第6話 あなたは本当に離婚するつもりなのね
翌朝、アレクシスは何事もなかったような顔で朝食の席にいた。
顔色は昨日よりずっといい。食欲もあるらしく、焼いた肉と卵を普段どおりに食べている。昨夜、長椅子で眠り込むまで手を握っていた人と同じ人物とは思えないほど、いつものアレクシスだった。
「本当に、もう大丈夫なんですか?」
「今日は大丈夫だ。医師にも見てもらった」
「大丈夫という言葉を、私は信用していいんでしょうか」
エレナが疑わしそうに見ると、アレクシスは少しだけ黙った。
「昨日よりは、大丈夫だ。これからはなるべく正直に言う」
妙に素直に認められ、エレナは返す言葉に困った。少なくとも、具合が悪いことを隠そうとした昨日よりは話が早い。
問題は、こちらのほうだった。
昨夜、自分はアレクシスが好きなのだと気づいた。
気づいたからといって、朝になれば何かが変わるわけではない。婚礼は数日後。結婚すれば彼の呪いは落ち着き、役目が終われば婚姻契約を解除する。その予定は昨日までとまったく同じである。
違うのは、向かいに座るアレクシスを見るたび、昨日つないでいた手を思い出すようになったことくらいだった。
「どうした?」
「何でもありません」
見すぎていたらしい。エレナは慌てず、手元の茶へ視線を落とした。
好きになったところで、予定どおりにすればいい。
母も祖母も、グレドフ家との婚姻を終えたあと、それぞれ自分の人生へ戻った。母は父と出会って結婚し、今も幸せに暮らしている。形式婚の相手に好意を持ってはいけないという決まりもない。役目と感情は別の話なのだから、混ぜなければいいだけだ。
そう整理すると、少し落ち着いた。
「昨日のことだが」
ちょうどそのとき、アレクシスが口を開いた。
「はい」
「助かった。君がいてくれてよかった」
せっかく整理したものが、一瞬で乱れた。
「……お役に立てたのなら、よかったです」
どうにか普通に返す。アレクシスは特に気づいた様子もなく、手元の杯へ口をつけた。
「婚姻前でも君が触れると症状が落ち着くとは思わなかった。父上のときに同じことがあったか、戻ったら確認してみる」
「私も母に聞いてみます。契約が成立する前から影響があるなら、何か記録が残っているかもしれません」
「頼む」
仕事の話になれば、いつもどおりに考えられる。エレナは少し安心した。
今回の北方訪問は今日までである。昼前には城館を出て、夕方までに王都へ戻る予定だった。アレクシスは朝食後に軍務棟で最後の報告を受け、エレナはそのあいだ荷物をまとめることになっている。
別れ際、昨日のように無理をしないよう念を押すと、アレクシスは今度こそ素直にうなずいた。
その返事に満足して客室へ戻りながら、エレナはふと思う。
離婚したあとも、彼はきちんと休むのだろうか。
昨日までなら、そんなことを考えなかった。
考えたところで、自分にできることはない。その頃にはもう妻ではないのだから。
胸の奥に生まれた小さな重さを、エレナはひとまず見ないことにした。
▼△▼△▼
問題の書類を見つけたのは、出発の一時間ほど前だった。
荷造り自体はすぐに終わった。短い滞在分の衣類と仕事用の書類しか持ってきていないため、侍女に任せるほどでもない。予定より時間が余ったので、エレナは昨日見せてもらった城館の文書室で、グレドフ家に残る過去の婚姻記録を少し見せてもらうことにした。
婚礼前に調査を始めるつもりではない。ただ、昨夜のこともあり、婚姻前からマロルト家の女性が呪いへ影響した例がないか、目録だけ確認しておきたかった。
文書室へ案内してくれたのは、公爵家の若い文官だった。昨日も軍務棟で何度か見かけた人物である。
「前公爵閣下の婚姻関係でしたら、こちらの棚にまとめております。ただ、古いものは王都の邸宅の保管庫へ移したものもございます」
「ありがとうございます。今日は目録だけで結構です。詳しく調べるなら、母にも話を聞いてからにします」
「承知いたしました。あ、それからマロルト様。こちらも閣下から王都へ持ち帰るよう申しつかっております」
