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母も祖母も離婚しましたので、私も公爵様と離婚する予定です  作者: 九条 綾乃


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4/10

第4話 二人で解く仕事

 王立系譜院へ持ち込まれる相談には、書類だけを見れば簡単そうなのに、読み始めると急に面倒になるものがある。

 その日の案件も、まさにそうだった。


「つまり、婚姻そのものが成立していなかった可能性がある、と?」


 相談室の向かいで、若い女性が青ざめた顔を上げた。膝の上には二歳ほどの男の子が座っている。事情が分からないのか、母親の袖についた飾りを指先でいじっていた。


「まだ、そう決まったわけではありません」


 エレナは机の上へ広げた書類から顔を上げた。


「ただ、現在こちらに登録されている記録だけでは、婚姻の成立を確認できないんです」


 女性――リディア・フェルンは、王国北方の小領主家、フェルン男爵家へ嫁いだ人物だった。夫のカイルは昨冬、北方軍の任務中に事故で亡くなっている。問題になったのは、その後だった。

 カイルは父に先立って亡くなったため、本来なら幼い息子のニコラスが男爵家の次期継承者になる。ところが先月、現男爵であるカイルの父が病に倒れ、継承準備のために系譜を確認したところ、カイルとリディアの正式な婚姻登録が見つからなかったのである。婚姻式そのものは三年前に行われており、二人とも、とっくに登録が済んでいると思っていたらしい。


「結婚式はしました。軍の礼拝堂で、きちんと。証人もいましたし、夫も私も署名しました」

「はい。お持ちいただいた婚姻証書にも、その記録があります。ただ、王立系譜院へ提出された登録申請の日付が、カイル様が亡くなられた三日後になっています」


 リディアの腕が、息子を抱くように少し強くなる。

 貴族の婚姻は、当事者同士が誓えばそれだけで終わるものではない。家同士の契約、本人の同意、立会人の確認、そして系譜院への登録。とくに継承に関わる婚姻は、後から誰かが都合よく作り替えられないよう、手続きが厳格だった。

 もっとも、すべての書類が王都へ即日届くわけではない。地方には地方の事情がある。問題は、遅れた理由を証明できるかどうかだった。


「この申請書を王都へ送ったのは、どなたですか?」

「夫の上官だった方です。昨冬、駐屯地の文書庫を整理したときに、古い未発送書類の中から見つかったそうで……。夫も私も、もう提出されているものだとばかり思っていました」

「なるほど」


 エレナは申請書をもう一度見た。署名はある。立会人の名もある。婚姻契約には不自然な点がない。だが、肝心の登録用封印が通常のものと違っていた。

 丸い軍印の外側に、三本の短い線が刻まれている。

 見慣れない印だった。


「この印について、何かご存じですか?」

「いいえ。私は……」


 リディアが首を振ったところで、相談室の扉が控えめに叩かれた。


「失礼する」


 聞き覚えのある声だった。

 入ってきたアレクシスを見て、リディアが慌てて立ち上がろうとする。膝の上の子どもまで滑り落ちそうになり、エレナは反射的に手を伸ばした。


「そのままで大丈夫です。アレクシス様、少しお待ちいただけますか」

「ああ。急がない」


 公爵を待たせることが正しいのかは少し疑問だったが、今は相談者のほうが先である。リディアを座らせ直し、ニコラスが落ち着いたのを確認してから、エレナはアレクシスへ向き直った。

