第8話 結婚式
結婚式の朝、エレナが最初に確認したのは、婚姻証書の最終版だった。
鏡台の前には髪飾りと手袋が並び、仕立て上がった婚礼衣装の裾を侍女が整えている。その横で、エレナは父から渡された書類を膝の上に置き、昨日までに確認したものと差し替えがないかページを追っていた。署名欄、証人欄、登録番号、両家の封印。どれも問題ない。
「エレナ。まさかと思うけれど、誤字を見つけたから今日の式を延期する、なんて言わないでしょうね」
背後から声をかけた母マリアンヌは、鏡越しに娘の手元を見ていた。淡い色の正装に身を包み、すでに支度を終えている。エレナは最後の頁を確認してから証書を閉じた。
「誤字くらいなら訂正して続けます。ただ、当事者名が違っていたら延期したほうがいいと思います」
「それは私も延期に賛成するわ。でも今日は、あなた自身の結婚式なのよ。もう少し花嫁らしいことを考えてもいいんじゃない?」
「衣装は着ていますし、髪も結っていただいています」
母がため息をつく。その向こうで、ソフィアが楽しそうに笑った。
「いいじゃない。マロルト家の娘らしくて。私も自分のときは、式の直前まで解除術式の順番を確認していたわ」
「おばあさま。それは結婚式の前に考えることではありません」
「数週間後には必要になるもの」
「お母さままで余計なことを教えないでください」
今度はマリアンヌが母親へ注意した。ソフィアは悪びれもせず、侍女が用意した椅子へ腰を下ろしている。
少し前までなら、エレナも祖母の言葉をもっともだと思ったかもしれない。結婚と離婚は一続きの手続きなのだから、開始前に終了方法を確認するのは正しい。実際、婚姻契約の解除条件は何度も読んでいるし、母と祖母が使った術式の記録も知っている。
けれど今日は、解除のことを考えるたび、その先にアレクシスのいない生活までついてくる。
それが以前との違いだった。
「緊張している?」
母に尋ねられ、エレナは鏡の中の自分を見た。いつもより丁寧に結われた髪。白を基調に、マロルト家の紋様を銀糸で縫い取った衣装。そして左手には、二人で選んだ小さな青石の指輪がある。
「少しは」
「あら。ようやく普通の花嫁らしい返事をしたわね」
「契約魔法を使う式ですから、失敗しないようにと思って」
「はぁ……、前言撤回するわ」
母が肩を落とし、祖母がまた笑う。エレナもつられて口元を緩めた。
失敗する心配など、本当はほとんどしていない。今日使う婚姻術式は珍しいものではなく、系譜院でも登録確認のため何度も見てきた。自分たちの契約書については、当事者である以上、むしろ誰より内容を把握している。それでも落ち着かない理由は、術式ではなかった。
今日は、好きな人と結婚する。
それだけなら、きっともっと単純に喜べた。
けれどその結婚は、最初から終わることまで決まっている。アレクシス自身が、その後の自分の人生まで丁寧に整えてくれていることも知っている。
「エレナ」
扉の近くから父オスカーに呼ばれ、エレナは立ち上がった。父も正装を整えていたが、普段の系譜院で見るときより少しだけ表情が固い。
「そろそろ出る時間だ。証書は私が持つ。お前は今日は持たなくていい」
父はそれ以上何も言わず、エレナから証書を受け取った。仕事では細かな確認を何度重ねても止めない人なのに、今日だけは書類から娘を引き離すつもりらしい。
玄関へ向かう途中、父が不意に足を緩めた。
「役目だからといって、何でも我慢する必要はないからな」
エレナは父を見た。
「何かあれば、戻ってこい。契約が続いている間でもだ」
「アレクシス様は、そのような方ではありません」
「分かっている。それでも言っておくのが父親の役目だ」
短く言って、オスカーは先へ進んだ。
契約についてなら、父はいつも条件を具体的にする。何があれば、どの条項に基づいて、どう戻るのか。そういう話をせずに、ただ戻ってこいと言ったのは珍しかった。
エレナは少しだけ笑い、その背を追った。
▼△▼△▼
王都の中央礼拝堂には、両家の親族と必要な証人、それに王家と系譜院からの立会人が集まっていた。
グレドフ公爵家の婚姻としては、驚くほど控えめな式だった。もっとも、数週間か数か月のうちに契約解除することを前提とした結婚で、王都中の貴族を招いて盛大な祝宴を開くのも妙な話である。代々そうしてきたらしく、儀礼として必要な格式は整えつつ、招待客は近しい者に限られていた。
礼拝堂の奥に、アレクシスが立っていた。
