第3話 離婚予定の婚約者
正式な婚姻契約の修正版が届いたのは、顔合わせの翌日の午後だった。
エレナは王立系譜院の自席で最後のページまで読み終えると、机の端へ置いてあった前の草案と重ねた。第六条は希望したとおり、「公爵家が役目の終了を認めたとき」から「両家が役目の終了を確認したとき」へ直されている。財産条項の別紙も、母と祖母の古い契約を参考にしたらしく、形式婚終了後の返還範囲まで細かく整理されていた。
仕事が早い。しかも雑ではない。
「問題なさそうだな」
向かいから声がして、エレナは顔を上げた。
今日は書類の最終確認と王宮への婚姻予定報告のため、アレクシス本人が系譜院を訪れている。公爵家の家令に任せても済む手続きだが、本人の署名が必要な書類がいくつかあるため、まとめて済ませることにしたらしい。
「はい。前回お願いした修正はすべて反映されています。こちらの別紙だけ、婚姻後に取得した私個人の報酬は共同財産に含めない、と明記しておいたほうがよいと思います」
「王立系譜院からの給与か」
「それも含みます。婚姻期間は長くない予定ですし、混ぜないほうが後の処理が簡単です」
アレクシスは少しも嫌な顔をせず、該当箇所へ目を落とした。
「分かった。追加しよう」
「ありがとうございます」
エレナは修正箇所に印をつけ、次の書類へ手を伸ばした。王宮への報告書、婚姻契約の登録申請、グレドフ家側で必要となる身分変更の届出。結婚は私事のはずなのに、紙の束だけを見ると一件の大きな手続き仕事に近い。
もっとも、エレナにとっては見慣れた書類ばかりだった。自分の名が書かれていることだけが少し妙である。
「ところで、結婚後の勤務について確認しておきたい」
アレクシスが言った。
エレナは顔を上げる。ちょうど自分からも相談しなければと思っていたところだった。
「私もその件は気になっていました。公爵夫人として必要な公務の日程を教えていただければ、系譜院の勤務日を調整します。婚姻期間中だけ休職する方法もありますが、できれば――」
「休職する必要はない」
思っていたより早く返され、エレナは一度言葉を止めた。
「よろしいのですか?」
「なぜ俺の許可が要る?」
今度は、アレクシスのほうがわずかに眉を寄せた。
「いえ、許可という意味ではありません。ただ、公爵夫人として出席すべき行事が多ければ、今までどおりには働けないでしょうから」
「必要な行事は事前に伝える。君の勤務と重なるなら、出席の必要性を見て調整すればいい。毎回、公爵夫妻が揃わなければ成立しないものばかりではない」
実務の話をする声だった。妻が外で働くことを特別に認めるでも、家の体面のために控えろと言うでもない。初めから、エレナが仕事を続けることを前提に予定を組もうとしている。
「結婚したからといって、君が系譜院を辞める理由はないだろう」
「……そうですね」
「それに、辞められると俺も困る」
「アレクシス様が?」
「自分の婚姻契約を見てもらえなくなる」
一瞬だけ真面目に考えてしまったあと、エレナはようやく冗談だと気づいた。アレクシスの表情はほとんど変わっていない。分かりにくい。
「それでしたら、離婚するまでは責任を持って確認します」
「ああ。頼む」
どうやらこちらの返事も、彼には冗談として受け取られなかったらしい。お互い様かもしれない。
必要な署名を終えたあと、二人は系譜院を出た。午後は婚約指輪の確認と衣装の採寸、その後に王宮へ婚姻予定の書類を届ける予定になっている。
母からは朝、「今日は離婚の話をしながら指輪を選ばないように」と念を押された。
そんなつもりはなかったのだが、過去の実績を考えると反論しにくい。
王都の中央通りにある宝飾店は、貴族向けの店らしく入口から静かだった。奥の応接卓には、すでにいくつかの指輪が並べられている。グレドフ家の紋章を意匠に取り入れたもの、北方で採れる淡い青色の石を使ったもの、式典向けにかなり大ぶりな宝石を据えたものまであった。
「どれがお好みでしょう、マロルト様」
店主に尋ねられ、エレナは一通り見比べた。
「普段つけても邪魔にならないものがいいです。書類を扱うので、石が高すぎないほうが助かります」
店主が一瞬だけ困った顔をした。婚約指輪を選ぶ令嬢の希望としては、あまり華やかではなかったらしい。
エレナが細身の銀台に小さな青石を留めたものへ手を伸ばすと、隣にいたアレクシスも同じ指輪を見た。
「それがいいのか」
「はい。きれいですし、実用的です」
「では、それにしよう」
「もっと公爵家らしいものを選ばなくても?」
「毎日つけるのは君だ」
それで話は終わった。
店主は少し拍子抜けしたようだったが、すぐに指輪を受け取り、寸法を見るための道具を用意し始めた。アレクシスが家の格式を軽んじているわけではないだろう。それでも、必要以上に自分の好みを押しつける気はないらしい。
採寸が終わり、次は仕立屋へ向かった。こちらではそう簡単には終わらなかった。
