第9話 離婚まであと三十日
結婚した翌朝も、エレナはいつもとほとんど同じ時間に目を覚ました。
違っていたのは、目を開けた先がマロルト家の自室ではなく、グレドフ公爵邸の公爵夫人用寝室だったことと、左手の指に青い石の指輪があることくらいである。昨夜は婚礼衣装を脱いだあと、さすがに疲れていたらしい。巨大な契約の感触について少し考えたところまでは覚えているが、その先はきれいに眠ってしまった。
身支度を整えて食堂へ下りると、アレクシスはすでに席に着いていた。卓上には朝の新聞と北方から届いた報告書が一通置かれている。結婚翌日の朝から仕事の書類を読んでいることに、エレナは妙な安心を覚えた。
「おはようございます。よく眠れましたか?」
「ああ。君は?」
「私もです。思っていたより疲れていたようで、横になったらすぐ眠ってしまいました」
アレクシスは軽く頷き、そこで報告書を閉じた。婚約中にも何度か一緒に朝食を取ったことはあるが、今日は使用人が彼の向かいではなく隣寄りの席へ食器を整えている。夫婦の席なのだろう。ほんの少し近くなった距離が気になったものの、わざわざ離す理由もなく、エレナは案内された椅子へ腰を下ろした。
食事が始まってしばらくしてから、エレナは昨夜から気になっていたことを尋ねた。
「呪いの具合はどうですか?」
「今朝は何もない。昨夜も、式が終わってからはむしろ楽だった」
「婚姻契約が成立した影響でしょうね。しばらくは毎日、状態を記録したほうがよさそうです」
「君は今日から記録を取るつもりなのか。君らしいな」
アレクシスの口元がわずかに緩んだ。
今回の契約解除候補日は、ちょうど三十日後に置かれている。もちろん、呪いの状態が安定していなければ延期する。母や祖母の代も、何日目に解除できるかは当主の状態を見ながら判断してきたらしい。
それでも予定表には、すでに解除候補日が記されていた。
離婚まで、あと三十日。
以前なら、予定が明確になっていることを歓迎しただろう。終了日が分からない契約より、条件と目安が決まっている契約のほうが扱いやすい。
今は、その日付を思い出すたびに、胸の奥へ小さな重りを置かれるようだった。
「今日はどうする?」
アレクシスに尋ねられ、エレナは意識を食卓へ戻した。
「母に二十日までは休むよう言われていますので、今日は荷物を片づけます。持ってきた書類も整理したいですし」
「仕事を始めるつもりではないだろうな」
「整理です。読むとは言っていません」
「……ならいいが」
疑われているようでエレナは少しだけ不満だったが、婚礼の朝まで証書を確認していた実績がある以上、強く反論するのはやめておいた。
▼△▼△▼
離婚まで、あと二十七日。
休暇を終えて王立系譜院へ戻った日、エレナは朝から三件の確認案件を片づけた。
婚姻したからといって仕事の内容が変わるわけではない。机の位置も、使う記録庫も同じである。ただ、書類の宛名に一度だけ「グレドフ公爵夫人」と書かれていたため、差出人を確認してから、しばらくその文字を見つめてしまった。
間違いではない。自分は今、グレドフ公爵夫人なのだ。
それでも系譜院では、これまでどおりエレナ・マロルトとして扱うことになっている。マロルト家の家督継承資格も、系譜院での職も、今回の形式婚によって失われない。そのあたりは婚約前から取り決めたとおりである。
夕方、公爵邸へ戻ると、玄関で出迎えた侍女から「お帰りなさいませ、奥様」と言われた。
こちらも間違っていないのに、一瞬だけ返事が遅れた。
「……ただいま戻りました。アレクシス様は?」
「執務室におられます。夕食はご一緒されると伺っております」
「分かりました。私も着替えたら食堂へ行きます」
