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母も祖母も離婚しましたので、私も公爵様と離婚する予定です  作者: 九条 綾乃


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第5話 公爵家の呪い

 王都を離れて北へ進むほど、道の両側に広がる景色は少しずつ変わっていった。

 なだらかな畑が減り、代わりに低い丘と針葉樹の森が増えていく。遠くには灰色がかった山並みが連なり、その手前を太い街道がまっすぐ北へ延びていた。行き交う馬車も王都周辺とは違う。商人の荷車に混じって、軍用の荷を積んだ車列や、揃いの外套を着た騎兵の姿が目についた。


「思っていたより、軍の往来が多いんですね」


 向かいの席で書類を読んでいたアレクシスが顔を上げ、窓の外を見た。


「この先は北方軍の補給路でもある。冬が近づけば、さらに増える」

「雪で道が閉じる前に運ぶんですか?」

「ああ。食料と燃料はもちろん、矢や革、馬の蹄鉄まで運べるうちに運ぶ。冬になってから足りないと気づいても遅いからな」

 

 以前、フェルン家の婚姻記録を調べたとき、北方では街道そのものが何週間も閉ざされることがあると聞いた。規程の中に書かれた「冬期封鎖」という言葉は知っていたが、こうして補給の車列を目にすると、その意味が少し違って見える。

 今回エレナがグレドフ領を訪れることになったのは、婚礼まで一週間を切った頃だった。アレクシスが北方軍の定例報告のため領地へ戻ると聞き、婚姻後に滞在することになる公爵邸や領内を一度見ておいたほうがよいという話になったのである。

 王立系譜院の仕事は二日だけ休みを取った。母には「婚礼直前まで働いているよりは、婚約者の領地を見に行くほうがまだ普通の花嫁らしいわ」と言われたが、エレナとしてはどちらも必要な予定である。なお、母がそのあと「できれば視察のつもりで行かないでね」と付け加えた理由は、今もよく分かっていない。


「この街道の先が、国境ですか?」

「直接ではない。領都からさらに北へ三つ道が分かれる。西は山地の砦、中央は北門、東は河川沿いの監視線につながっている」


 アレクシスは膝の上の書類を裏返し、余白へ簡単な線を引いた。三本の道と、その先に小さな丸をいくつか書き込む。


「全部をグレドフ家が?」

「王国軍もいる。ただ、平時の管理と現地指揮はうちの役目だ。何かあれば、最初に動くのもこちらになる」


 淡々とした説明だった。

 けれど、窓の外ではその役目が形になって続いている。補給車列、馬を替える宿駅、街道脇の小さな詰所。これまでエレナにとってグレドフ公爵家は、代々マロルト家の女性が形式婚を結ぶ相手であり、北方を守る軍事公爵家、という公的記録の中の存在だった。

 その「北方を守る」が、初めて具体的な景色になった気がした。


「大変なお仕事ですね」

「君の仕事も、人の婚姻が成立しているか三年前まで遡って調べるだろう」

「それは比較の対象になります?」

「俺には十分、面倒に見える」


 真面目な顔で言うので、エレナは少し笑った。

 こういう返しにも、だいぶ慣れてきた気がする。


 ▼△▼△▼


 グレドフ領の中心となる領都は、王都よりずっと小さい。けれど城壁は厚く、北側の丘には軍の詰所と監視塔が並び、その向こうに公爵家の城館が建っていた。

 華美というより堅牢、という言葉が似合う屋敷だった。石造りの外壁は古いが手入れが行き届き、玄関広間には絵画より地図が多い。案内された客室の窓からも、街とその北に延びる街道がよく見えた。

 到着して少し休んだあと、エレナはアレクシスに連れられ、城館に隣接する軍務棟を見せてもらった。

 そこでは、公爵邸にいたときよりさらに彼の立場が分かりやすかった。


「東の渡しは、今週中に仮橋へ切り替えます。増水は落ち着いていますが、冬前の荷車が集中しています」

「荷重制限は?」

「一台ずつなら問題ありません」

「なら護衛を一組つけろ。渡し場で止まれば街道まで詰まる。西砦の薪は予定どおりか」

「昨日、第二便が出ました」

「受領が来るまで第三便は待たせろ。置き場が足りなければ濡らすだけだ」


 報告に来る軍人たちは、必要なことだけを伝え、アレクシスも必要なことだけを決めていく。声を荒げることはない。細かいところまで自分で口を出すわけでもなく、担当者が判断できることは任せていた。