婚礼衣装そのものはすでに母と仕立屋が相談しており、今日は細かな寸法と装飾の最終確認だけのはずだった。ところが、袖口の刺繍、式典用の外套、披露の席で使う髪飾りと話が進むうちに、予定していた時間をかなり過ぎてしまった。
「婚姻は一日なのに、衣装はずいぶん多いんですね」
「俺もそう思う」
「アレクシス様もですか」
「軍服なら規定どおりに着れば終わるのだが」
鏡の前で布を当てられながら、エレナは思わずアレクシスを見た。彼は少し離れた長椅子に座り、仕立屋から渡された自分用の確認書を読んでいる。
「では、衣装選びは苦手ですか?」
「苦手というより、判断基準が分からない。動きやすさなら分かるが」
「私も似たようなものです」
仕立屋が聞こえないふりをしながら笑っている。
少なくとも、婚礼衣装への関心については気が合うらしい。
ようやく店を出た頃には、王宮へ向かう予定時刻がかなり迫っていた。アレクシスの馬車に乗り込み、中央通りから王宮へ向かう。混雑を抜ければ十分間に合うはずだった。
ところが、半分ほど進んだところで、馬車が大きく傾いた。
急停止の衝撃に、エレナはとっさに座席へ手をつく。向かいのアレクシスも身体を支え、すぐに扉の外へ声をかけた。
「どうした」
「申し訳ございません、閣下。後輪の留め具が外れたようです」
御者の声には明らかな焦りがあった。
アレクシスは扉を開けて外へ降りる。エレナも続こうとすると、先に振り返って手を差し出された。
「段差がある。気をつけろ」
「ありがとうございます」
手を借りて地面へ降りると、確かに後輪が不自然に傾いていた。完全に外れる前に御者が止めたらしく、大きな事故にはならなかったようだ。
「お怪我はございませんでしたか」
青ざめた御者が駆け寄ってくる。
「私は問題ない。君は?」
「は……?」
「急に、無理に止めたのだろう。腕を痛めていないか」
「い、いえ。大丈夫でございます」
「ならいい。まず馬を落ち着かせろ。車輪はそのあとでいい」
叱責を覚悟していたらしい御者は、何度も頭を下げてから馬のほうへ向かった。同行していた従僕にも、アレクシスは修理を急がせるのではなく、近くの貸馬車を手配できるか確認するよう命じる。
故障そのものは困るが、誰かを責めれば直るわけではない。エレナも仕事では同じように考える。それでも、高位貴族が予定に遅れそうな状況で、最初に御者の怪我を確認するとは思っていなかった。
「王宮の受付には、遅れると連絡を入れたほうがよさそうですね」
「ああ。使いを出そう。提出期限は今日中だったな」
「日没までです。急げば間に合いますが、書類だけ先に届けても受理はされます」
「なら、無理に走らせる必要はないな」
アレクシスはそう言うと、近くにいた従僕へ封筒を預けた。従僕は足の速い貸し馬を探しに行き、エレナとアレクシスは修理の目処が立つまで待つことになった。
大通りから一本外れた場所で、周囲には職人の店や小さな商店が並んでいる。貴族が時間を潰すような店は多くない。
「少し歩くか」
「はい」
仕立屋で長く立たされていたので、むしろありがたかった。
二人で通りを進むと、焼いたパンの匂いがした。角に小さな食堂があり、昼食には遅く、夕食には早い時間のせいか店内は空いている。アレクシスが足を止めた。
「何か食べるか?」
そういえば、昼から何も口にしていない。エレナは頷きかけ、店構えを見た。貴族向けには見えない。アレクシスが入れば店主のほうが困るのではないかと思ったが、本人は気にしていないらしい。
「アレクシス様は、こういうお店にも入るんですか?」
「入る。遠征中に店を選んでいたら食べ損ねる」
「なるほど」
実に分かりやすい理由だった。
中へ入ると、店の女主人らしい中年の女性がこちらを見て目を丸くした。アレクシスの礼装を見れば、少なくとも身分の高い客だとは分かる。慌てて奥の席を片づけようとするのを、彼は止めた。
「空いているところでいい。二人分、すぐに食べられるものを頼む」
「は、はい。肉と野菜の焼き包みなら、すぐにお出しできます」
「では、それで」
窓際の小さな卓へ座り、ほどなくして熱い焼き包みと薄いスープが運ばれてきた。銀器も皿も公爵邸のものとは比べものにならないほど簡素だが、焼きたての生地は香ばしく、中の肉には香草がよく効いている。
「おいしいですね」
「ああ」
アレクシスはためらいなく食べている。作法が崩れるわけではないが、応接室で向かい合っていたときより明らかに気楽そうだった。
「北方でも、こういうものを食べるんですか?」
「似たものはある。冬は中身がもう少し重い。肉と豆を詰めることが多いな」
「寒い土地ですものね」
「一度に食べられる量が多いほうが都合がいい。兵は味より腹持ちを気にする」
「アレクシス様も?」
「俺もだ。だが、味が悪くていいとは思っていない」
そこだけ少し強く言うので、エレナは笑った。
アレクシスが目を上げる。
「何かおかしいか」
「いいえ。アレクシス様にも、食事への好みがあるんだと思っただけです」
「俺を何だと思っていた?」
