第2話 母も祖母も離婚しました
三日後、エレナは両親と祖母を伴い、王都のグレドフ公爵邸を訪れていた。
正式な顔合わせ、と聞いていたので、もう少し緊張する場を想像していた。少なくとも、当主同士が向かい合い、両家の古い取り決めについて重々しく確認するくらいはするものだと思っていたのだ。ところが応接室へ通されて十分もしないうちに、その予想はかなり外れていたことが分かった。
「ローデリック様、お久しぶりです。少しお痩せになったんじゃありません?」
「爵位を譲ってから太ったと言われるよりはいい。マリアンヌは変わらないな」
「それ、褒めてくださっているのよね?」
「そのつもりだ」
母マリアンヌと前グレドフ公爵ローデリックは、実に普通に世間話をしていた。
ローデリックは厳格そうな顔立ちに、きっちりと整えられた灰色まじりの髪を持つ男性である。エレナが幼い頃から印象はあまり変わらない。黙って座っていれば近寄りがたいが、母と話している様子だけを見れば、長年の知人同士にしか見えなかった。
「こちらのお茶も変わっていないのね。懐かしいわ」
「茶葉の種類は変わっているはずだが」
「そういう意味では、ないのですけれど」
「なら、何の意味だ」
マリアンヌが笑う。ローデリックは本当に分かっていないらしく、わずかに眉を寄せた。
この二人は、かつて夫婦だった。
正確には、グレドフ家の代替わりに伴う形式上の婚姻を結び、役目を終えたあと正式に離婚した元夫婦である。母はその後マロルト家へ戻り、父オスカーと結婚した。ローデリックも自分の人生へ戻り、今こうして息子へ爵位を譲っている。
エレナにとっては、昔から聞いてきた話だ。だから元夫と現在の夫が同じ卓を囲んでいても、特におかしいとは思わない。そこでオスカーが口をはさんだ。
「二人とも、昔と変わらないな」
「あなたまで。私は少しくらい変わったわよ」
「髪型はな」
「そこだけ?」
母が不満そうに夫を見る。その向かいでローデリックが小さく息を吐いた。笑ったのかもしれない。エレナがそう判断しかけたところで、さらに隣から祖母ソフィアが口を挟んだ。
「離婚した相手と何十年たっても同じ調子で話せるなら、上出来じゃない。私のときなんて、離婚した翌日に先々代公爵と顔を合わせて、互いに『まだいたのか』って言ったものよ」
「お母さま、それは自慢する話ではないでしょう」
「でも、私のときは三週間で離婚したのよ。手際がよかったでしょう?」
「やっぱり自慢だったんですね」
エレナが確認すると、ソフィアは当然だという顔でうなずいた。
「もちろんよ。必要な仕事をきちんと終えて、契約も一度で綺麗に切れたんだから。若い頃の私を見せてあげたかったわ」
「そこは別にいいです」
祖母は七十を越えた今も背筋が伸び、声にも張りがある。自分の形式婚を語るときも、若い頃の旅行か大仕事の思い出でも話すような調子だった。
向かいに座るローデリックは、さすがに少し複雑そうな顔をした。
「ソフィア殿。離婚までの日数を競う慣例はない」
「分かっていますよ。でも記録があるなら、早いほうが気持ちいいでしょう?」
「母上と張り合わないでください」
マリアンヌが止めると、祖母はつまらなそうに菓子へ手を伸ばした。
こうして並べてみると、確かに少し妙な家族かもしれない、とエレナは思った。祖母は先々代グレドフ公爵と結婚して離婚し、母は前公爵ローデリックと結婚して離婚した。そして今度は自分が現公爵と結婚し、いずれ離婚する。
母も祖母も離婚した。だから自分も同じようにする。エレナにとっては、それだけの話だった。
「エレナ」
名前を呼ばれ、エレナは顔を上げた。
声の主は、さきほどからローデリックの隣に座っていた青年――いや、もう青年というより、一人の当主と呼ぶほうがふさわしい男性だった。
アレクシス・グレドフ。二十七歳。現グレドフ公爵。
三日前に名前を聞いて以来、何度か昔の姿を思い出そうとした。けれど実際に会ってみると、記憶の中の少年と目の前の男性を結びつけるのには少し時間がかかった。