差し出されたのは、薄い革表紙の書類綴りだった。
表には、エレナ・マロルト婚姻関係、とだけ書かれている。
「私が確認する書類でしょうか?」
「はい。閣下が何度か修正されていたものですので、てっきりマロルト様にもお渡しするものかと」
文官はそう答えたあと、別の棚から目録を取るため部屋の奥へ向かった。
婚姻関係の書類なら、エレナが見ても問題ないだろう。むしろ自分が当事者である以上、確認しておくべきものだ。
そう考えて表紙を開き、最初の頁を見たところで、エレナの手が止まった。
そこに書かれていたのは、婚姻中の取り決めではなかった。
『婚姻契約解除後におけるエレナ・マロルト嬢の身分及び権利保全について』
題名を二度読んだ。
読み間違いではない。
その下には、いくつかの項目が整然と並んでいた。
第一に、王立系譜院での勤務について。グレドフ公爵夫人となる期間を理由に職歴が中断されたものとして扱わず、婚姻解除後は従前と同じ資格で勤務を継続できるよう、王宮と系譜院に事前確認を取ること。
第二に、婚姻歴の扱い。今回の婚姻がグレドフ家の代替わりに伴う特別な役目によるものであり、契約解除が当事者間の不和や有責行為によるものではないことを公的記録へ明記すること。将来、エレナが別の婚姻を望んだ場合、この婚姻歴を理由に法的な制限や家格上の異議を受けないよう、王家の認証を得ること。
そこまで読んだところで、エレナは一度頁から目を離した。
文面に問題はない。
むしろ非常によくできている。
形式婚の終了後、女性側に不利益を残さないための処置としては、エレナ自身が相談を受けたなら同じ方向を勧めただろう。公爵夫人だった女性が再婚する場合、相手家によっては婚姻歴を問題視する可能性もある。今回の事情が公的に整理されていれば、余計な争いは避けられる。
だから、続きを読まない理由はなかった。
第三は財産保障だった。
婚姻期間中にエレナが得た報酬と私有財産はすべて本人に帰属する。そのうえで、グレドフ家の事情によって一定期間生活上の制約を受けることへの補償として、婚姻解除時にまとまった額の資産を本人名義へ移す。王都に住居を求める場合は購入費を公爵家が負担し、マロルト家へ戻る場合は相当額を現金または同等の資産で渡す。
額を見て、今度は別の意味で目が止まった。
「多すぎるのでは……」
思わず声が漏れた。
エレナはマロルト家の後継候補であり、系譜院からも給与を得ている。離婚後の生活に困る予定はない。にもかかわらず、ここに書かれた保障だけで、かなり余裕のある暮らしができる。
しかも、書類の端にはアレクシスの筆跡で追記があった。
『本人が辞退を希望した場合、受領を強制しないこと。ただし選択は後日でも可能なものとする』
エレナはしばらく、その一文を見つめた。
押しつけるつもりはないらしい。
次の頁には、さらに王家への功績認定の申請案があった。今回の婚姻を単なる両家の私的な慣例ではなく、北方守護に関わる公的協力として記録し、エレナ個人の功績として正式に残す。将来の家督継承や官職上の評価にも反映できるようにするという内容だった。
最後には、婚姻解除後のグレドフ家からの干渉についても記されていた。
居住地、勤務、交友、再婚その他の私生活上の選択について、公爵家は一切の権利を主張しない。
当然のことだ、とエレナは思った。
当然であるはずなのに、その中の一語だけがやけにはっきり目に入った。
再婚。
アレクシスは、自分が別の誰かと結婚する未来まで、すでに考えている。
「マロルト様?」
呼ばれて顔を上げると、先ほどの文官が目録を抱えて戻ってきていた。
「どうかなさいましたか?」
「いえ。これは、いつ頃から準備されているんですか?」
「そちらですか? 最初の案でしたら、王都で正式な顔合わせをする前からあったはずです。婚姻のお話が決まってすぐ、閣下が法務官へ確認を命じておられましたから」
「顔合わせの前から?」
「はい。王立系譜院への照会だけは、先方に余計な心配をかけるかもしれないから婚約成立後にするように、と。あとはかなり早くから進めておられたと思います」