「婚姻契約を読むのが早い方です」
「人間としての情報がほとんどないな」
返されて、エレナは言葉に詰まった。
確かにそのとおりだった。現グレドフ公爵、北方軍総司令、形式婚の相手、契約の話が通じる人。ここ数日で増えた認識も、ほとんどが立場や仕事に関するものばかりだ。
好きな食べ物も、休日に何をするのかも、北方でどんな暮らしをしているのかも知らない。
離婚する予定の相手なのだから、それで十分だと思っていた。
「では、アレクシス様は何がお好きなんですか?」
気づけば、そんな質問をしていた。
アレクシスも少し意外そうな顔をした。
「食べ物の話か?」
「それでも構いません。人間としての情報を増やそうかと」
「そうだな……。焼いた肉は好きだ。甘いものはあまり食べない。酒は強くない」
「意外です」
「何がだ」
「お強そうなので」
「見た目で酒量は決まらないだろう」
「それはそうですね」
当たり前のことを真面目に返されると、妙に可笑しい。
エレナがもう一口焼き包みを食べたところで、入口の扉が開いた。先ほどの従僕が息を切らして入ってくる。
「閣下。王宮への書類は先に届けました。受領の返事もいただいております。それと、馬車は留め具の交換で直せるそうです。あと30分ほどで」
「分かった。座れ」
「はい?」
「走ってきただろう。何か食べておけ」
従僕は困ったようにエレナとアレクシスを見比べた。
「ですが、私は外で待機を――」
「馬車は職人が見ている。ここで空腹のまま立っていても修理が早まるわけではない」
「……承知しました」
結局、従僕は一つ離れた卓で焼き包みを食べることになった。女主人は最初こそ緊張していたものの、客が増えたことに気をよくしたらしく、追加のスープまで運んでいる。
エレナはそれを眺めながら、顔合わせの日のことを思い出した。
契約の細目を自分にも確認させるよう言ったときも、アレクシスは特別なことをしている顔をしていなかった。今も同じだ。御者だから叱って当然とも、従僕だから空腹のまま待たせて当然とも考えていない。
彼にとっては、たぶんこれが普通なのだ。
「どうした?」
「いえ。少し、分かってきた気がして」
「何がだ」
「アレクシス様のことです」
言ってから、少し踏み込みすぎただろうかと思った。けれど彼は嫌そうな顔をしなかった。
「それはよかった」
「まだ、焼いた肉がお好きで、お酒はあまり強くないことくらいですが」
「十分だろう。俺も君について知っているのは、古い婚姻台帳を読むと時間を忘れることくらいだ」
「それは……忘れていただいて構いません」
「八年前から覚えている。今さら難しい」
淡々と言われ、エレナは返す言葉を失った。
ちょうどそのとき、店の外から馬車の準備ができたと知らせが入った。二人は会計を済ませ、女主人に礼を言って店を出る。
修理された馬車の前では、先ほどの御者が申し訳なさそうに待っていた。
「閣下、本当に申し訳ございませんでした。出発前の確認が足りませんでした」
「次から確認を増やせ。今日はそれでいい」
「はい」
「それと、腕に痛みが出たら医師に見せろ。費用は屋敷へ回せ」
御者は驚いた顔をしたあと、深く頭を下げた。
帰りの馬車は、今度こそ問題なく走り出した。
窓の外では王都の通りに夕方の影が伸び始めている。予定していた王宮への訪問は書類提出だけで済み、かえって少し早く帰れることになった。
「今日は予定どおりに進みませんでしたね」
エレナが言うと、アレクシスは向かいで頷いた。
「そうだな。すまなかった」
「アレクシス様が謝ることではありません。それに、悪くありませんでした」
「馬車が壊れたことが?」
「そこではなく、その後です」
アレクシスは何も言わず、続きを待った。
エレナは自分でも、何を説明しようとしているのか少し考えた。婚姻契約の確認はできた。仕事を続けられることも分かった。指輪も決まった。王宮への書類も無事に提出された。それらはどれも必要なことだ。
けれど、今日いちばん印象に残っているのは、焼き包みを食べながら交わした、婚姻には何の関係もない話だった。
「予定外の時間があったおかげで、アレクシス様のことを少し知れましたから」
そう答えると、彼はほんの少し目を見開いた。
「そうか」
それだけで会話は途切れた。
妙に静かになった気がして、エレナは窓の外へ視線を向ける。別におかしなことを言ったつもりはない。結婚する相手について何も知らないより、多少知っていたほうが円滑に過ごせる。婚姻期間が短いとしても、それは同じだ。
だからこれは、円滑に過ごすために必要な確認の一つである。
そう整理してみたものの、さきほど自分から「何がお好きなんですか」と尋ねた理由まで、それだけで説明できるのかは少し疑問だった。
離婚予定の婚約者。
その認識は、何も変わっていない。
ただ、その前に「アレクシスという人」がいることを、今日は少しだけ知った。
そしてエレナは、もう少し知ってみたいと思っている自分に気づいた。




