第25話
「まず端的に言って、聖の病状自体は現在は停滞している」
真剣に、まっすぐな目で私を見つめてかたった一言目は、私の思っているものとは少し違っていた。期待はずれ、なんて言ったら失礼だが、こういうものの定石としては悪化している、というのが考えられることだったから、予想外の言葉に私はどんな表情をしていたのか自分でも理解できなかった。
そんな私の顔を見て面白かったのか、穂波さんはくつくつと声を殺して笑った。
「思った通りの反応をするものだから、つい笑ってしまった。すまないね」
「……そういう冗談はいいんですよ、本当に」
こういう真剣な場だからこそ、しっかりしてほしいと思うのにと不満げな顔をすれば、彼女は話をつづけた。
「まぁ正直、現段階としての聖は至って正常でね。見た目上では他の健常者とほとんど変わらない。数値自体は少しずつ増えている傾向ではあるけれど、今すぐの急を要するほどのことじゃない、っていうのが実際のところかな」
改まった説明を聞いて、私は小さく頷いた。
現段階においては、聖の病状は悪いとは言えない。言葉の通りに受け取るのが正解だろうし、穂波先生の表情からも何か裏があるようにはとても感じられない。聖自身が話してくれた内容とも齟齬はないし、何より主治医である彼女の話を信用しなければ逆に何も信用できなくなってしまう。
とはいえ、と穂波さんは続ける。
「現段階においては正常だといっても、聖の体内には間違いなく抗体はある。それに今は猛威を振るっていなかったとしても、抗体数が増えれば間違いなく厄介なことになる」
「なるほど……」
「それに、聖は若年時代に罹患しているからね。癌もそうだけど、細胞は若ければ若いほど進行は早くなる。幸か不幸か、妊娠に関する部分は可能性として取り除けるとしても、彼女のお母様もどちらかと言えば血栓関係の病気の方が多かったから」
遺伝性のある難病、と言っていた。であるなら辿る病気の変遷も似たようなものになる可能性はあるのだろう。その可能性を語る穂波さんはいつものような胡散臭い空気はなく、一医師としての顔をしているところから見ても嘘ではないのはわかる。
「それに、少ない数ではあるが確実に抗体の数値は上昇傾向にある。根治や寛解は正直言って考えるのは現実的じゃない。静かに、それでいて確実に聖の身体を蝕んで、最後にはその力で聖の命を確実に奪ってくる」
「……」
「現段階の抗体数の上昇傾向を見るに、余命は20年前後、と言ったところだね」
穂波さんからの一言に、私の息が一瞬止まりそうになる。
聖も言っていたことだけど、改まって医者の口から出てくるとその言葉の重さに潰されてしまいそうだった。
「そうは言ってもね、今すぐ死ぬ、ってわけでもないし現状症状がひどいわけでもないからね。あまり不安にさせるような言い回しをしたことは謝るよ」
私の心の内を知ってか知らずか、穂波さんはそう言って笑って話を締めた。
どう、言葉を選んだらいいのかわからない、というのが本音だ。今までそこまで重い病気の人と関わったこともないし、初めての相手がまさか自分の好きな人だったなんて、誰が予想するだろう。つくづく神様と言うのは意地が悪いなと思わずにはいられないし、憎まれ口だって叩きたくもなる。
黙ったまま時間が過ぎていく。穂波さんは私のことを待っているのか、話を終えるとお茶を啜ってこちらの様子を伺っているようだ。私も何か話さなくちゃ、と思うのに言葉は喉につっかえて上手く言葉にならない。
「……ある程度聞いていた話とはいえ、やはり堪えますね」
何とももどかしい時間が続いて、ようやく絞り出せたそれは、あまりにも他人事のようだと感じた。自分の言葉とは思えないほどのそれに、穂波さんはそうだろうね、と笑うだけ。
「重く受け止めないでくれ、と言う方が難しい話さ。こういう話は特にね」
「えぇ……」
「とはいってもまぁ、普段は香奈子ちゃんや琴音ちゃんなんかが様子を逐一こちらに報告してくれているし、月に数回は聖の方から足を運んでもらって私も様子を見ているから、今すぐに悪化する、ってことは考えなくていいよ」
努めて明るいトーンで話してくれているのがひしひしと伝わってくる。それほどまでに気を遣わせているのだと思うと申し訳ない気持ちになってくるが、今は彼女のそれに甘えることにした。
先ほど淹れてもらったお茶が随分と冷めてしまっていた。乾いた喉を潤す様に一口含むと、身体にじんわりと広がる冷たさが心地よく感じる。
「聖の話はこんなところだね」
「ありがとうございます。改めて聞くと、本当なんだって実感がわいてきました」
「そりゃそうだろうね。あんまり有名な病気でもないから、理解するところからだし」
きっとこういう話は慣れているのだろう。穂波さんの動揺する様子は見られなくて、やっぱり名医と言われるだけのことはあるとしみじみと感じてしまう。
