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母も祖母も離婚しましたので、私も公爵様と離婚する予定です  作者: 九条 綾乃


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3/10

第3話 離婚予定の婚約者

 正式な婚姻契約の修正版が届いたのは、顔合わせの翌日の午後だった。

 エレナは王立系譜院の自席で最後のページまで読み終えると、机の端へ置いてあった前の草案と重ねた。第六条は希望したとおり、「公爵家が役目の終了を認めたとき」から「両家が役目の終了を確認したとき」へ直されている。財産条項の別紙も、母と祖母の古い契約を参考にしたらしく、形式婚終了後の返還範囲まで細かく整理されていた。

 仕事が早い。しかも雑ではない。


「問題なさそうだな」


 向かいから声がして、エレナは顔を上げた。

 今日は書類の最終確認と王宮への婚姻予定報告のため、アレクシス本人が系譜院を訪れている。公爵家の家令に任せても済む手続きだが、本人の署名が必要な書類がいくつかあるため、まとめて済ませることにしたらしい。


「はい。前回お願いした修正はすべて反映されています。こちらの別紙だけ、婚姻後に取得した私個人の報酬は共同財産に含めない、と明記しておいたほうがよいと思います」

「王立系譜院からの給与か」

「それも含みます。婚姻期間は長くない予定ですし、混ぜないほうが後の処理が簡単です」


 アレクシスは少しも嫌な顔をせず、該当箇所へ目を落とした。


「分かった。追加しよう」

「ありがとうございます」


 エレナは修正箇所に印をつけ、次の書類へ手を伸ばした。王宮への報告書、婚姻契約の登録申請、グレドフ家側で必要となる身分変更の届出。結婚は私事のはずなのに、紙の束だけを見ると一件の大きな手続き仕事に近い。

 もっとも、エレナにとっては見慣れた書類ばかりだった。自分の名が書かれていることだけが少し妙である。


「ところで、結婚後の勤務について確認しておきたい」


 アレクシスが言った。

 エレナは顔を上げる。ちょうど自分からも相談しなければと思っていたところだった。


「私もその件は気になっていました。公爵夫人として必要な公務の日程を教えていただければ、系譜院の勤務日を調整します。婚姻期間中だけ休職する方法もありますが、できれば――」

「休職する必要はない」


 思っていたより早く返され、エレナは一度言葉を止めた。


「よろしいのですか?」

「なぜ俺の許可が要る?」


 今度は、アレクシスのほうがわずかに眉を寄せた。


「いえ、許可という意味ではありません。ただ、公爵夫人として出席すべき行事が多ければ、今までどおりには働けないでしょうから」

「必要な行事は事前に伝える。君の勤務と重なるなら、出席の必要性を見て調整すればいい。毎回、公爵夫妻が揃わなければ成立しないものばかりではない」


 実務の話をする声だった。妻が外で働くことを特別に認めるでも、家の体面のために控えろと言うでもない。初めから、エレナが仕事を続けることを前提に予定を組もうとしている。


「結婚したからといって、君が系譜院を辞める理由はないだろう」

「……そうですね」

「それに、辞められると俺も困る」

「アレクシス様が?」

「自分の婚姻契約を見てもらえなくなる」


 一瞬だけ真面目に考えてしまったあと、エレナはようやく冗談だと気づいた。アレクシスの表情はほとんど変わっていない。分かりにくい。


「それでしたら、離婚するまでは責任を持って確認します」

「ああ。頼む」


 どうやらこちらの返事も、彼には冗談として受け取られなかったらしい。お互い様かもしれない。

 必要な署名を終えたあと、二人は系譜院を出た。午後は婚約指輪の確認と衣装の採寸、その後に王宮へ婚姻予定の書類を届ける予定になっている。

 母からは朝、「今日は離婚の話をしながら指輪を選ばないように」と念を押された。

 そんなつもりはなかったのだが、過去の実績を考えると反論しにくい。

 王都の中央通りにある宝飾店は、貴族向けの店らしく入口から静かだった。奥の応接卓には、すでにいくつかの指輪が並べられている。グレドフ家の紋章を意匠に取り入れたもの、北方で採れる淡い青色の石を使ったもの、式典向けにかなり大ぶりな宝石を据えたものまであった。