自室へ向かいながら、エレナは先ほどの「奥様」という呼び方を頭の中で繰り返した。昨日までは婚礼のため屋敷中が慌ただしく、誰にどう呼ばれているかまで意識する余裕がなかったのだろう。
公爵夫人。奥様。アレクシスの妻。
どれも今の自分を正しく示す言葉だった。ただし、三十日ほどしか使わない予定の肩書でもある。
夕食では、アレクシスが北方から届いた報告の話をし、エレナは系譜院で扱った相続案件について話した。守秘義務に触れない範囲で経緯を説明すると、アレクシスは途中で二度ほど確認を挟み、最後まできちんと聞いてくれる。
「では、結局は養子縁組の登録日のほうが先だったのか」
「はい。遺言状の日付だけ見れば実子側の主張にも理屈はあるのですが、爵位継承については別の規定が適用されます。今日、その確認まで終わりました」
「揉めそうだな」
「たぶん、もう少し揉めます。でも法的な順序は整理できましたから、あとは当事者が納得できる形を探すことになります」
「君はそういう話をしているとき、本当に楽しそうだな」
「揉め事が好きなわけではありませんよ」
「分かっている。問題を解ける形にするのが好きなんだろう」
思いがけず正確に言い当てられ、エレナは返事をするまで少し間が空いた。
「……そうかもしれません」
自分の仕事について、父や母以外の誰かにそこまで自然に理解されたのは初めてかもしれない。嬉しいと思った途端、また残りの日数が頭をよぎる。
せめて食事のあいだくらい忘れていたいのに、最近の自分は以前よりよほど予定管理が下手になったらしい。
その夜、寝支度を終えた頃に扉が叩かれた。
侍女が告げたのは、アレクシスの体調が少し悪いということだった。
エレナはすぐに上着を羽織り、廊下の向かいにある彼の部屋へ向かった。寝台の端に腰掛けたアレクシスは、北方で見たときほどではないものの、顔色が悪い。侍医はすでに呼ばれており、身体そのものに異常はないと確認していた。
「どうしてすぐ呼んでくださらなかったんですか?」
「まだ我慢できる程度だった」
「その判断をやめると、三日前に約束したばかりでしょう」
「……すまない」
素直に謝られると、それ以上責めにくい。
エレナは寝台脇の椅子へ座り、差し出された手首へ触れた。婚姻前に北方で触れたときより、反応は早かった。乱れていた脈が少しずつ落ち着き、アレクシスの浅かった呼吸もほどなく深くなる。
「やはり、結婚前より効いている気がします」
「ああ。俺もそう思う」
「痛みは?」
「ほとんどない。熱が引いていく感じがする」
状態を確かめながら、エレナは手首に当てていた指を少しずらした。脈を測る必要がなくなったところで、そのまま手を離すつもりだったのだが、アレクシスの指先がわずかに動く。
北方での夜を思い出した。
あのときと同じように、エレナは彼の手を握った。
「こちらのほうが楽ですか?」
「……ああ」
答えるまでの間が、少し長かった。
夫婦なのだから、手をつなぐことくらい何もおかしくない。まして今は呪いを鎮めるためである。理屈としては、婚約中だった北方の夜よりずっと自然なはずだった。
それなのに、結婚したあとにこうして二人きりの寝室で手を握っているほうが、エレナにはよほど意識された。
「君は大丈夫か」
「私は何ともありません。疲れたら離します」
「明日も仕事だろう」
「まだ寝るには早い時間です。それに、昨日まで休んでいました」
アレクシスはしばらく黙ったあと、諦めたように目を閉じた。
「……君には勝てないな」
何に勝ったのかは分からなかった。
ただ、彼の手から少しずつ力が抜けていくのを感じていると、悪い気はしない。エレナはそのまま椅子に座り、アレクシスの呼吸が穏やかになるまで付き添った。
眠ったのを確かめてから手を離し、自分の部屋へ戻る。
廊下を挟んで数歩しか離れていないのに、扉を閉めた途端、急に遠くなったような気がした。
