
そしてそれは、私に残された僅かな期待を霧散させてしまうことになったわけで。
「誘拐なんて物騒な。そもそも由良の勘違いか何かだったんじゃないか」
「勘違いだったらよかったのかもしれませんが、実際暴力も受けましたし、連れ去られたのも本当です」
「そんな話を俺は聞いていない。知らないことをこちらに言われても困る」
苛立ちをもはや隠すことはない。迷惑だ、とさえ言いたそうなほど不機嫌な顔をしているし、きっと私の口から誘拐打の暴力を受けただのと言う話を聞いていい顔をしていないのもわかる。
でも、それらがすべて彼の仕組んだものだから、ここまで冷静でいられるのだと思えて仕方がない。
私は一度息をつき、目の前の彼を見つめる。
「首謀者の一人が、貴方の名前を言ったそうです」
「他人と間違えたんだろ。俺は何も知らない」
「何も知らないというのなら、貴方は私が誘拐をされて、暴力を受けて、命の危険に晒されたというのに、随分冷静なんですね」
「冷静なものか。腸が煮えくり返るような気持ちだよ」
吐き捨てるように続ける真斗さんだが、彼の表情は冷静さを欠いている理由は別のところにあるような気がした。
例えばそう――私の安否の確認より、首謀者が自分の名前を滑らせたことに対して、とか。
「だというのに、由良は俺のことを疑うなんて言い出す始末だ。苛立ちを抑えられるわけないだろう」
「貴方はあくまでも認めてはくれないんですね」
「認めるも何も、俺は何も知らないんだから当然だろう」
「そうですか。――じゃあ、これはなんでしょう?」
ここで認めてくれれば、これを出すつもりもなかったのに。と思いながらカバンから書類を取り出した。そこには数枚の写真もあり、机に広げて見せれば真斗さんの表情はまた大きく変わった。
「知人に頼んで、貴方の身辺を調べました。数日後も付けていただいて、納めてもらったのがこの写真です」
並べられている写真は、ここ数日の彼の様子。出入りしているビルはどうやら小さな半グレの組織たちが根城にしている所らしく、それは以前私が襲われた組織規模だということも調べがついている。
そしてその組織たちは皆、聖が率いている織田組に強い不満を抱いている人たちであることも。彼ら個人では太刀打ちできないこともわかっているが、燻っていていつか機会を窺っていることも。
組織の詳細については聖にも確認をとったし、これを撮影してくれた琴音も裏鶏ができている、と頷いていた。詳細なメンバーの名前も記した書類も目の前に出し、真斗さんは私のことをにらみつけた。
「どういうつもりだ」
「それはこちらのセリフです。どうして貴方がこんなところに顔を出す必要があるんですか?」
「俺の質問に答えろ」
彼の声が低くなる。威圧的な態度は、今までの私ならその先の言葉を飲み込んで答えていたことだろう。彼の思い通りにならないことへの怒りを抑えるためには、私が折れるしかないからと。
でも、私はここで折れるわけにはいかない。
「どうしてこんなバカなことをする。本当に何か良からぬものにでも触れたんじゃないのか」
「……そうですね。真斗さんにとって――いいえ、きっと金杉や藤嶺にとって良からぬものと出会って、触れたんだと思います」
思い浮かべるのは初めて会った時の血塗られた人。羽織に刻まれた代紋が意味する重さを知って、隠した右頬に刻まれた戒めの茨を背負い、残りの限られた時間の中で精一杯生きる彼女の姿。
彼女は彼らにとって間違いなく危険な存在で、私が関わっていることを公にすれば簡単な騒動で済む話じゃなくなるだろう。それは真斗さんもわかっているから、こうして根回しをしてなるべく足のつかない形で嗅ぎまわっているのだろう。
「だからと言って、私を誘拐するのはお門違いじゃありませんか?」
「……賢そうな人間だと思ったから、任せたつもりだったんだが、所詮は能無しだったな」
もはや隠せないとわかったのか、舌打ちを交えながら吐き捨てるように言い放った彼に、私はため息をつくことしかできなかった。
認めたのだ。今回の騒動の関係者であることを。
「由良も由良だ。何をしているのかわかっていないのか」
「分かっていますよ。だからこそ、こうして貴方や家との縁を切ると言ってるんです」
「そもそもあんな組織と繋がっている方がおかしいんだ。目を覚ませ、って言ってるのがわからないのか」
隠す気のなくなった真斗さんの語気は強くなる。外だから声は抑えられているものの、不機嫌を表情前面に押し出しているのは彼なりの威圧だ。
――女は黙って男の言うことを聞いていればいいんだよ。
彼のそんなあけすけな本音が、副音声のように聞こえてきて辟易するのはこっちだった。
「それを言うなら、貴方も今回の件で同罪になりますね」
「は?」
「そうでしょう? 私を誘拐することを唆し、金杉の人間を危険に晒したのだから。貴方もこうして半グレの集団と接触を図っているわけですし、むしろ真斗さんの方が罪は重いかと」
トントン、と机の書類を叩けば真斗さんは舌打ちがこぼれる。動かぬ証拠が目の前にあって、おそらく私の考えていることはきっと理解している。
「私はこれから、自分のために人生を生きます。真斗さんがこれ以上私に付き纏うようでしたら、これらの情報を金杉に流します」
声は少し震えたが、それでも彼の目をまっすぐ見た。
これからの人生に、金杉も藤嶺も、財閥と言う肩書もいらない、と。
「……じゃあなんだ、由良は俺を切って、悪の巣窟に身を投じると」
「真斗さんからはそう見えるかもしれませんね」
「俺だけじゃない。他の人間からだって同じように見える。それに、こんな事を知ったらそれこそ慎二さんが黙っちゃいない。それは由良、お前だったら一番わかっていることだろう」
「.....えぇ。だったとしても、金杉と言う組織のために一生を終えるのは嫌」
「何が不満なんだ。恵まれた世界で生まれたお前が、何をそんなに嫌がる」
彼の言葉に、私は思わず言葉を失った。
彼は本当に、心の底からあの世界にいることが私の幸せなのだと信じている。
不自由のない生活と、使っても途絶えることのない財と、誰もが喉から手が出るほどに求める地位と名声。
それらを投げ打って悪に染まることなんて幸せなわけがない、と。
「……私にとって、あの世界こそ不幸でしかなかったんです。それはきっと、真斗さんには一生をかけても理解できないでしょうね」
地位や名声に固着する人たちには、きっと私の考えなんて理解してもらえるわけがない。理解を得るための行動を起こしたところで、彼らは私の声なんて耳を傾けるつもりもないのだから。
机に広げた書類を簡単に片づけて立ち上がる。持ち去ったままの伝票もそのままに、吐き捨てた私の言葉を理解できない彼の方に一瞬だけ振り返って、にこりと微笑んだ。
「――さようなら。爪の甘い、私の”元”婚約者さん」