 ただ、何を確認しなければならないのかが明確だった。

 王都で一緒に仕事をしたとき、話が早いと感じた理由が少し分かった気がする。彼は普段から、分からないことまで分かったふりをせず、必要な情報を集めて決めることに慣れているのだ。

 最後の報告が終わる頃、一人の若い将校が机に地図を広げた。


「北門側の見張り台ですが、先日の風で屋根が一部落ちました。修理はできますが、木材を回すと倉庫の補修が遅れます」

「見張り台を先にしろ。倉庫は中身を南棟へ移せばいい」

「承知しました」


 将校が地図を畳みかけたところで、アレクシスが一度だけ目を細めた。

 ほんの短い変化だった。

 けれど、エレナは気づいた。彼の右手が机の縁を強くつかんでいる。


「アレクシス様?」

「何でもない」


 返事はいつもどおりだった。将校も特に気にした様子はなく、礼をして退出していく。

 エレナはその横顔を見た。顔色が、少し白い。


「何でもない方は、机につかまらないと思います」

「立っていただけだ」


 アレクシスが黙った。

 どうやら言い訳は得意ではないらしい。


「体調がお悪いんですか?」

「少し休めば戻る」

「それはやはり、体調が悪いという意味ですね?」

 

 エレナが言うと、彼はしばらくこちらを見たあと、小さく息を吐いた。


「……呪いだ」


 その言葉で、問い返す必要がなくなった。

 グレドフ公爵家の呪い。

 代替わりした新当主は、一度だけ正式な妻を迎えなければならない。マロルト家の女性がその妻となり、しばらく婚姻を続け、状態が安定したところで契約を解除する。エレナが幼い頃から聞かされてきた、両家の古い役目である。

 けれど、それが実際にどんな形で当主へ負担をかけるのか、エレナは詳しく知らなかった。


「痛むんですか?」

「痛み、というより……熱に近い。身体の内側へ、急に力を流し込まれるような感じだ。ひどいときは眩暈がする」

「いつからです?」

「爵位を継いでからだ」

「いえ。今日は、いつからです?」

「朝から少し」


 エレナは眉を寄せた。


「朝から?」

「移動できないほどではなかった」

「無理をなさらないでください。私の予定など、気になさらなくてもよかったのに」


 思ったより強い声が出た。

 アレクシスがわずかに目を見開く。エレナ自身も少し驚いたが、訂正する必要はないと思った。


「私は、その呪いを鎮めるために結婚するんですよね。でしたら状態を知っておくのも、婚姻当事者として必要です。まして、今日のように悪化しているなら先に言ってください」

「言えば、君は来なかっただろう」

「来ます。むしろ来るべきでしょう」

「……そうか」


 返事が妙に素直だった。

 そこで再び、アレクシスの表情がわずかに歪んだ。今度は先ほどより明らかだった。机へ置いた指先から力が抜け、呼吸が浅くなる。

 エレナはすぐに立ち上がった。


「医師を呼びます」

「慣れている」

「慣れていても呼びます」


 反論を待たず、扉の外にいた従者へ声をかける。公爵家では当然、この症状について把握していたらしい。ほどなく年配の侍医が来て、脈や瞳を確認したあと、静かな部屋で休ませるよう指示した。