 今日は婚礼前の最終書類へ追加の署名をもらう予定だった。約束の時刻まではまだ少しある。アレクシスもそれを分かっているらしく、急かす様子はない。


「申し訳ありません。少し長引いています」

「構わない。終わるまで待つ」


 そう言ってから、アレクシスの視線が机上の書類へ落ちた。


「フェルン家か」


 リディアが目を見開いた。


「ご存じなのですか?」

「カイル・フェルンなら知っている。北方第三騎兵隊にいた」


 今度はエレナがアレクシスを見た。


「この方のご主人です。昨冬に亡くなられています」

「ああ。雪崩の救援中に橋が崩れた。部下を先に渡して、最後に残った」


 簡潔な説明だったが、リディアの表情が少し揺れた。悲しみだけではない。夫の最期を知る人に会えた安堵も混じっているように見える。


「夫は……ご迷惑をおかけしませんでしたか」

「逆だ。最後までよく働いた。事故の責任も彼にはない」


 アレクシスはそう答えたあと、エレナへ視線を戻した。


「何か問題が?」

「婚姻登録です。式は三年前の十二月ですが、系譜院へ申請が届いたのが、カイル様の死後三日目になっています」


 エレナが申請書を差し出すと、アレクシスは受け取ってすぐ、例の軍印へ目を止めた。


「冬期封鎖印だな」

「ご存じなんですか?」

「北方軍で使う。雪で街道が閉じたとき、王都へ送れない公文書に押す印だ。三本なら第三段階の封鎖。軍の伝令も原則停止になる」


 エレナは机上の暦を引き寄せた。


「三年前の十二月……この時期、第三段階の封鎖が出ていたんですか?」

「出ていた。たしか二十日ほどだ。大雪で東街道が使えなくなった」

「二十日」


 婚姻式の日付から数えると、ちょうど申請期限の大半と重なる。封鎖中に地方官署へ預けた書類が、その後の事務処理で発送束から漏れたのなら、中央に記録がない理由も説明できる。

 エレナの頭の中で、ばらばらだった書類が少しずつ並び始めた。


「封鎖中の公文書は、どう扱われます?」

「現地の軍務官が預かり、解除後にまとめて送る。緊急性が高いものだけ騎馬で西回りだ。だが婚姻登録なら、通常は待つ」

「その運用を定めた命令書は残っていますか?」

「残っている。軍務院にも写しがあるはずだ」


 そこまで聞けば十分だった。エレナは登録規程の冊子を取り、地方提出に関する条項を開いた。

 通常、婚姻登録は式の翌日から三十日以内に王立系譜院へ申請しなければならない。ただし、戦時、災害、街道封鎖その他の事情により中央への提出が不可能な場合、地方の正規官署へ期限内に預託した時点で仮受理とみなす、とある。


「リディア様。この婚姻証書を、カイル様は式のあと軍務官へ預けたとおっしゃっていましたか?」

「はい。書類のことは自分がやるから心配しなくていい、と。翌日には詰所へ持っていったはずです」

「それを確認できる記録があれば、婚姻は期限内に申請されたものとして扱える可能性が高いです」

「本当ですか?」

「まだ確認が必要です。ただ、少なくとも『夫が亡くなったあとに作られた婚姻』ではありません」

 

 リディアの顔から、少しだけ強張りが抜けた。

 アレクシスは申請書を机へ戻しながら、別の紙を指した。


「この署名はベルトラン中佐だな」

「立会人の方です」

「当時の駐屯地司令だ。今は王都にいる。軍務院へ戻っているはずだ」


 それなら話が早い。

 エレナは必要な確認事項を紙へ書き出した。冬期封鎖命令の発令期間。現地軍務官の文書受領簿。婚姻証書を預かった日付。封鎖解除後の発送記録。立会人の証言。五つ揃えば、登録日が死後になっている理由を制度上きれいに説明できる。


「今日中に軍務院へ照会を出します。受領簿が残っていれば、継承審査も進められます」

「ありがとうございます。あの、この子は……男爵家を継げるのでしょうか」


 母親の不安が伝わったのか、ニコラスが顔を上げた。

 エレナは安易に断言しないよう、一度だけ言葉を選んだ。


「婚姻の成立が確認できれば、少なくとも出生上の問題はありません。そのうえで通常の継承審査を行います。今の段階で、この子に資格がないと決まったわけではありません」


 リディアは何度もうなずいた。帰る頃には、来たときより背筋が伸びていた。

 扉が閉まると、エレナは机の上に残った書類を見下ろした。


「助かりました。あの印だけは、系譜院の資料にありませんでした」

「軍内部の印だからな。こちらも、あれが婚姻登録に関わるとは思わなかった」

「北方ではよく使うんですか?」

「冬は珍しくない。王都では、街道が閉じるという感覚自体が薄いだろう」

「たしかに。規程には『街道封鎖』と書いてあっても、実際に二十日間まったく送れない状況までは想像していませんでした」


 規則を読むことと、その規則が使われる現場を知ることは別なのだ。エレナはそれを理解しているつもりだったが、今日ほど分かりやすく実感したことはなかった。


「逆に、俺は封鎖印を見ても、婚姻が成立しているかどうかまでは判断できない」


 アレクシスは椅子へ座り、エレナが開いたままにしていた登録規程へ目を落とした。


「軍では、期限内に詰所へ出していれば終わりだと思う者が多い。王都で何の記録と照合されるかまでは知らない」

「では、お互いに半分ずつしか分からなかったんですね」

「ああ。合わせれば一つになった」


 ごく普通のことのように言われたのに、その言葉が妙に残った。

 仕事では、誰かと知識を補い合うこと自体は珍しくない。父は制度史に強く、母は契約魔法の運用経験が豊富だ。系譜院にも、古文書だけならエレナより詳しい職員はいくらでもいる。

