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第21話

 ――一歩踏み出すのが大事だよ。

 帰り道、先ほど世羅からの最後の言葉を思い出す。信号は赤に変わって、アクセルをゆっくりと戻して減速し、止まると反対の歩行者たちが横断した。ランドセルを背負った子供たちが礼儀正しく横断時に手を挙げているのを見てほほえましい気持ちになる。

 当たり前の光景。当たり前の景色。ごくありふれたそれらも、本当はさまざまな要因が絡み合って紙一重で構成されていることを実感するようになったのは、きっと聖と出会ったからだろう。

 非日常を経て、日常のありがたみを感じる。

 ごく当たり前のことなのに、こんなに愛おしいと思える日が来るなんて思わなかった。

 私の立場的に、周りから見ればきっと私も非日常の中に生きる人間なのだろうけれど、当事者と言うのはいつも気が付けない。それに一環らしい実感を得ることもなく、周囲にとっての非日常は、私にの日常として過ぎていく。流れる時間は残酷にも平等で、きっとこれを人は貧富の差、なんて呼ぶ。

 それでもきっと、平和の定義はどこでも同じなのだ。私の考える平和も、世羅の考える平和も、それこそ聖の考える平和だって同じはず。立場があって、考えの相違があって、衝突して、自分たちの平和のために――

 交差する信号が点滅する。間もなく変わるそれを前に、駆け足になる学生と次に備えようと立ち止まる老人。下校の時間だからその速度はまばらで、信号が変わって渡り切れなかった人たちが申し訳なさそうな顔をしながらその足取りを緩めなかった。

 数呼吸置けば私が話の信号が変わって、ギアを変えてアクセルを回す。小気味のいいエンジン音を鳴らしながら進めば風が身体を撫でた。

 考え事をしていたら事故の元、だなんてよく言うけれど、自分の言葉を振り返って本当に良かったのかと今更ながら考えてしまった。

 ――頼んだわよ、世羅。

 彼女らしい交渉条件は少し無理があった気もしたけれど、最終的にその提案を受け入れて結論を出したのは私だ。思えばきっと、相談したときからこうなるかもしれないとはある程度予想はて来ていたものの、いざ実行するともなるとやはり足踏みしてしまいそうになる。

 別に、今のままでも構わない。決まっているレールの上に乗せられて、寄り道にはすれど最終的な目的地に向かってただ時間を浪費するだけ。それは傍から見れば生まれながらにして手に入れていた富と名声で、人によってはどれだけ喉から手が出るほど欲しいと思ってもつかみ取ることのできないほどのもの。

 それを振り切って得るものに、果たしてどれだけの価値がある?

 ただ単に遅れてやってきた反抗期のように、親のレールから外れたいだけ?

 私はそれを本当に、心から望んでいる?

 考えてもちっとも出ない答えを求めて思考してみても、結局は堂々巡りになるだけだった。だから世羅に相談したというのに、結局のところ煮え切らない気持ちがあるのもまた本当だった。


「結局、これでよかったのかしらね」


 風を切り、ヘルメット越しにこぼした独り言はそのまま風に流されて消えていった。



***



 悶々としていたって、時間だけが無情にも過ぎるだけ。世羅にあんなふうに伝手があると言った手前、交渉するためにも話をしない人もいた。


「いつも悪いな」


 聖はいつも通り、決まった時間にやってくる。契約書通りの時間に、契約書通りの方法で。それは私が何か情報を喋らないための口封じであり、私が仕掛けた一方的な契約だというのに、律儀な彼女は出会ってそろそろ一年が経とうとしている今日も変わらない。


「ううん、体調の方はどう?」

「おかげさまでね。痕は残るらしいが、ほぼ全開、と言ったところだよ」


 あの事件があって、少し間があったものの無事退院した聖は心配させまいといつも通りの笑顔を浮かべる。痛みを我慢している気もするが、それ以上追及しない方がいいような気もした。

 何度も訪れていることもあってか、ここに来た聖は肩の荷を下ろしたようにリラックスする場面が増えた気がする。前からではあったが、彼女は些か私に少しだけ甘い気もする。それとなく指摘してみたことがあったが、「そんなつもりはないよ」と笑うだけで、その真偽はいまだに不明だ。そういう意味では私にあけすけにしているわけではないのだろう。

 今日も座り慣れたソファーに腰かけ、ゆっくりと息を吐く。彼女の緊張が解ける瞬間だ。


「今日も何か?」


 聖に用意していたカフェオレを置きながら問いかければ、そんなところだね、と一息つく。


「ようやくこの間の連中の後始末が終わったんだ。小さい集団とはいえ、色々手広くやっていたようだったから、そのあたりのシノギについてだとかね」

「それはお疲れ様。組長自らしてるの?」

「まさか。そのあたりの交渉は私よりも才能があるやつがいるから、そっちに任せているさ。アタシは人員配置だとか、他の組織に分配する方を考えているよ」

「組長さんとはいえ、そういうのには携わっているのね」

「それは正直組の方針とかもあるよ。少なくともうちは先代――父の頃から変わらない」


 彼女の仕事の話をするとき、瞳に宿る信念を垣間見るようで嫌いではなかった。もちろん自分の知らない世界だから、と言うのもあるのかもしれないが、今はそんな彼女の横顔を見ると胸の奥がくすぐったくなった。

 恋は人を狂わせる、なんてよく言ったものだ。こんな形で実感する日が来るとも思っていなくて、人生と言うのは本当に何があるかわからないものだ。

 私は、聖が何者であるかを知っている。彼女がどんな世界に生きていて、それらがどうかかわっているのかも、私たちの住む世界との違いも、この身を持って体験した。

 でも、聖は? 聖は私のことを、いったいどこまで知っている?