濃色の礼装は普段の軍服に近い形だが、胸元には公爵家の徽章と式典用の飾緒が加えられている。初めて顔合わせをした日にも礼装姿を見ているはずなのに、今日はなぜか少し違って見えた。
視線が合うと、アレクシスはほんのわずかに目を細めた。それだけの変化なのに、エレナには以前よりずっと分かりやすい。
父の腕を借りて通路を進みながら、エレナは自分の歩幅ばかり意識した。裾を踏まないように。歩調を崩さないように。礼拝堂の中央で立ち止まる位置を間違えないように。
そうしていないと、正面にいる人のことばかり見てしまいそうだった。
祭壇の前へ着くと、オスカーが一歩退いた。代わりにアレクシスが手を差し出す。
「大丈夫か、少し緊張しているように見える」
小声で言われ、エレナは一瞬だけ迷った。
「……少しだけです。アレクシス様は?」
「俺もだ」
意外な答えだったが、顔にはほとんど出ていない。
そこで式を司る祭司がこちらを見たので、会話は終わった。
二人は並んで祭壇へ向き直る。卓上には、先ほど父へ預けた婚姻証書が置かれていた。見慣れた自分の名とアレクシスの名が、同じ契約の当事者として並んでいる。
儀礼の言葉が読み上げられ、両家の代表が婚姻への同意を示す。続いて、祭司が二人へ意思を確認した。
「エレナ・マロルト。あなたは、自らの意思によってアレクシス・グレドフとの婚姻を結び、この契約が正しく続くあいだ、互いの名誉と権利を尊び、夫婦として支え合うことを誓いますか」
何度も読んだ文言だった。
婚姻契約の付属儀礼として定められた、ごく標準的な誓約文である。「この契約が正しく続くあいだ」という言葉も、契約解除があり得る以上、制度上は当然の表現だった。
それなのに今日に限って、一つ一つの言葉が妙に耳に残る。
夫婦として支え合う。
いつまで、とは言っていない。契約が続くあいだだけ
だ。
だからこそ、軽く答えてはいけない気がした。
「誓います」
声は思ったより落ち着いていた。
次に、同じ問いがアレクシスへ向けられる。
「アレクシス・グレドフ。あなたは、自らの意思によってエレナ・マロルトとの婚姻を結び、この契約が正しく続くあいだ、互いの名誉と権利を尊び、夫婦として支え合うことを誓いますか」
「誓う」
低く、迷いのない声だった。
その返事を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ苦しくなった。
これは形式婚だ。アレクシスにとっても、自分にとっても、家の役目として必要な結婚である。誓いの言葉に嘘はないが、それが永遠を意味しないことを二人とも知っている。
知っているのに、エレナはその声を覚えておきたいと思った。
祭司の合図に従い、二人は婚姻証書へ署名した。
まずアレクシスが名を書き、その隣へエレナが自分の名を記す。仕事で何百回と見てきた署名欄なのに、筆を置く直前だけ指先がわずかに止まった。
エレナ・マロルト。
この名で婚姻証書へ署名するのは、今日が最初で最後になるだろう。
数週間後には、同じ自分の手で解除証書へ名を書く。
そう考えたところで、アレクシスの手が紙の端へ添えられた。こちらを急かすためではない。ただ、厚い証書がずれないよう押さえてくれている。
エレナは息を整え、最後まで署名した。
両家の封印と立会人の認証が加えられ、最後に祭司が契約術式へ魔力を通す。
淡い光が、紙面に刻まれた文字の間を走った。
エレナにとって、それは見慣れた現象だった。正しく結ばれた契約は、条項同士を結ぶように魔力の線を生み、当事者の意思と署名を核にして定着する。系譜院で扱う婚姻契約も、養子契約も、形は違っても基本は同じである。
だから、自分とアレクシスのあいだに新しい契約の感触が生まれたこと自体には驚かなかった。
問題は、その直後だった。
細い一本の糸を結んだつもりが、触れた先に巨大な網がある、そんな感覚だった。
「……っ」
思わず息を止める。
自分たちの婚姻契約は分かる。今、生まれたばかりの新しい結びつきだ。条項の形も、魔力の流れも、自分が確認した文面どおりに整っている。
けれどアレクシスの側には、それとはまったく別の何かがあった。
古く、そして、途方もなく大きい。
契約魔法に敏感なエレナでも、全体を捉えることができない。幾重にも重なった術式が遠いところまで続き、どこが始まりでどこが終わりなのか分からない。ただ一つ確かなのは、自分たちの婚姻契約が成立した瞬間、その巨大な何かが確かに反応したということだった。
