第7話 アレクシス視点――別れるための婚約
アレクシスが、自分はいずれマロルト家の娘と結婚するのだと初めて聞かされたのは、まだ十歳になる前だった。父ローデリックの書斎には、子どもには面白くもない古い契約書が何冊も並んでいた。北方の領地図や軍務報告ならまだ眺めるところもあったが、その日、父が机の上に置いたのは、グレドフ家とマロルト家の婚姻記録だった。
「お前が公爵位を継ぐときには、マロルト家の娘を妻に迎えることになる」
父は、明日の予定でも教えるような口調で言った。当時のアレクシスにとって結婚は、ずっと先にある大人の話でしかなかった。驚くより先に、なぜ相手まで決まっているのだろうと思ったのを覚えている。
「その人と、愛の誓いをして結婚するのですか?」
「いや」
ローデリックは首を振り、開いていた記録の一行を指で示した。
「グレドフ家の当主は、代替わりのあと一度だけ正式な妻を必要とする。相手はマロルト家から迎える。役目が終われば婚姻契約を解除し、その女性は元の人生へ戻る」
「では、離婚するために結婚するのですか?」
「結果だけ言えば、そうなる」
妙な話だと思った。だが父の顔には、冗談を言っている様子がまったくない。アレクシスはもう一度、古い記録へ目を落とした。そこには確かに、婚姻成立と、その数週間あるいは数か月後の契約解除が、何代分も同じように並んでいた。
「覚えておけ。相手の女性は、グレドフ家のために一度、名も立場も変えることになる。だから、お前はその人の人生を必要以上に奪ってはならない」
父の声が、それまでより少し低くなった。
「だが、その女性へ情を移してはならない。共に暮らせば、親しみを持つこともあるだろう。それでも役目を終えれば必ず自由にしろ。引き留めるな」
「どうしてですか?」
「昔、それができなくなりかけた公爵がいた」
ローデリックは記録を一枚めくった。誰の名だったのか、当時のアレクシスは覚えなかった。ただ、その公爵が形式上の妻を深く愛し、離婚後も再婚しなかったことだけは聞かされた。後継は親族から養子を迎えたという。
「その女性は別の人生を選んだ。公爵は引き留めなかった。それ自体は正しい。だが、最初から終わると分かっている婚姻に、戻れなくなるほど心を預ければ、苦しむのは双方だ」
父はそこで、幼い息子をまっすぐ見た。
「お前が好きになる相手は、自分で選べ。グレドフ家の事情で一時的に妻になる女性を、その立場のまま自分のものにしようとするな」
十歳にもならない子どもに、恋愛の機微まで理解できたわけではない。それでも、「自由にしろ」という言葉だけは残った。グレドフ家の都合で来てもらう人なのだから、役目が済んだら帰す。それは、北方防衛のため一時的に借りた兵を、任務のあと元の隊へ戻すのと、当時のアレクシスには同じくらい当然の話に思えた。。
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それから数年後、アレクシスは初めて、将来自分の妻になるかもしれない少女を意識して見た。両家の集まりで何度か顔を合わせていたので、知らない相手ではない。マロルト家の一人娘。淡い色の髪をきちんと結い、挨拶をすれば礼儀正しく返す。大人たちが話しているあいだも騒がず、年齢のわりに落ち着いた子だという印象だった。
ただし、その印象は冬至の祝宴の日に少し変わった。夕食前になってエレナがいないと、エレナの母マリアンヌが気づいた。使用人たちが庭や客間を探し始め、父から「お前も二階を見てこい」と言われたアレクシスは、廊下の端にある古い書庫で彼女を見つけた。扉を開けると、エレナは床に座り込み、膝の上に大きな台帳を広げていた。
「何をしている」
「書類を読んでいます」
見れば分かる、と言いかけてやめた。こちらが探し回っていたことを知らないらしく、彼女は平然としている。
「皆が探している。もう夕食だ」
「分かりました。あと三ページだけ待っていただけますか?」
アレクシスは返事に困った。普通なら、見つかったことに慌てるか、叱られると思って本を閉じる場面だろう。だがエレナは本気で三ページを読み終えるつもりらしく、視線はすでに台帳へ戻っている。
「何をそんなに熱心に読んでいるんだ」
「昔の婚姻台帳です。百年以上前は、婚姻契約の登録番号の付け方が今と違うんです。途中で規則が変わったみたいで、どこから変わったのか気になって」
「祝宴を抜け出してまで、読むものなのか?」
「書庫で見つけたので」