夫婦になっても寝室は別々で、互いの生活へ必要以上に踏み込まない。それが最初から決めていた形だった。
けれど今夜だけは、もう少し椅子に座っていてもよかったのではないかと考えてしまった。
必要がなくなったから離れた。それは正しい。
正しいことばかりしているのに、どうしてこんなに落ち着かないのだろう。
▼△▼△▼
離婚まで、あと二十日。
結婚して十日が過ぎる頃には、公爵邸での暮らしにもすっかり慣れていた。
朝は予定が合えば一緒に食事を取り、エレナは系譜院へ、アレクシスは王宮か軍務の執務へ向かう。夕食も可能な限り共にしたが、どちらかの帰りが遅い日は無理に待たない。その日の出来事を話し、必要なら互いの仕事について意見を求める。夜になれば別々の部屋へ戻る。
文字にして並べれば、驚くほど平穏だった。
その日は二人とも予定を空け、王都近郊にあるグレドフ家の所領を見て回ることになっていた。北方の本領ほど大きくはないが、王都へ物資を送る中継地として使われる土地で、倉庫や厩舎のほか、公爵家が管理する農地もある。
エレナが同行したのは、公爵夫人として領地を知っておくため――という名目だった。婚姻期間が短い以上、細かな領政へ関わる予定はない。それでも現地の管理人たちは新しい夫人を丁寧に迎え、帳簿や施設を見せてくれた。
「北方へ送る冬支度の品も、ここを通るんですね」
「ああ。王都で調達したものは一度ここへ集める。北から来た荷も同じだ」
「以前見た補給路の、反対側ということですか」
「そうなる」
倉庫の前で説明を聞きながら、エレナは積み上げられた木箱へ目を向けた。北方を訪れたときは、街道を北へ進む荷車を見た。今は、その荷がどこから集まってくるのかを見ている。
仕事の仕組みを知ると、ばらばらだった景色がつながっていく。その感覚は、複雑な系譜を一つずつ確認していくときと少し似ていた。
「面白いか?」
「はい。記録だけで知っていたことが、実際の場所を見るとよく分かります」
「やはり視察のつもりで来ているな」
母にも同じようなことを言われた覚えがある。
「公爵夫人として領地を知るためです」
「三十日だけの?」
アレクシスが何気なく言ってから、わずかに表情を止めた。
エレナも、すぐには返事ができなかった。
間違ったことを言われたわけではない。むしろ二人とも、その前提で今日ここへ来ている。
「三十日ではありません。もう、あと二十日です」
言う必要はなかったのに、なぜか訂正してしまった。
アレクシスは数秒、エレナを見つめた。それから視線を倉庫のほうへ戻す。
「そうだったな」
声はいつもと変わらない。
それだけの会話なのに、その後しばらく二人とも口数が減った。
午後、管理棟で遅い昼食を取っていると、年配の管理人が「お二人で来ていただけてよかった」と嬉しそうに言った。
「閣下はお一人ですと、見て回るだけ見て回って、昼食まで忘れますので。奥様がいらっしゃれば、少しはお休みになるでしょう」
「それは期待しないでください。私も仕事中は昼食を忘れることがあります」
エレナが答えると、管理人は困ったようにアレクシスを見た。
「似た者同士でいらっしゃる」
アレクシスが小さく息を吐き、エレナは思わず笑った。
周囲から見れば、きっと普通の新婚夫婦に見えるのだろう。結婚したばかりで、並んで領地を見て回り、昼食の席では互いの仕事癖を話している。
実際、何も知らない相手なら、二十日後に離婚すると聞いても信じないかもしれない。
そのことが、今日は少しだけ苦しかった。
▼△▼△▼
離婚まで、あと十二日。
日数を数えないようにしようと思ったことは、一度もない。