つまりアレクシスは、エレナとまともに話すより前から、離婚後の準備をしていたことになる。
それは理にかなっている。
最初から終わると決まっている婚姻なのだから、終わったあとのことを考えておくのは正しい。エレナ自身、つい先日の相談者に「あっさり終われるようにしておくのが良い契約だ」と話した。始めるときのことだけ考えて作れば、終わるときに困る。
まさに、そのとおりである。
それなのに今、その完璧さが少しもありがたく思えなかった。
「これ、私は見てもよかったんでしょうか」
「え?」
文官が固まった。
その反応で、答えは分かった。
「申し訳ございません。私は、てっきり――」
「大丈夫です。私のことが書かれている以上、いずれ確認する必要はあります。アレクシス様には、私が拝見したとお伝えください」
「は、はい」
青ざめた文官を責める気にはなれなかった。
悪いのは書類ではない。見せた人物でもない。
たぶん、自分の側の事情だけが、昨日までとは変わってしまったのだ。
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アレクシスが文書室へ来たのは、それから二十分ほど後だった。
軍務棟での用件を終えたらしく、外套を片腕に掛けている。部屋へ入るなり、机の上に置かれた書類綴りへ目を向け、それからエレナを見た。
「見たのか」
「はい。間違えて渡されたようですが、内容は一通り」
「そうか」
アレクシスは文官を探すように一度だけ周囲を見たが、すぐにやめた。
「彼を叱らないでください。表紙には私の名前がありますし、私も確認せずに開きました」
「叱るつもりはない。いずれ君にも見てもらうつもりだった」
「婚姻解除が近づいてから?」
「ああ。その頃には必要な認証も揃っているはずだ」
やはり、手続きを止める気はないらしい。
エレナは書類へ手を置いた。契約や法務の文書を読むときなら、気になる箇所から順に確認すればいい。今もそうすればよいはずなのに、どこから聞くべきか少し迷った。
「系譜院の勤務については、父に確認すればそれで済む話です。私自身、結婚後も続ける予定ですし」
「君の父上が院長だからこそ、別に記録を残しておいたほうがいい。父親の裁量で娘を戻した、と後から言われる余地をなくせる」
「……それは、そうですね」
正しい。
「財産保障は多すぎます。私は生活に困りません」
「だから辞退できるようにしてある」
「それなら最初から減らしても」
「選べることと、選択肢がないことは違うだろう」
これも正しい。
エレナは少し困った。
書類の内容に反論したいわけではない。むしろ専門家として見れば、どれもよく考えられている。自分が相談者なら、ここまで準備している相手を誠実だと評価するだろう。
それでも、胸の奥に刺さったものは抜けなかった。
「再婚についてまで、もう整理されているんですね」
ようやく口にすると、アレクシスは一瞬だけ黙った。
「必要だと思った」
「私が次に結婚するときのために?」
「ああ」
短い返事だった。
エレナは自分でも、なぜもう一度聞いたのか分からなかった。一度目で十分だったはずだ。
「ずいぶん、離婚する気満々なのですね」
冗談めかして言うつもりだった。
けれど思ったより、うまく笑えなかった。
アレクシスの目が、わずかに細くなる。
「そのつもりで始める婚姻だからな」
「ええ。分かっています」
「エレナ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
アレクシスはいつもと同じ静かな表情をしていた。ただ、返す言葉を選ぶように少し間を置いた。
「君は我が家の事情で、一度結婚することになる。本来なら必要のなかった婚姻歴だ。役目が終わった後まで、そのせいで不利益を負う理由はない」
「……はい」
「仕事を続けたいなら続けられるようにしておきたい。別の場所で暮らしたければ、その選択もできるようにしたい。いつか別の相手と結婚したいと思ったとき、グレドフ家の名前が邪魔をするのも避けたい」