「お身体そのものに異常はございません。いつもの発作でしょう。ただ、今日は少し強いようです」

「薬は?」


 エレナが尋ねると、侍医は首を振った。


「眠りやすくするものならございますが、根本には効きません。前公爵閣下のときも、婚姻が成立してしばらくすると自然に治まっております」


 つまり、予定どおり結婚するしかない。

 それは最初から分かっていたことのはずなのに、目の前で苦しんでいる人を前にすると、ずいぶん頼りない結論に思えた。


 ▼△▼△▼


 アレクシスは私室へ移った。

 窓の外はもう夕方に近く、北の空には薄い雲が広がっている。昼間まで絶えず人が出入りしていた軍務棟と違い、部屋の中はひどく静かだった。

 侍医は休ませるよう言い残し、必要があればすぐ呼べるよう隣室に控えている。エレナも一度客室へ戻るよう勧められたが、そのまま残った。


「本当に大丈夫ですか?」


 長椅子に横になったアレクシスへ尋ねると、彼は目を閉じたまま答えた。


「大丈夫だと言うと、君は怒るだろう」

「少し学習されましたね」

「では、あまり大丈夫ではない」


 声にはまだ余裕がある。けれど額には薄く汗が浮かび、普段より呼吸も速い。

 エレナは近くの椅子へ座り、何かできることがないか考えた。呪いを鎮めるのがマロルト家の妻の役目だというなら、本来は婚姻契約が成立してから効果が出るのだろう。今の自分はまだ婚約者でしかない。

