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第26話

 ――そいつぁ大変だ。金持ちってのは、みんなそんな感じなの?

 ――どうでしょうね。少なくとも金杉財閥、という世界においては男尊女卑が当たり前ですから。

 穂波さんとの会話を思い出して、自分で言ったのにげんなりとした気持ちになった。

 傍から見れば裕福で、何不自由ない生活を送れる。見た目の能力と周囲を惹きつける力、そしてそれらを支える圧倒的な財力。

 世の中の女性は玉の輿だ、と目を光らせて彼のことを求めるのかもしれない。彼がどんな人間であったとしても、彼の性格などと自分の一変した生活を天秤にかけ、裕福で一変した生活に傾くのだろう。

 それであるのなら、私にとって一変した生活、というのはきっと裕福な生活ではない。


「……」


 いつもの喫茶店を前に、私の足がすくむ。これから自分が切り出そうとしている事の重大さを感じ、言うのをやめようかとも弱気になる自分がいることに気が付いて、奥歯をぐっと強く噛んだ。

 思えばこうして家の人間に抗議するのは、初めてのことなのかもしれない。思い返してみてもそれらしい記憶は浮かばなかったし、言っていたとしてもそもそも聞き入れてもらえなかったから記憶にすら残していなかったのかもしれない。無駄なことだから、と自分に言い聞かせて閉ざしたパンドラの箱をあける勇気は今の私にはなかったのかもしれないが。

 だけど、このままで居たら何も変わらないのもまた事実。誰かが始めに一歩を踏み出さなければこのままで、それは私の望む形になどなることはないのだから。

 深呼吸をして心の乱れを整えてから、ゆっくりドアを開ける。小気味のいいベルの音が耳に馴染んで、開かれた先にいた店員さんと目が合った。いつものお客様か、と軽く会釈されいつもの席に案内される。まばらな他のお客さんも何人か見覚えがあって、彼らにも似たように軽く挨拶をすれば、やはりそこに彼の姿はなかった。

 時間よりも前に来る。それも彼よりも早く。

 金杉の女は、男にいつも気を使わなければならない。できて当然、できなければ文句を言われる。麻痺しそうになるような息苦しい世界に、裕福で不自由ない生活だけを求めて飲み込むことができるのか。

 私の答えは決まっている。今までぶれていた自分の決心が、確実なものへと変わっていくのをこの一年でたくさん痛感したのだから。

 店員さんの注文に軽く答え、間もなくやってきたのはアイスコーヒーの方。彼の姿はまだか、と焦る気持ちを抑えながら喉を潤すカフェインの味は、心なしかいつもよりも苦く感じた。

 悟られてはいけない。こちら側が考えていることを悟られてしまえば、どうなるのかは火を見るよりも明らかだから。


「待たせて悪いね。本社との会議があったものだから」


 来るまでの間がこれほどまで長いと思ったことはなかった、と思えるレベルで時計を見れば待ち合わせ時間ぴったりに、真斗さんがいつも通りの様子でこちらにやってきた。私のアイスコーヒーを見るなり、「待たせすぎたようだね」と笑う彼に、嫌味な言い方だと感じてしまったのは今の私が過剰に反応しているからだろう。

 そんな真意を悟られないようににこやかに返せば、真斗さんはいつも通り向かいの席に腰かけた。その表情からは私の真意を読み取ったのかはわからなかったが、少なくともすぐに指摘をしてこない辺り、気が付いていないのかもしれない。


「会議だったんですね。それは失礼しました」

「いやいや、由良との時間が優先だとも。それに今までは俺から連絡することが多かったからね、何か重大なことでもあるんじゃないかと思って終わってすぐ来たんだ」


 真斗さんもアイスコーヒーを頼んで、私に微笑みかける。その体裁だけならこれ以上ないほど完璧で、世の女性はこういう彼の部分に惹かれるのだろう。噂程度に聞いた彼の女性がらみの話はうんざりするほど軽薄で、それでいて私に対しては異様な執着ともとれるくらいの何かを感じる。

 と言うのも、ここまで私が無下にしても婚約者、という立場を譲る気が見受けられないのだ。もちろん金杉財閥、という地位が欲しいのはわかるけれど、それにしても他の女性と比べて邪険に扱ってきたつもりなのに、それには目をつぶってどこ吹く風の彼に、私は奇妙な感じがして、寒気が背筋を通り抜けた。

 なるべく表情に出さないようにと心がけていたけれど、真斗さんが私の顔をじっと見つめて訝し気な表情になった。


「なにやら体調がすぐれないのか? 随分表情が硬いぞ」

「そうですね。最近考え事が多かったから疲れが溜まっていたのかもしれません」


 彼の指摘に鼓動が強くなる。悟られないように、と肩肘を張りすぎていたのが逆効果だったのかもしれない。

 とっさに出た言い訳に彼は納得したのかしていないのかはわからないけれど、それで? と話を進めるようだ。


「由良の方から連絡してくるなんて珍しい。何かあったのかい?」

「えぇ。――最近、ずっと考えていたことがあるんです。疲れが溜まっていた理由も、きっとそれのせいかと」


 アイスコーヒーを一口。冷たさが喉を潤して、自分がそれを求めているくらい喉が渇いていたことを察した。

 緊張している。これから自分が話すことの重大さも、その後起こるであろう彼との会話の想像も。少なくともこの場において大事にならないこと願うことしかできないけれど、言わなければ始まらない。


「私、金杉と縁を切ろうと思ってます」


 私の一言に、真斗さんの表情が硬くなる。――とぃうか、もはや固まった。想定もしていなかったのだろう。何かを言いかけていた口はそのまま言葉を発することもなく、大きく目を見開いて私のことをじっと見つめていた。