 それでも今のやり取りは、驚くほど手間がなかった。

 エレナが必要な情報を尋ねると、アレクシスは余計な説明を挟まず、必要な範囲を正確に返す。逆に彼が分からない部分は、知ったふりをせずこちらへ任せる。話を進める速さがよく合った。


「アレクシス様」

「何だ?」

「お仕事をご一緒すると、話が早いですね」


 言ってから、少し変な褒め方だったかもしれないと思った。

 けれどアレクシスは気を悪くした様子もなく、むしろわずかに口元を緩めた。


「俺も同じことを考えていた」


 その返事に、エレナはなぜか少し満足した。


 ▼△▼△▼


 軍務院から返事が来たのは、翌日の昼前だった。

 冬期封鎖命令の写しはもちろん、駐屯地の受領簿も残っていた。カイル・フェルンが婚姻式の翌日に書類を提出した記録があり、封鎖解除後の発送予定一覧にも同じ登録番号が記載されている。ただし、実際の発送済み記録には移されていなかった。

 ただし、問題が一つ増えた。


「再発送の日から、王都到着まで十二日?」

 エレナは届けられた軍務記録と、系譜院側の受領印を並べた。文書庫で見つかった婚姻証書は、カイルが亡くなる九日前に駐屯地を出ている。ところが王都へ着いたのは、その死から三日後だった。

 通常なら四日程度の道のりである。いくら冬でも、十二日は長い。申請が死後に作られたものではないと記録の流れまで完全に証明するなら、この空白も埋めたほうがいい。


「西回りにされたんじゃないか」


 向かいのアレクシスが言った。

 昨日受け取れなかった婚礼書類を持って、今日も系譜院へ来ていた。用件自体は十分もあれば終わるはずだったのだが、軍務院から返事が届いたと知ると、自然な流れで同席することになっていた。