「エレナ?」
隣から小さく呼ばれ、顔を上げると、アレクシスがこちらを見ていた。
「どうした」
「……いえ」
エレナはもう一度、自分の感覚を確かめた。婚姻契約そのものに異常はない。条項が勝手に変質した様子もなく、自分の意思が拘束された感触もない。
なら、今感じたものは、おそらくグレドフ公爵家の呪いに関わるものだろう。
昔から、代替わりのたびに妻を必要とするほどの呪いである。普通の契約魔法と同じ規模だと考えるほうがおかしい。契約に慣れたエレナでも初めての体験だった。
「契約が成立した感覚が、思っていたより強かっただけです」
どうにかそう答えたものの、自分の声がわずかに強張っていることには、エレナ自身も気づいていた。
アレクシスはすぐには返事をせず、彼女の顔を見つめた。
「……大丈夫なのか」
「今のところは。婚姻契約自体は正常です。成立にも問題はありません」
「いや」
短く遮られて、エレナは目を上げた。
アレクシスは眉を寄せたまま、今度ははっきりと言った。
「契約のことではない。君は大丈夫なのかと聞いている」
一瞬、答えに詰まった。
胸の奥には、いま成立した婚姻契約とは別の、巨大で複雑な何かの感触がまだ残っている。痛みはない。息苦しさもない。ただ、自分の理解が追いつかないほど重いものに触れてしまったような感覚だけが消えなかった。
「……体に異常はありません」
結局、出てきたのはそんな答えだった。
アレクシスは何か言いたげに彼女を見ていたが、二人のやり取りが途切れたところで、祭司が婚姻の成立を告げた
礼拝堂に控えていた人々から祝福の拍手が起こり、エレナはそこでようやく、自分がまだ祭壇の前に立っていることを思い出した。
隣のアレクシスが手を差し出す。
今度は婚約者としてではなく、夫としての手だった。
その違いを意識した途端、さきほど感じた巨大な契約より、目の前の手のほうが気になった。
エレナは自分でも少し可笑しく思いながら、その手を取った。
▼△▼△▼
式のあとの祝宴も、両家らしく落ち着いたものだった。
大広間に長い卓を並べ、親族と立会人が食事を共にする。公爵家の正式な婚礼としては小規模だが、エレナにはむしろありがたかった。朝から慣れない衣装で過ごし続け、さらに婚姻成立の瞬間に妙な感覚まで覚えたあとで、大勢の客へ挨拶をして回る気力は残っていない。
「これであなたも無事、グレドフ公爵夫人ね」
隣へ来たマリアンヌが、満足そうに娘を眺めた。
「はい。婚姻契約も正常に成立しています」
「娘の結婚を祝う母親に対して、その返事でいいのかしら」
「では、ありがとうございます」
母が笑ったところへ、ソフィアまでやってきた。
「次は解除ね」
「おばあさま。今日くらいは言わないでください」
「あら、あなたがそれを言うの?」
指摘されて、エレナは黙った。
以前の自分なら、むしろ祖母より先に解除予定を確認していたかもしれない。母も同じことを考えたらしく、少し驚いた顔でこちらを見ている。
「……何ですか」
「花嫁になったのね、と思っただけよ」
「式が終わったのですから、そうでしょう」
「うふふ。そういう意味ではないのだけれど」
また同じことを言われた。
エレナが返事に困っていると、少し離れたところにいたアレクシスと目が合った。ローデリックと王家の立会人に何か話しかけられていたが、こちらを見ている。
母と祖母の会話など聞こえていないはずなのに、なぜか見透かされたような気がして、エレナは先に視線を逸らした。
その後、アレクシスが卓へ戻ってくると、二人で何度か祝いの言葉を受けた。夫婦として並ぶのは初めてなのに、不思議と会話には困らなかった。相手が何を聞き取れなかったか、誰へ先に挨拶するべきか、どの話を自分が引き取れば早いか。仕事を一緒にしたときと同じように、互いの動きが何となく分かる。
そのことが嬉しいと思ってしまう自分に、エレナは少し困った。
形式だけの夫婦なのだから、相性がよいことは過ごしやすさにつながる。そう整理すれば何もおかしくない。
ただ、もう自分の気持ちを知ってしまった以上、それだけでは説明にならないことも分かっている。
「疲れたか」
客が少なくなった頃、アレクシスが低い声で尋ねた。
「少しだけ。アレクシス様は?」
「俺は平気だ。だが、そろそろ邸へ戻ろう」
「まだ皆さんがおられますが」
「父上たちがいる。今日くらい任せていい」