「どれがお好みでしょう、マロルト様」


 店主に尋ねられ、エレナは一通り見比べた。


「普段つけても邪魔にならないものがいいです。書類を扱うので、石が高すぎないほうが助かります」


 店主が一瞬だけ困った顔をした。婚約指輪を選ぶ令嬢の希望としては、あまり華やかではなかったらしい。

 エレナが細身の銀台に小さな青石を留めたものへ手を伸ばすと、隣にいたアレクシスも同じ指輪を見た。


「それがいいのか」

「はい。きれいですし、実用的です」

「では、それにしよう」

「もっと公爵家らしいものを選ばなくても?」

「毎日つけるのは君だ」


 それで話は終わった。


 店主は少し拍子抜けしたようだったが、すぐに指輪を受け取り、寸法を見るための道具を用意し始めた。アレクシスが家の格式を軽んじているわけではないだろう。それでも、必要以上に自分の好みを押しつける気はないらしい。

 採寸が終わり、次は仕立屋へ向かった。こちらではそう簡単には終わらなかった。

 婚礼衣装そのものはすでに母と仕立屋が相談しており、今日は細かな寸法と装飾の最終確認だけのはずだった。ところが、袖口の刺繍、式典用の外套、披露の席で使う髪飾りと話が進むうちに、予定していた時間をかなり過ぎてしまった。


「婚姻は一日なのに、衣装はずいぶん多いんですね」

「俺もそう思う」

「アレクシス様もですか」

「軍服なら規定どおりに着れば終わるのだが」


 鏡の前で布を当てられながら、エレナは思わずアレクシスを見た。彼は少し離れた長椅子に座り、仕立屋から渡された自分用の確認書を読んでいる。


「では、衣装選びは苦手ですか?」

「苦手というより、判断基準が分からない。動きやすさなら分かるが」

「私も似たようなものです」


 仕立屋が聞こえないふりをしながら笑っている。

 少なくとも、婚礼衣装への関心については気が合うらしい。

 ようやく店を出た頃には、王宮へ向かう予定時刻がかなり迫っていた。アレクシスの馬車に乗り込み、中央通りから王宮へ向かう。混雑を抜ければ十分間に合うはずだった。

 ところが、半分ほど進んだところで、馬車が大きく傾いた。

 急停止の衝撃に、エレナはとっさに座席へ手をつく。向かいのアレクシスも身体を支え、すぐに扉の外へ声をかけた。


「どうした」

「申し訳ございません、閣下。後輪の留め具が外れたようです」


 御者の声には明らかな焦りがあった。

 アレクシスは扉を開けて外へ降りる。エレナも続こうとすると、先に振り返って手を差し出された。


「段差がある。気をつけろ」

「ありがとうございます」


 手を借りて地面へ降りると、確かに後輪が不自然に傾いていた。完全に外れる前に御者が止めたらしく、大きな事故にはならなかったようだ。


「お怪我はございませんでしたか」


 青ざめた御者が駆け寄ってくる。


「私は問題ない。君は?」

「は……?」

「急に、無理に止めたのだろう。腕を痛めていないか」

「い、いえ。大丈夫でございます」

「ならいい。まず馬を落ち着かせろ。車輪はそのあとでいい」


 叱責を覚悟していたらしい御者は、何度も頭を下げてから馬のほうへ向かった。同行していた従僕にも、アレクシスは修理を急がせるのではなく、近くの貸馬車を手配できるか確認するよう命じる。

 故障そのものは困るが、誰かを責めれば直るわけではない。エレナも仕事では同じように考える。それでも、高位貴族が予定に遅れそうな状況で、最初に御者の怪我を確認するとは思っていなかった。