 そんな彼には構うことなく、私もまた話をつづける。


「私が金杉の人間でなくなれば、当然婚約もなかったことになります。お父様たちは私が金杉の人間であるから、貴方との婚約になったわけですから」

「な、にを言って……」

「当然ですよね? 私が本家の人間でなくなれば、貴方は私と結婚しても何のメリットもない。婿養子にでもなれば貴方も金杉の人間になれるかもしれませんけど」

「それは由良と結婚した後に俺が金杉になればいい。藤嶺の姓はあの愚妹が生きてる限り死ぬことはないのだから」

「それはあくまでも貴方たちの話ですよね。私たちには関係のないこと」

「関係大有りだ。由良が金杉の人間であることが前提条件なのは当然だし、その前提をひっくり返すなんてとんでもない」


 努めて平静を装っているつもりなのだろうが、明らかに真斗さんの様子が焦りを帯びている。あまりにも突然の報告と、自分の立場の変化を想像してしまい、普段は崩れない表情が明らかに歪んでいる。

 私はむしろ、それを望んだ。望んだとおりの展開に疑ってしまいそうにもなったけれど、そこで止まるわけにはいかない。


「私との婚約が解消されれば、今の事業に時間を割く必要もなくなるでしょう? 兼ねてから私に助言を求め、自分でやってきたと周りに言いふらしている企業なんて、貴女にとってはただの邪魔でしかないでしょうし」

「……落ち着けよ由良、急にどうしたんだ。由良らしくないじゃないか」


 ――由良らしくない。

 彼の言葉はきっと正しい。今までの私だったらこんなことをいくら思っていたとしても、決して口にはしなかった。彼との関係が悪化すればお父様たちに話が行くのは当然だし、私が妙なことにでもハマったのだと感くぐられて、家を引き払って実家に帰ってくるように強制されただろう。あの家――特にお父様にはそれだけの権限があって、あの人の一存で世界が回っているのだから。

 だけど、これからの私の人生に、彼らの存在はいらない。むしろ邪魔でしかない。


「君は何かの毒牙にでもかかったのか? そんなの俺の知ってる由良じゃないぞ」

「人間なんていくつもの側面があります。真斗さんにお見せしていたのは一部でしかありません。それは真斗さんご自身にも言えるのでは?」

「冗談は休み休み言ってほしいものだ。そんな言い方をするなんて、俺に何かやましいことでも抱えていると言われている風に感じるし、俺にはそんなやましいことはない」


 私の言い方に苛立ちを覚えたのか、明らかに声色に苛立ちが募る。言葉に揺さぶられやすいのも彼の欠点なのだが、あえてそれを指摘してしまうのは相手に塩を送るようなものだからと、ぐっとこらえた。

 表情はなるべく変えないように。声色も大きくならないように。感情を乗せず、淡々と。


「たとえそうだったとしても、私はもうあの家には帰りません。金杉の人間であることも捨て、ただの女としてこの世界を生きていくと決めたんです」


 ただの女が行く先は、茨道なんて生ぬるい世界だ。生死がいつも隣り合わせで、自分の命がいともたやすく奪われる可能性がある。私はこの身を持ってそれを知り、私を大切にしてくれる彼女のもとに行くことを、心から望む。

 私の決意を聞いてもなお、真斗さんは首を横に振った。


「馬鹿げている。そんなことをしてまで手に入れたい何かにでも出会った、とでも言いたいのか」

「そう……かもしれません。まだ、確証はありませんから」

「冗談じゃない。そんなあやふやな理由で絶縁だなんて聞いたこともないし、何より慎二さん――君の父上が許すはずもない。それは由良、君自身もわかってることだろ」


 真斗さんの鋭い視線に――それ以上にその名前を聞いて、一瞬だけ怯みかけた。

 自分の父親の名前なのに、それがただただ重くのしかかる。それほどの力を持つ人だというのも、この骨身にしみてしまっているからだ。

 でも、目を閉じた時に浮かんだ彼女が、背中を押す。


 ――だから、アタシは由良の意向に従いたい。君の望む形が、アタシの望むものだ。


「……だったとしても、私は抗う。金杉の名を捨てても、私であることを認めてくれる場所に行きたいから」

「くだらない戯言だ。気でも狂ったか」


 呆れた、とこれ以上私の話を聞く気が失せた表情をした彼は早々に立ち上がって会計を済ませようと伝票に手を伸ばす。私との話を有耶無耶にして、この話自体を聞かなかったことにするかもしれない。そうともすればここから先の話はもっとややこしくなる。

 だから、このカードを切るなら今しかない。




「気が狂ってるのは真斗さんの方でしょう? ――私の、金杉の人間の誘拐を企てておいて」




 真斗さんの手が止まる。そのわずかな隙をついて彼から伝票を取り上げた。


「……本当に気でも狂ったか由良。いつからそんなばかなことを言うように」

「むしろ嘘であってほしいと願ったくらいです。こちらとしても」


 明らかな動揺が私に映る。彼の様子で、彼女が言っていたことは本当だったんだと知って、愕然としたくなった。



『この間の件で活かしておいた奴が、妙なことを言っていたらしくてな』

『――なんでも、藤嶺とかいう人間に由良の話を聞いて、今回の一件を企てることにしたらしいんだが……藤嶺、と言う名前に心当たりはないかい?』



 この話は、きちんと明かさなければならない。

 それは今、私がどの立場に置かれているのかを知るためにも。

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