 私は彼女に、自分の身分をきちんと明かしたことはない。会話の流れや家の物である程度の金持ちであることは理解しているような気もするが、それで言ったって彼女にとっての確証になるようなことは何一つない。名前をもとに調べたのかもしれないが、彼女のように自分から身分を明かしていない。

 それはある意味不公平で、不義理な行為だ。

 機会をうかがって、いつか話さなくちゃいけないと頭のどこかで思っていても、なぜか上手く切り出せなかった。私が身分を明かしたことで、聖との関係に変化が起きてしまうかもしれないと、恐れているからだ。

 ――一歩踏み出すのが大事だよ。

 世羅の言葉が、不意に過ぎる。いつも変化を恐れる私にとって、この一歩は濁流に足を入れるような恐怖に近かった。

 ただ、世羅が動き出してくれることは決まっている。私と違って決断力のある彼女のことだから、私がこうして尻込みしている間にも、私の避難所になる場所を探してくれていることだろう。そんな彼女の奔走を無下にもできない。

 ならば、私は彼女に、聖にも話すことは筋を通すために必要なことなのだ。


「……ねぇ、聖」

「ん? どうかしたかい?」


 聖の優しい目が、私を見つめる。あの時の殺意に満ちたものとも、真斗さんのように女性を見下すようなものでもない。

 私を、金杉由良というただ一人を認めてくれる視線。


「聖は、この契約な関係をどこまで続ける?」


 色々と考えてみたけれど、結局至るのは本質的なこと。そもそも聖が今の関係を望んでいるとも限らない。今までのように過ごしていれば、きっとまたこの間のような事件が起きないとは言えない。今回はそれこそうまく行ったけれど、もう少し組織の規模が大きければもっと大変だっただろう。

 それこそ、真斗さんや父が相手になったら一筋縄では上手く行かない。

 ならば、ここで切ってしまうのだって聖の選択肢にあってもおかしくない。彼女が望んだ、カタギの人間がこれ以上彼女に関わらないというのだって選択の一つだ。私はそれを止めるつもりもない。

 私の一言に、聖は黙り込んだ。彼女も思うところがあったのだろう、簡単に答えを出さない辺り、本気で考えてくれているんだと自惚れてしまいそうになった。

 少しの間があって、聖はゆっくり目を閉じてから深呼吸をして、座りなおして私と向き合った。


「……正直な話、これ以上由良をこちら側の都合に巻き込みたくはない」

「……」

「こちら側の世界は、あんなことは日常茶飯事だ。ある程度減少しているとは言ったって、ヤクザなんてどこにだっている」

「えぇ、そうね」

「そういうことを踏まえたって、由良に迷惑をかけたいわけじゃない。資金提供だって有限だし、由良の性格上、初めて会った日のことだって他言無用にしてくれるのだってわかってるつもりだ」

「うん」

「だから、アタシは由良の意向に従いたい。君の望む形が、アタシの望むものだ」


 真剣に語る聖の目は、深く考えることもないほど真実を語っているとわかる。真正面からぶつかってきてくれる彼女の意志の強さは、今までの人生で触れてきたことがなかった。大抵の人は言葉の裏に隠された意思があって、それを読み取って会話することを強いられてきた私にとって、織田聖と言う存在は一種の特異点なのかもしれない。

 それほどまっすぐで、曇りがなくて、素直な人だから。

 だから私は、貴女に恋をした。


「……私ね、今までそんなにまっすぐな目で交渉されたことなんてないの」

「そうなのか? 由良くらいともなれば色んな人間と交渉してきているようなものだとばかり思っていたが」

「私の住んでる世界なんて、そんな綺麗じゃないのよ」


 だから、話さなくちゃ筋が通らないと思った。


「財閥の娘、ってだけで色んな目に遭ってきたから」


 はっと息をのんだ聖だったが、詳細の表情を見る余裕は自分にどうやらなかったらしい、聖の表情を見る間もなく、私は言葉をつづけた。


「私、自分のことをちゃんと紹介したことがなかったわよね。改めて自己紹介させてほしい。そのうえで、私の気持ちもあわせて聞いてくれる?」

「あぁ、もちろん聞かせて欲しい」


 今までずっと、聖の話ばかり聞いて、自分のことは隠して来た。身分も環境も、自分の気持ちだって。

 一歩を踏み出すだけの勇気はまだないけれど、半歩踏み出して、そのきっかけが欲しかった。




「改めまして、金杉由良です。実家は金杉財閥。一人娘で今は訳あってこうして一人だけれど、いずれはきっと実家に戻される運命みたい。それはきっと、そんな遠い未来の話じゃなくて、私はそれが嫌で逃げ回っている、臆病者なの」

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