静かで、まっすぐな声だった。
だから余計に困った。
アレクシスは本気で、エレナの離婚後を考えている。
そこに冷たさはない。面倒になったから手放すわけでもない。最初からそういう契約だったからと放っておくのではなく、終わったあとの人生にまで不利益が残らないよう、丁寧に道を整えてくれている。
これほど誠実な別れ方は、そうないだろう。
「ありがとうございます」
エレナは言った。
礼を言うべきだと思ったし、実際に感謝もしている。
「まだ案だ。君が不要だと思うものは外せばいい」
「では、王都へ戻ったら私も確認します。財産の部分は、やはり多すぎると思いますので」
「分かった」
そこで話は終わった。
いつもなら、それで十分だった。必要なことを確認し、互いに納得できる形へ直す。顔合わせの日から、二人はそうやって話を進めてきた。今日も同じである。違うのは、エレナだけだった。
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王都へ戻る馬車の中で、エレナはほとんど書類を読まなかった。
膝の上には、先ほどの書類綴りが置かれている。最終的に自分で確認するのだから持って帰れ、とアレクシスに渡されたものだ。
向かいでは、その本人が軍務報告の続きを読んでいる。
馬車の揺れに合わせて頁が小さく動く。昨日、あの手を握っていた。苦しそうな呼吸が落ち着いていくまでそばにいて、眠りかけた彼から「もう少しだけ、このままでいてくれ」と頼まれた。
あのときは、離婚した後に自分が隣にいないことが嫌だと思った。
その翌日、アレクシスは離婚した後の自分が困らないよう、何年先まで使えるような書類を準備していた。
「疲れたか?」
顔を上げると、アレクシスがこちらを見ていた。
「少し考え事をしていただけです」
「昨日あまり眠れなかったのなら、休んでいい。王都まではまだかかる」
「私は十分眠りました。アレクシス様こそ、昨日はずっと長椅子で休んでおられたでしょう」
「その後は寝台で寝た」
「でしたら……よかったです」
会話はそれだけで終わった。
彼はしばらくこちらを見ていたが、やがてまた報告書へ目を戻した。
エレナも窓の外を見る。
北方の丘が少しずつ遠ざかり、街道の景色が王都に近いものへ変わっていく。数日前、この道を北へ向かったとき、自分はアレクシスを「離婚予定の婚約者」だと思っていた。好意はあったが、それが恋だとは考えていなかった。
今は違う。
好きだと分かっている。
だからといって、彼に予定を変えてほしいと頼めるわけではない。
アレクシスは何も間違えていなかった。むしろ、最初から最後まで正しい。自分の家の事情で一時的に妻になってもらう女性へ、できるかぎり不利益を残さないようにする。その考えは、エレナが契約を扱う者として大切にしてきたものと同じだった。
正しいからこそ、困る。
もし彼が冷たい人なら、好きになることもなかった。
もしこちらの人生を何も考えていない人なら、離婚の日が来れば迷わず戻れたかもしれない。
けれどアレクシスは、エレナが彼を好きになる理由を一つずつ増やしながら、そのたびに別れたあとの道まで丁寧に用意していく。
膝の上の書類へ視線を落とす。
王立系譜院での勤務保障。財産。功績。住居。そして、再婚。
どれもエレナの自由を守るためのものだった。
その自由の中に、アレクシスと結婚を続けるという選択肢だけはない。
最初から契約にないのだから、当然である。
エレナは指先で革表紙の端をなぞった。
昨日まで、自分は離婚した後も彼の隣にいたいと思ってしまったことに困っていた。
今日になって、もう一つ分かった。
どこかで少しだけ、彼も同じように別れを惜しんでくれればいいと思っていたらしい。
そんな期待をする理由など、何もなかったのに。
向かいのアレクシスは、変わらず静かに書類を読んでいる。
エレナは声には出さず、胸の中だけでつぶやいた。
あなたは、本当に離婚するつもりなのね。