「西回りですか?」

「東街道は封鎖解除後もしばらく雪崩が多い。軍の文書便なら、一度南へ下げて西の宿駅へ回した可能性がある」

「そうすると、七日か八日は余計にかかる……」

「その頃、南側の渡河場も一つ壊れていたはずだ。さらに二日ほど延びる」


 計算は合う。

 だが、推測だけでは登録簿には書けない。


「経路の記録はありますか?」

「文書便なら軍務院にはない。駅伝局だ」

「では、そちらへ照会します」

「いや」


 アレクシスが立ち上がった。


「駅伝局なら、この時間は担当官が王城の連絡会に出ている。俺も午後から出席する予定だ。直接確認して、必要なら記録の写しを回してもらう」

「お願いしてもよろしいんですか?」

「そのほうが早いだろう」


 たしかに早い。エレナは一瞬だけ、自分で正式照会を出す手順を頭に浮かべたが、返事を待つより半日は短縮できる。


「では、お願いします。確認したいのは、発送番号二一六七の経路と、各宿駅の通過日です」

「分かった」

「もし記録が途中で切れていたら、無理に探さなくて構いません。受領簿と封鎖命令だけでも、婚姻の有効性はかなり高く証明できますから」

「そこまででいいのか」

「はい。完璧な資料を集めることと、必要な証明をすることは別です」

「なるほど」


 アレクシスが短くうなずく。

 そのとき、後ろで書類を整理していたグレドフ家の従事官が、少し困ったように口を挟んだ。


「閣下。失礼ながら、その件は軍務院と系譜院の実務官に任せてもよろしいのでは。奥方様も婚礼前でお忙しいでしょうし、そこまでお手を煩わせることではないかと」


 奥方様、と呼ばれることにはまだ慣れない。正確には婚姻前なので奥方ではないのだが、あと十日ほどでそうなるため、公爵家の者たちはもう半ばその扱いをしている。

 エレナは、自分ならどう答えるべきか考えた。

 案件そのものは担当業務である。婚礼前であっても、勤務中なら仕事をするのは当然だ。そう説明しようと口を開きかけたところで、アレクシスが先に従事官を見た。


「彼女が妻だから意見を聞いているわけではない」


 声はいつもどおり静かだった。


「契約と系譜について、俺より詳しい専門家だから聞いている。この件は彼女の仕事だ。婚姻したからといって、それを別の者へ渡す理由はない」


 従事官は、はっとしたように姿勢を正した。


「失礼いたしました」

「いや。気遣いは分かる。ただ、必要かどうかは本人が決めればいい」


 それで話は終わった。

 アレクシスは何事もなかったように、エレナへ発送番号をもう一度確認している。

 エレナは答えながら、少しだけ言葉の順番を間違えそうになった。

 妻になるから、守られる。

 公爵夫人になるから、仕事を軽くしてもらう。

 そういう気遣いを悪いとは思わない。けれど、自分がずっと積み上げてきたものを、婚姻の付属物のように扱われるのは違う。

 アレクシスは最初から、そこを間違えなかった。


「エレナ?」

「……いえ。発送番号は二一六七です。念のため、日付も控えてお渡しします」


 紙へ数字を書きながら、エレナは自分の手元へ意識を戻した。

 これは仕事である。仕事の話をしているだけだ。

 そのはずなのに、先ほどの言葉だけが、書類のどの条文よりはっきり頭に残っていた。


 ▼△▼△▼


 翌々日、駅伝局の通過記録が届いた。

 予想どおり、文書便は雪崩を避けて西回りの経路を通り、途中で壊れた渡河場を迂回していた。日付もすべてつながった。婚姻証書は三年前、式の翌日に正規官署へ預託されている。中央への送付が漏れたのは駐屯地側の事務上の不備で、再発送もカイルの生前だった。彼の死後に婚姻を作った形跡はどこにもない。

 エレナは必要書類を揃え、リディアを再び相談室へ呼んだ。


「確認が取れました。あなたとカイル様の婚姻は、式の翌日に正式な申請手続きへ入っています。中央登録が遅れたのは、街道封鎖の際に地方で預かった書類が発送から漏れ、その後の再送にも冬の迂回路を使ったためです。当事者側の不備ではありませんから、婚姻の効力には影響しません」


 リディアはしばらく何も言わなかった。

 隣の椅子では、今日もニコラスが母親の袖を握っている。


「では、この子は……」

「フェルン男爵家の正当な継承候補です。男爵閣下のご容体もありますので、継承審査は優先して進めます」


 次の瞬間、リディアは大きく息を吐いた。泣き崩れるほどではない。ただ、ずっと肩へ載っていた重いものを、ようやく下ろせたような顔だった。


「ありがとうございます。本当に……」

「私だけで解決したわけではありません。北方軍と駅伝局の記録が残っていたから確認できたんです」


 そう答えながら、エレナは自然と一人の顔を思い浮かべた。

 相談が終わったあと、廊下へ出ると、ちょうど向こうからアレクシスが歩いてきた。今日は王宮で用事があり、その帰りに追加の婚姻書類を届けに寄ったらしい。


「フェルン家の件はどうなった?」

「無事に確認できました。ニコラス様の継承審査も進められます」

「そうか」


 短い返事だったが、どこかほっとしたように聞こえた。


「アレクシス様のおかげです。私一人なら、冬期封鎖印の確認だけで半日はかかっていました」

「俺一人なら、その印を見て終わっていた。登録規程までは分からない」

「では、やはり半分ずつですね」

「ああ」


 二人で歩きながら、エレナはふと思った。

 婚姻契約の確認では、話の通じる相手だと思った。馬車が壊れた日には、思っていたよりずっと人に気を配る人だと知った。そして今回は、一緒に仕事をすると驚くほど楽だった。

 楽、という表現は少し違うかもしれない。手を抜けるという意味ではない。むしろ考える量は増えているのに、無駄なところで止まらない。


「何か考えているのか?」


 隣から聞かれ、エレナは少し迷ってから答えた。


「結婚後も、こうしてお仕事をご一緒することがあるのかなと思っていました」

「北方と系譜院の案件が重なれば、あるだろうな」

「それは、少し楽しみです」


 口にしてから、自分でも少し意外だった。

 結婚後のことを考えるとき、これまでは公務の日程や勤務調整、そしてその先の離婚手続きばかりを思い浮かべていた。そこに初めて、アレクシスと何かを一緒にする未来が入った気がする。

 もちろん、それも長くは続かない。

 役目が終われば、二人は離婚する。

 その前提は何も変わっていない。

 けれど、それまでの時間が少し楽しみだと思うくらいなら、問題はないだろう。


「俺もだ」


 アレクシスが言った。

 エレナは隣を見た。彼は前を向いたままで、いつもと変わらない顔をしている。

 ただ、その一言だけで十分だった。

 仕事の相性がいい。

 今は、それでいい。

 そう整理したはずなのに、エレナはその日の帰り道、フェルン家の無事な継承より少しだけ長く、アレクシスの「俺もだ」の言葉を思い出していた。

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