「王宮の受付には、遅れると連絡を入れたほうがよさそうですね」

「ああ。使いを出そう。提出期限は今日中だったな」

「日没までです。急げば間に合いますが、書類だけ先に届けても受理はされます」

「なら、無理に走らせる必要はないな」


 アレクシスはそう言うと、近くにいた従僕へ封筒を預けた。従僕は足の速い貸し馬を探しに行き、エレナとアレクシスは修理の目処が立つまで待つことになった。

 大通りから一本外れた場所で、周囲には職人の店や小さな商店が並んでいる。貴族が時間を潰すような店は多くない。


「少し歩くか」

「はい」


 仕立屋で長く立たされていたので、むしろありがたかった。

 二人で通りを進むと、焼いたパンの匂いがした。角に小さな食堂があり、昼食には遅く、夕食には早い時間のせいか店内は空いている。アレクシスが足を止めた。


「何か食べるか?」


 そういえば、昼から何も口にしていない。エレナは頷きかけ、店構えを見た。貴族向けには見えない。アレクシスが入れば店主のほうが困るのではないかと思ったが、本人は気にしていないらしい。


「アレクシス様は、こういうお店にも入るんですか?」

「入る。遠征中に店を選んでいたら食べ損ねる」

「なるほど」


 実に分かりやすい理由だった。

 中へ入ると、店の女主人らしい中年の女性がこちらを見て目を丸くした。アレクシスの礼装を見れば、少なくとも身分の高い客だとは分かる。慌てて奥の席を片づけようとするのを、彼は止めた。


「空いているところでいい。二人分、すぐに食べられるものを頼む」

「は、はい。肉と野菜の焼き包みなら、すぐにお出しできます」

「では、それで」


 窓際の小さな卓へ座り、ほどなくして熱い焼き包みと薄いスープが運ばれてきた。銀器も皿も公爵邸のものとは比べものにならないほど簡素だが、焼きたての生地は香ばしく、中の肉には香草がよく効いている。


「おいしいですね」

「ああ」


 アレクシスはためらいなく食べている。作法が崩れるわけではないが、応接室で向かい合っていたときより明らかに気楽そうだった。


「北方でも、こういうものを食べるんですか?」

「似たものはある。冬は中身がもう少し重い。肉と豆を詰めることが多いな」

「寒い土地ですものね」

「一度に食べられる量が多いほうが都合がいい。兵は味より腹持ちを気にする」

「アレクシス様も?」

「俺もだ。だが、味が悪くていいとは思っていない」


 そこだけ少し強く言うので、エレナは笑った。

 アレクシスが目を上げる。


「何かおかしいか」

「いいえ。アレクシス様にも、食事への好みがあるんだと思っただけです」

「俺を何だと思っていた?」

「婚姻契約を読むのが早い方です」

「人間としての情報がほとんどないな」


 返されて、エレナは言葉に詰まった。

 確かにそのとおりだった。現グレドフ公爵、北方軍総司令、形式婚の相手、契約の話が通じる人。ここ数日で増えた認識も、ほとんどが立場や仕事に関するものばかりだ。

 好きな食べ物も、休日に何をするのかも、北方でどんな暮らしをしているのかも知らない。

 離婚する予定の相手なのだから、それで十分だと思っていた。


「では、アレクシス様は何がお好きなんですか?」


 気づけば、そんな質問をしていた。

 アレクシスも少し意外そうな顔をした。


「食べ物の話か?」

「それでも構いません。人間としての情報を増やそうかと」

「そうだな……。焼いた肉は好きだ。甘いものはあまり食べない。酒は強くない」

「意外です」

「何がだ」

「お強そうなので」

「見た目で酒量は決まらないだろう」

「それはそうですね」


 当たり前のことを真面目に返されると、妙に可笑しい。

 エレナがもう一口焼き包みを食べたところで、入口の扉が開いた。先ほどの従僕が息を切らして入ってくる。


「閣下。王宮への書類は先に届けました。受領の返事もいただいております。それと、馬車は留め具の交換で直せるそうです。あと30分ほどで」

「分かった。座れ」

「はい?」

「走ってきただろう。何か食べておけ」

 