 それでも、何もしないで見ているのは落ち着かなかった。


「脈を見てもいいですか?」


 医師でもない自分が確認して何が分かるのかとは思ったが、急に悪化していないかくらいは見ておきたい。

 アレクシスが左腕を差し出したので、袖口を少し上げ、手首へ指を添えた。

 その瞬間だった。

 触れたところから、かすかな震えが伝わってきた。

 脈は速い。けれど数えるうちに、少しずつ間隔が落ち着いていく。


「……アレクシス様?」

「ああ」

「何か変わりました?」


 彼は目を開けた。しばらく自分の状態を確かめるように黙っていたが、やがて低く答える。


「少し、楽になった」


 エレナは手首から指を離した。

 数秒もしないうちに、アレクシスの眉間へ再び薄く皺が寄る。

 二人で顔を見合わせた。


「もう一度、触れます」

「ああ」


 今度は確認するつもりで、同じ場所へ指を置いた。

 やはり、少しずつ呼吸が落ち着いていく。

 偶然ではなさそうだった。


「婚姻前でも、影響があるんでしょうか」

「聞いたことはない」

「母に確認してみます。前公爵様のときに同じことがなかったか」

「今すぐでなくていい」


 手を離せば悪化するのなら、離れる理由がない。

 そう判断してから、エレナは自分の指が彼の手首に触れ続けていることを、遅れて意識した。

 脈を測るだけなら、もう十分である。

 けれど離せば、また苦しくなる。

 ならばこれは治療に近い。必要な接触だ。そう整理すれば問題はないはずだった。


「君のほうは、何ともないか」

「私は平気です。魔力を吸われている感じもありません」

「疲れたらすぐ離してくれ」

「その場合は言います」


 返しながら、エレナは少し姿勢を変えた。ずっと手首へ指を当てているのは意外と疲れる。角度を変えようとしたところで、アレクシスの手がわずかに動いた。

 指先が触れる。

 それだけで、先ほどより彼の呼吸が深くなった。

 エレナは一度迷い、それから彼の手を取った。


「こちらのほうが楽ですか?」

 掌を重ねると、アレクシスは目を閉じたまま、ゆっくりとうなずいた。


「……ああ」

「では、このままにします」


 自分で言ってから、妙に意識してしまった。

 婚約者なのだから、手をつなぐこと自体は不自然ではない。婚約指輪を選んだ日には、馬車から降りるとき手を借りた。公の場でエスコートされることもある。

 けれど、今は誰に見せるためでもない。

 必要だから触れている。ただそれだけなのに、彼の手の大きさや、指先に残る硬い感触がやけにはっきり分かった。

 剣を握る人の手なのだろう。

 昼間、何十人もの報告を受け、北方の街道や砦のことを迷いなく決めていた手でもある。


「……すまない」


 突然そう言われ、エレナは顔を上げた。


「何がです?」

「来てもらった日に、こんなことになった」

「アレクシス様が、わざと具合を悪くしたわけではないでしょう。謝る必要はありません。それに、来てよかったです。知らないまま結婚するより、ずっといい」


 アレクシスは返事をしなかった。

 ただ、つないだ手から少しずつ力が抜けていく。症状が治まってきたらしい。

 エレナは安堵した。

 それと同時に、昼間見た北方の景色を思い出した。

 街道を行く補給車。監視塔。修理を待つ見張り台。報告を持って次々と入ってきた軍人たち。

 アレクシスは、この土地を守る責任を背負っている。

 そして、その責任を引き継いだせいで、こうして身体まで苦しめられている。

 公爵家の呪いについて、エレナはずっと自分の側からしか考えていなかった。

 マロルト家の女性が一度結婚する。役目が終われば離婚する。契約を正しく結び、正しく終わらせる。それが自分の担当する仕事だと思っていた。

 けれど、アレクシスにとっては、結婚までのあいだ一人で耐えなければならないものでもあったのだ。


「眠れそうですか?」

「たぶん」

「では、眠ってください。しばらくここにいます」

「君も疲れているだろう」

「馬車に乗っていただけです。北方軍の報告を一日受けていた方に言われたくありません」


 薄く目を開けたアレクシスが、ほんの少しだけ笑った。


「……そうか」


 やがて部屋の中が静かになった。

 外から聞こえるのは、遠くで交代を告げる鐘の音と、時折廊下を通る足音だけである。つないだ手の温度も、先ほどより落ち着いていた。

 そろそろ離しても大丈夫かもしれない。

 そう思い、エレナが指先を少し動かしたときだった。

 アレクシスの手に、かすかに力が戻った。


「……もう少しだけ、このままでいてくれ」


 目は閉じたままだった。

 頼みごとをするというより、眠りへ落ちる直前に本音がこぼれたような声だった。

 エレナは動けなくなった。

 これまでのアレクシスは、何かを決めるときも、誰かを気遣うときも、いつも自分の側に余裕を残していた。馬車が壊れた日も、御者や従僕を先に休ませた。仕事では、エレナの専門を迷いなく頼った。

 けれど、自分が苦しいからそばにいてほしいと頼まれたのは初めてだった。


「……はい」


 返した声が、自分でも少し小さく聞こえた。

 もうしばらくして、アレクシスの呼吸は完全に寝息へ変わった。

 今の返事が彼に届いたかどうかは、わからない。

 エレナは手をつないだまま、椅子に座っていた。

 婚姻が成立すれば、呪いは落ち着く。状態が安定すれば、自分の役目は終わる。そのときは契約を解除して、マロルト家へ戻る。

 何度も考えてきた未来だった。

 母も祖母もそうした。自分も同じようにする。それで何も困らないはずだった。

 なのに今、初めてその先を具体的に考えてしまった。

 離婚した後、この人が苦しんでいても、自分は隣にいない。

 仕事で疲れていても、怪我をしても、何かを一人で抱えていても、今日のように手を伸ばせる立場ではなくなる。

 それが、嫌だと思った。

 エレナは眠っているアレクシスの横顔を見た。

 婚姻契約の話が通じるから。人に対して誠実だから。一緒に仕事をすると楽だから。北方を守る姿を尊敬したから。

 理由なら、いくつも並べられる。

 けれど、どれだけ並べても、今感じているものを「尊敬」や「相性の良さ」だけで片づけるのは無理があった。

 彼のことをもっと知りたいと思った。

 一緒に仕事をする未来を楽しみだと思った。

 そして今は、役目が終わったあとも、彼の隣にいたいと思っている。

 そこまで考えて、ようやく認めた。

 自分は、アレクシスが好きなのだ。

 気づいた瞬間に何かが変わるわけではなかった。婚礼の日取りも、婚姻契約の内容も、その先に離婚が予定されていることも変わらない。

 むしろ変わらないからこそ、困る。

 エレナはつないだ手へ視線を落とした。

 公爵家の呪いは、結婚すればいずれ落ち着く。

 けれど、自分のほうは、どうやら今から面倒なことになったらしい。

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