契約を扱う仕事をしている以上、期限を忘れるほうが問題である。解除候補日が近づけば、必要な書類も確認しなければならない。母と祖母には術式の最終確認を頼む予定で、王立系譜院へ提出する婚姻解除届の様式もすでに分かっている。
だから残りの日数を把握していること自体は、何もおかしくない。
おかしいのは、以前なら確認するたび安心したはずの数字が、今は減ってほしくないと思えることだった。
その夜、アレクシスの症状は結婚後ではいちばん強く出た。
夕食の途中で彼の手が止まり、顔色が変わったのをエレナが先に見つけた。本人は「少し休めば」と言いかけたが、最後まで言わせず寝室へ向かわせる。侍医の診察では今回も身体に異常はなく、呪いによる一時的な負荷だろうということだった。
寝台へ横になったアレクシスの手を握ると、強張っていた指がゆっくりと緩んだ。
「すまない。食事の途中だったのに」
「そういう謝り方は、もうやめてください。私がここにいるのは、そのためでもあるんですから」
言ってから、少しだけ引っかかった。確かにそのとおりだった。マロルト家の女性がグレドフ家へ嫁ぐのは、新しい公爵の呪いを安定させるためである。今こうして手を握っているのは、まさに役目の一部だ。それなのに、役目だからそばにいると思われるのは嫌だった。自分でも面倒だと思う。
「エレナ?」
「何でもありません。まだ熱いですか?」
「少し。ただ、もうかなり楽だ」
「では、このままにします」
椅子を寝台へ少し寄せ、エレナは握った手を膝の上へ置いた。これまでなら症状が落ち着いたところで部屋へ戻っていたが、今日はアレクシスの顔にまだ疲れが残っている。
しばらくすると、彼が薄く目を開けた。
「眠くないのか」
「私は平気です」
「その返事は信用していいのか?」
以前、自分が彼に言った言葉だった。
エレナは少し笑った。
「今日は大丈夫です。明日は午前からですし、ここで座っているだけなら疲れません」
「俺が眠るまでいるつもりか」
「迷惑ですか?」
「まさか」
返事が早かった。
その一言だけで、胸の奥が温かくなる。こんなことで喜んではいけないと思う一方で、喜ばないようにする方法も思いつかなかった。
部屋の灯りは、寝台脇の小さなものだけに落とされていた。窓の外では風が鳴っている。二人とも話さなくなると、聞こえるのは時計の小さな音と、アレクシスの呼吸だけだった。
やがて彼の瞼が閉じ、握っていた手から少しずつ力が抜けていく。
エレナはすぐには離さなかった。
もう症状は落ち着いている。眠ってしまえば、自分がここにいる必要もない。それでも今夜は、必要かどうかを考えることに少し疲れていた。
妻なのだから、夫が眠るまでそばにいてもいいのではないか。
そう考えたあとで、その言葉に自分で傷ついた。
妻でいられるのは、あと十二日だけだ。
アレクシスの寝顔は、起きているときよりずっと若く見えた。普段は眉間や口元に残っている緊張が消え、北方軍を預かる公爵というより、ただ疲れて眠っている一人の男に見える。
この人の朝の顔も、仕事から帰ったあとの顔も、具合が悪い夜の顔も、少しずつ知ってしまった。
アレクシスも、エレナが朝食では甘い菓子をあまり取らないことや、考え事をすると指先で紙の端をなぞること、仕事の話になると食事が遅くなることくらいは、もう知っているかもしれない。
そうやって互いの日常を知っていくのが結婚生活なら、二人は思っていた以上に普通の夫婦になっている。
ただし、その日常には最初から終わりの日が書かれていた。
しばらくして、アレクシスの呼吸が完全に寝息へ変わった。
エレナはようやく手を離した。起こさないよう静かに立ち上がり、寝台を離れる。
扉の前まで来たところで、一度だけ振り返った。
あと十二日。
これまでなら、契約が予定どおり終わりへ近づいていることを示す数字だったが、十二日はあまりにも短いと思った。