答えになっているようで、なっていない。結局、アレクシスは彼女が三ページ読み終えるまで待った。急かしても本を閉じそうにないと判断したからであり、別に付き合う必要はなかったはずなのだが、なぜかそのまま隣の棚に腕を組んでもたれていた。そこまで夢中になれるものがあることが、少し不思議だった。読み終えたエレナは満足そうに台帳を閉じ、それからようやく、屋敷中で探されていると知って青ざめた。
「二時間も?」
「二時間だ」
「そんなつもりでは……」
「母上には自分で説明しろ」
「……そうします」
廊下を並んで戻りながら、エレナは室内の台帳を何度も振り返っていた。よほど続きが気になるらしい。妙な子だと思った。
同時に、少し面白いとも思った。その日のことを、八年後まで覚えているとは、自分でも思っていなかった。
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その後、アレクシスは北方で過ごす時間が増えた。軍務を学び、領内の砦を回り、父の補佐として会議へ出るようになると、王都での両家の集まりにも毎回顔を出せるわけではなくなった。エレナとも会わなくなった。
ただ、名前だけは時折耳に入った。マロルト伯爵令嬢が王立系譜院で働き始めた。契約魔法の扱いに優れている。婚姻や継承の案件をすでにいくつも任されている。
聞くたびに、あの書庫で古い台帳を抱えていた少女を思い出した。やはり、ああいう仕事を選んだのかと思った。
それ以上を考えないようにしていた。父から教えられた役目は、年齢を重ねるほど具体的になっていた。自分が爵位を継げば、マロルト家の女性と結婚する。その時点でエレナが適任なら、相手は彼女になる可能性が高い。
だからこそ、会っていない相手に余計な感情を持つべきではないと思った。いずれ妻になるかもしれないから、ではない。
いずれ別れる相手だからだ。爵位を継いだあと、正式にマロルト家へ婚姻の打診をすることになり、相手がエレナだと決まったとき、アレクシスは驚かなかった。ただ、その日のうちに法務官を呼んだ。
「婚姻解除後に、相手へ不利益が残る可能性を洗い出してくれ」
法務官は少し意外そうな顔をした。
「解除後、でございますか。まだ婚姻契約の草案も整っておりませんが」
「終わることまで決まっている契約だ。先に確認しておくべきだろう」
「承知いたしました。財産については従来の取り決めがございます。今回はマロルト伯爵令嬢ご本人が系譜院にお勤めですので、官職上の扱いも確認いたしますか?」
「ああ。それから、再婚に影響するものがないかも調べてほしい」
口にしたとき、胸の奥に小さな違和感があった。まだ顔合わせすらしていない。最後に会ったのは八年前で、今のエレナがどんな人間なのかも知らない。その彼女がいつか別の男と結婚することを想像して、何かを感じる理由などないはずだった。
アレクシスは、その違和感を考えないことにした。必要な準備をする。それだけでよかった。
ところが、八年ぶりに会ったエレナは、思っていたよりずっと厄介だった。婚姻契約の草案を渡せば、遠慮なく不備を指摘した。
公爵家側に判断が偏っている条文を見つけても、身分を気にして曖昧にすることはない。それでいて、自分に有利にしたいからではなく、契約を正当なものにするために言っていることが分かる。家令が財産条項を当主同士で決めようとしたとき、アレクシスが彼女にも確認してもらうと言ったのは、気遣いではなかった。
本当に、そのほうが正しいと思ったからだ。そして、エレナが少し驚いた顔をしたことに、アレクシスのほうが驚いた。
彼女ほどの能力がある者なら、意見を求められるのは当然だと思っていた。その後も同じだった。
王立系譜院の仕事を続けたいと聞けば、辞める理由が思いつかなかった。フェルン家の件では、彼女が必要な情報を的確に拾い、自分に分からない部分を迷いなく任せてくることが心地よかった。一緒に仕事をすると話が早い、と言われたときは、危うく同じ言葉をそのまま返すところだった。
結局、「俺も同じことを考えていた」と答えた。それだけなら、まだよかった。
馬車が壊れた日、予定外に入った小さな食堂で、エレナは突然「何がお好きなんですか」と尋ねてきた。焼いた肉が好きだと答え、酒は強くないと話した。どうでもいいような話だったはずなのに、自分について知ろうとしていることが嬉しかった。
北方へ来た日には、具合が悪いことを隠したと本気で怒られた。そして、触れられた途端に呪いの負荷が和らいだ。手を握られたまま眠りへ落ちる直前、自分が何を言ったのかも覚えている。
「……もう少しだけ、このままでいてくれ」
あれは、言うべきではなかった。朝になってそう思った。