従僕は困ったようにエレナとアレクシスを見比べた。


「ですが、私は外で待機を――」

「馬車は職人が見ている。ここで空腹のまま立っていても修理が早まるわけではない」

「……承知しました」


 結局、従僕は一つ離れた卓で焼き包みを食べることになった。女主人は最初こそ緊張していたものの、客が増えたことに気をよくしたらしく、追加のスープまで運んでいる。

 エレナはそれを眺めながら、顔合わせの日のことを思い出した。

 契約の細目を自分にも確認させるよう言ったときも、アレクシスは特別なことをしている顔をしていなかった。今も同じだ。御者だから叱って当然とも、従僕だから空腹のまま待たせて当然とも考えていない。

 彼にとっては、たぶんこれが普通なのだ。


「どうした?」

「いえ。少し、分かってきた気がして」

「何がだ」

「アレクシス様のことです」


 言ってから、少し踏み込みすぎただろうかと思った。けれど彼は嫌そうな顔をしなかった。


「それはよかった」

「まだ、焼いた肉がお好きで、お酒はあまり強くないことくらいですが」

「十分だろう。俺も君について知っているのは、古い婚姻台帳を読むと時間を忘れることくらいだ」

「それは……忘れていただいて構いません」

「八年前から覚えている。今さら難しい」

 

 淡々と言われ、エレナは返す言葉を失った。

 ちょうどそのとき、店の外から馬車の準備ができたと知らせが入った。二人は会計を済ませ、女主人に礼を言って店を出る。

 修理された馬車の前では、先ほどの御者が申し訳なさそうに待っていた。


「閣下、本当に申し訳ございませんでした。出発前の確認が足りませんでした」

「次から確認を増やせ。今日はそれでいい」

「はい」

「それと、腕に痛みが出たら医師に見せろ。費用は屋敷へ回せ」


 御者は驚いた顔をしたあと、深く頭を下げた。

 帰りの馬車は、今度こそ問題なく走り出した。

 窓の外では王都の通りに夕方の影が伸び始めている。予定していた王宮への訪問は書類提出だけで済み、かえって少し早く帰れることになった。


「今日は予定どおりに進みませんでしたね」


 エレナが言うと、アレクシスは向かいで頷いた。


「そうだな。すまなかった」

「アレクシス様が謝ることではありません。それに、悪くありませんでした」

「馬車が壊れたことが?」

「そこではなく、その後です」


 アレクシスは何も言わず、続きを待った。

 エレナは自分でも、何を説明しようとしているのか少し考えた。婚姻契約の確認はできた。仕事を続けられることも分かった。指輪も決まった。王宮への書類も無事に提出された。それらはどれも必要なことだ。

 けれど、今日いちばん印象に残っているのは、焼き包みを食べながら交わした、婚姻には何の関係もない話だった。


「予定外の時間があったおかげで、アレクシス様のことを少し知れましたから」


 そう答えると、彼はほんの少し目を見開いた。

「そうか」


 それだけで会話は途切れた。

 妙に静かになった気がして、エレナは窓の外へ視線を向ける。別におかしなことを言ったつもりはない。結婚する相手について何も知らないより、多少知っていたほうが円滑に過ごせる。婚姻期間が短いとしても、それは同じだ。

 だからこれは、円滑に過ごすために必要な確認の一つである。

 そう整理してみたものの、さきほど自分から「何がお好きなんですか」と尋ねた理由まで、それだけで説明できるのかは少し疑問だった。

 離婚予定の婚約者。

 その認識は、何も変わっていない。

 ただ、その前に「アレクシスという人」がいることを、今日は少しだけ知った。

 そしてエレナは、もう少し知ってみたいと思っている自分に気づいた。

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