穂波さんはそれから私を労うような言葉をかけてから――君はどうなんだい? と問われた。
「私、ですか?」
「うんうん。金杉さんはこれから、どうしていく予定か、って話だよ」
再び、彼女の好奇心の視線に晒される。彼女からすれば今の聖の話を改めて聞いたうえで、という言葉が先についてきそうなものだが、それはあえて省略されたのかもしれない。
穂波さんの質問に、私はゆっくりと深呼吸を一つしてから――笑みを浮かべた。
「先ほど言っていた婚約者と、ひとまず縁を切ろうかと思ってます」
「ほう……」
彼女の口角が、また少しだけ上がる。まだそこまで関係値が高くないとはいえ、彼女のその表情をするときは興味をそそられた、と考えるのが妥当だ。その続きを求めている顔、と言ってもいいかもしれない。
「そもそも聖との関係が公になれば、向こうとしてはたまったものじゃない。そうなる前に火消しをするのが彼らの常套手段であり、私はそれに何度も巻き込まれました。自分の選択肢を狭められ、婚約者とともに実家の繁栄のために助力するのが幸せなんだと言い聞かせられてきた、と言う形で」
改めて口にすると、本当に向こう都合のいい話ばかりだったと思う。疑うことすらその選択肢から除外して、あたかも自分たちが正しいと言い聞かせ、最終的には可能性と言う炎は彼らの手によって消されてきたのだから。
「正直、それに気が付いてから実家に辟易していましたが、婚約者もいる手前、最終的には彼らの思い通りのルートをたどることになるのだろうと、どこか諦めていたところもあります」
決められたレールがあって、その先に待っているものも、その結末もわかってしまう人生。安定、安泰という体のいい言葉を並べては、尽く私の人生を縛り付けていたモノ。
そのレールに罅を入れたのは、あの運命の夜だった。
「だけど、聖といるときはそれを感じなかった。私、と言う個人を尊重して、私の自由を容認して、その背中を押してくれました」
初めて出会ったあの夜から今日まで、彼女のスタンスは変わらなかった。実家の話をしても、これから訪れるであろう未来について憂いた時も、私のしたいようにするといい、と言う彼女の意志は一貫しているから。
「彼女とある運命は、どこに行くのかわからない。安定や安泰とはほど遠い世界だと、この身をもって実感しました」
ある日突然訪れた命の危機。それに対して聖は至って冷静に、そして残酷な選択を躊躇わなかった。それほどまでに日常と化しているその世界に一歩踏み出してしまえば、私はきっと帰ってくることはできないだろうし、あのような出来事がまた起こらないとも限らない。
「――それでも、私は私の意志で、聖の傍にいたいと思えたんです」
決められたレールを歩かされ、その先にある安心や安泰の世界に、私の意志はない。彼らの考える”幸せ”というゴールに向かうための道具の一種で、私の主体性など求められることなどない。
そんな人生で幕を下ろすなんて、できないと思った。
「そのために、君の婚約者君との縁を切る、と?」
「はい。実家自体との縁を切るにもまずは、未来を考えられている相手との縁を切るのが妥当だと思いまして」
一筋縄でいくとは思えない。真斗さんの顔を思い浮かべて、すんなりいくような話じゃないことは考える間でもない。下手をすれば私の両親や向こうの両親も巻き込んだ話になるかもしれないし、何より婚約破棄の理由を問いただされることは避けられない。
だったとしても、そのまま実家との縁をすぐに切ることよりも幾分かましに思えるのだ。
「そいつぁ大変だ。金持ちってのは、みんなそんな感じなの?」
「どうでしょうね。少なくとも金杉財閥、という世界においては男尊女卑が当たり前ですから」
女の意見なんて聞く耳を持たない父親と、真正面から立ち向かえるだけの勇気は、今の私にはまだない。
乾いた笑いとともに自嘲めいた言葉を吐き出す私に、穂波さんは何も言わなかった。それは私への気遣いなのか、それとも――
「さて、この続きはひとまず荷物が落ち着いてからにしようか。大分休憩も長引いてしまったしね」
「そうですね。多くないとはいえ、そのままにしておくのは申し訳ありませんから」
穂波さんの一声に、私も立ち上がる。時計を見れば結構な時間が経っていることに気が付き、日暮れ――つまり穂波さんの本来の仕事の時間も差し迫っていた。本人は受診もないとは言っていたが、急患が来ないなんてことは確実ではない。彼女の仕事の邪魔にならない程度には、私の荷ほどきも終わらせなくては。
残っていたお茶を飲みほして、喉を通り過ぎていく冷たさに心地よさを感じながら、これからのことに少しだけ想い馳せて――彼女の用意してくれた部屋へと再び歩き出した。
『由良の方から話なんて珍しいな。早めに予定をつけられるように調整しよう』
私のポケットで震えたスマホに届いた彼からの通知は、一旦見なかったことにして。