役目のために来る女性へ、必要以上に自分を支えることを求めない。苦しさを理由に、そばにいることを当然だと思わない。それはずっと守るつもりだった。それなのに、エレナの手が離れそうになった瞬間、考えるより先に引き留めていた。
彼女は「はい」と答えた。その声を聞いて安心した自分まで、はっきり覚えている。
もう、とっくに遅かった。認めないようにしていただけで、自分はエレナを愛している。
王都へ戻る馬車の中で、アレクシスは軍務報告を開いたまま、ほとんど同じページから進めずにいた。向かいにはエレナが座っている。膝の上には、本来ならもう少し後で渡すつもりだった婚姻解除後の保障案が置かれていた。文書室の手違いで、彼女はそれを先に読んだ。
「ずいぶん、離婚する気満々なのですね」
笑おうとして、うまく笑えていなかった。その顔が頭から離れない。
傷つけたのだろうか、と考えた。だが、何に傷ついたのかまでは分からなかった。保障の内容が多すぎると言われた。再婚についてまで整理していることにも引っかかっていたようだった。
それでも、外すわけにはいかない。エレナは自分の家の事情で一度、公爵夫人になる。
婚姻期間が短くても、公的な記録には残る。彼女が将来マロルト家を継ぐとき、系譜院でさらに高位の職に就くとき、あるいは別の誰かを選ぶとき、その一度の婚姻が不必要な障害になる可能性があるなら、今のうちに消しておくべきだった。好きだからこそ、なおさらだった。
彼女の人生のどこにも、自分の家の事情で生じた傷を残したくない。王都で働き続けたいなら、そうできるようにする。マロルト家へ戻りたいなら戻れるようにする。別の土地で暮らしたいなら、その選択もできるだけの財産を渡す。
そして、いつか本当に好きな相手と結婚したいと思ったなら、グレドフ家の名が邪魔をしないようにする。考えるだけで、胸の奥が鈍く痛んだ。
それでも準備しない理由にはならない。アレクシスは報告書から目を上げた。
エレナは窓の外を見ている。北方の丘はもう遠く、王都へ近づくにつれて街道沿いの建物が増えていた。横顔はいつもどおりに見える。けれど、今日はほとんど書類を開いていない。
「疲れたか?」
尋ねると、エレナは少し間を置いてから首を振った。
「少し考え事をしていただけです」
それ以上を聞くことはできなかった。自分が原因なら、何を言えばいいのか分からない。保障を減らせば安心するのかといえば、そうではないだろう。彼女は内容そのものが間違っているとは言わなかった。
アレクシスは視線を手元へ戻した。紙面の文字は読めるのに、意味が頭へ入ってこない。
父の言葉を思い出した。役目を終えれば、必ず自由にしろ。
十歳にもならない頃から、何度も聞かされてきた。その意味は今なら分かる。
エレナは、グレドフ家へ来るために生きてきたわけではない。仕事があり、家族がいて、彼女自身が積み上げてきた人生がある。それを、自分が好きになったからという理由で変えさせていいはずがない。まして彼女は、この婚姻を家の役目として受けている。
アレクシスを好きだと言ったことは一度もない。親しく話してくれる。仕事を一緒にすることを楽しみだとも言ってくれた。具合が悪いときにはそばにいて、手まで握ってくれた。
けれど、それを恋愛感情だと都合よく解釈することだけはしたくなかった。もし自分が気持ちを告げれば、エレナは困るだろう。
断れば、結婚前の関係を気まずくさせる。受け入れれば、今度は離婚を前提にした契約とのあいだで迷わせる。どちらにしても、彼女に余計な負担を一つ増やす。
だから言わない。結婚し役目を果たし、呪いが安定したら、予定どおり契約を解除する。
その後、エレナがどこへ行っても困らないようにしておく。それが、自分にできることだった。
窓の外へ夕方の光が傾き始めた。向かいのエレナが、膝の上の革表紙へそっと手を置く。その指には、二人で選んだ小さな青石の指輪があった。
あと数日で、その指輪を着けたまま彼女は妻になる。そして、そう遠くないうちに外される。
最初から分かっていることだった。分かっていたから、好きにならないつもりだった。
だが八年前、古い婚姻台帳を抱えて「あと三ページだけ」と言った少女を忘れられなかった時点で、たぶん少しずつ間違えていたのだろう。今のエレナを知ってしまったあとは、なおさらだった。
契約に向き合う真剣な横顔も、食堂で笑った顔も、北方で自分を叱った声も、手を握ったときの温度も、もう知らなかったことにはできない。それでも、終わりは変えない。
変えてはいけない。アレクシスは、彼女の指輪から目を離した。
好きだからこそ、別れる準備をする。今の自分には、それしか選べなかった。