そう言われて周囲を見ると、ローデリックはオスカーと話し、マリアンヌは王家の立会人夫人と笑っている。ソフィアに至っては、先代の婚礼記録がどうだったかを誰かに説明し始めていた。
確かに任せても大丈夫そうだった。
「では、お言葉に甘えます」
アレクシスが差し出した手を取り、二人で広間を出る。
朝から何度も手を取っているのに、婚姻が成立したあとでは、そのたびに少しだけ意識してしまう。
数日前、北方で彼の手を握ったときは、ただ苦しさが和らげばいいと思っていた。今は違う理由まで知っている。
そのことを悟られないよう、エレナはいつもどおりの顔で歩いた。
▼△▼△▼
グレドフ公爵邸へ戻ると、エレナの荷物はすでに公爵夫人用の居室へ運び込まれていた。
顔合わせや婚礼準備で何度も訪れている屋敷だが、今日から自分がここで暮らすのだと思うと見え方が少し変わる。客間へ向かっていたときとは違う廊下を進み、アレクシスに案内されて二階の一室へ入った。
寝室と小さな居間、書き物机まで備えた部屋で、窓際には系譜院から持ってきた書類箱も置かれている。滞在が短いことを考えれば十分すぎるほど準備ができている。
「足りないものがあれば、家令か侍女長に言ってくれ。仕事用の机は、使うと聞いていたので入れさせた」
「ありがとうございます。これなら、休みが明ければ仕事も問題なくできます」
「二十日までは休むと聞いている」
「母にも念を押されました」
「なら、そのとおりにしろ」
少し強い言い方なのに、可笑しさが勝った。
「分かりました。きちんと休みます」
「そうしてくれ」
アレクシスはそこで部屋の奥へは入らず、扉の近くに立ったままだった。
エレナも、その意味には気づいている。
正式な夫婦にはなったが、この婚姻に同衾は必要ない。役目を終えればそれぞれ別の人生へ戻る以上、両家とも最初から、夫婦として同じ寝室を使うことは想定していなかった。
「俺の部屋は廊下の向こうだ」
アレクシスが言った。
「夜に具合が悪くなった場合は、知らせてください」
「そのつもりだが、毎回君が付き添う必要はない」
「必要があるかどうかは、私が症状を見て決めます」
「……分かった」
北方でのことを思い出したのか、アレクシスがわずかに視線を逸らした。その反応が少し珍しくて、エレナは問いかけそうになったが、やめた。
今日のところは、これ以上彼を困らせる必要もない。
「では、おやすみなさい。アレクシス様」
「ああ。今日はありがとう」
言ってから、何に対する礼なのだろうとエレナは思った。結婚してくれてありがとう、では少しおかしい。互いに家の役目として合意した婚姻である。
アレクシスも同じことを考えたのか、一瞬だけ黙ったあと、静かに続けた。
「これからしばらく、よろしく頼む」
「はい。こちらこそ、よろしくお願いいたします」
まるで一緒に仕事を始めるときの挨拶のようだった。
それが二人らしくて安心する一方で、少しだけ寂しい。
アレクシスが廊下へ出て、扉が閉じる。
エレナはしばらくその場に立ったまま、静かになった部屋を見回した。
夫婦になった初日の夜なのに、別々の部屋で眠る。それは最初から決めていたことで、何も間違っていない。むしろ形式婚としては、このほうが正しい。
エレナは鏡台の前へ座り、手袋を外した。
指には、小さな青石の指輪がある。その下に、目では見えない婚姻契約の感触が確かに残っていた。自分とアレクシスを結ぶ、新しい契約。
そして、その先で一瞬だけ触れた、あまりにも巨大で複雑な何かが気になった。
契約を扱う者として、本来ならすぐにでも記録を確認したいところだった。ただ、今日の感覚だけでは情報が少なすぎる。婚姻が成立したばかりで魔力の流れも落ち着いていないのだから、今夜あれこれ推測しても仕方がない。
公爵家の呪いとは、きっとああいうものなのだろう。ひとまず、そう考えておくことにした。
髪から飾りを一つずつ外しながら、エレナは鏡の中の自分を見る。
今朝までは、アレクシスの婚約者で、今は妻である。
好きだと自覚してから、その人の妻になったのに、嬉しいだけではいられない。契約が正しく続くあいだ夫婦として支え合う、と今日、自分の口で誓った。その契約は、役目が終われば正しく解除することまで決まっている。
それがマロルト家の仕事であり、エレナ自身がずっと大切にしてきたことだった。
だから、何も変わらない。
そう思いながら、エレナはもう一度、指輪へ目を落とした。
今日、好きな人の妻になったのに、同時に、別れるための日々が始まるのだ。