背が高かったことだけは覚えている。今もそれは変わらない。軍人らしく姿勢がよく、濃色の礼装を着ていても肩まわりには鍛えた体つきが分かる。整った顔立ちと静かな物腰には近寄りがたいところがあるが、記憶の中の少年より、いくらか雰囲気がやわらいだ気がした。
それでも、静かにこちらを見る目には覚えがあった。
「お久しぶりです、アレクシス様」
「ああ。最後に会ったのは、たしか七年前だったな」
「八年前です。グレドフ家の冬至の祝宴で」
一瞬、アレクシスが黙った。
「……よく覚えているな」
「系譜院勤務ですので、年月を数えるのは得意なんです」
「そういうものなのか?」
アレクシスの口元がほんの少し緩んだ。笑った、と判断するには変化が小さい。けれど先ほどローデリックが見せたものよりは分かりやすかった。
「背が伸びましたね」
「君もな」
「私はそれほどでもありません」
「いや、子どもの頃と比べれば、ずいぶん伸びた」
「そういうことでしたら、そうですね」
何とも実務的な再会になった。けれど、昔ほとんど話したことのない相手なのだから、これくらいでちょうどいいのかもしれない。
マリアンヌが面白そうにこちらを見ていたので、エレナは気づかないふりをした。
「では、そろそろ本題に入りましょうか」
オスカーが言うと、空気が自然に変わった。
今日の目的は思い出話ではない。エレナとアレクシスの婚姻に向け、両家で正式に意思を確認し、婚姻契約の草案を詰めるための顔合わせである。
卓上の菓子皿が端へ寄せられ、代わりに数部の書類が並べられた。グレドフ家の家令が用意したものらしく、同じ内容の草案が人数分揃っている。エレナは一部を受け取り、最初の頁から目を通した。
前日に母からようやく渡された草案と、基本的な内容は変わっていない。
婚姻は両家の合意と本人たちの意思に基づいて成立すること。グレドフ家の代替わりに伴う役目を果たすための正式婚であること。役目の終了が確認されたのちは、所定の手続きによって婚姻契約を解除できること。形式婚であるからこそ、開始と終了の条件は曖昧にしない。
エレナにとっては読み慣れた種類の文書だった。もっとも、自分の名前が当事者欄に入っている契約書を読むのは初めてである。
「気になるところはあるか」
アレクシスに尋ねられ、エレナは一頁戻った。
「大きな問題はありません。ただ、第六条の表現は少し変えたほうがいいと思います」
「どこだ?」
「『公爵家が役目の終了を認めたとき』となっています。これだと、終了の判断主体がグレドフ家だけにあるように読めます。実際には契約状態を確認するのは両家ですから、『両家が役目の終了を確認したとき』のほうが適切です」
アレクシスは自分の草案へ視線を落とし、該当箇所を確認した。
「確かにそうだ。直そう」
返事が早かったので、エレナは少しだけ目を上げた。
公爵家にとって不利になる指摘ではないが、権限の所在に関する文言は家同士の契約では意外と揉めやすい。少なくとも、一度は理由を聞かれると思っていた。
「よろしいのですか?」
「君の説明に問題があるようには思えない。父上は?」
「異論はない」
ローデリックも短く答えた。オスカーはすでに自分の草案へ修正を書き込んでいる。
「では、そこは変更しましょう」
話はそれで終わった。
エレナは次の条項へ目を移した。必要のない議論を長引かせないのはありがたい。公爵という立場を考えれば、もっと形式や面子を重んじる人でも不思議ではなかったが、アレクシスは少なくとも契約書の文面については実質を優先するらしい。
その後も、細かな確認が続いた。
婚姻の公示時期、両家が負担する費用、儀礼上の扱い、契約解除時の記録方法。どれも一つ一つは難しい話ではないが、後から認識の違いが出ないよう、先に決めておくべきことばかりだった。
エレナが二か所ほど表現の修正を提案すると、アレクシスはいずれも理由を尋ねたうえで受け入れた。ただうなずいているわけではない。疑問があれば確認し、納得すれば決める。その順序がはっきりしている。
思っていたより、話しやすい。
そう感じた自分に気づき、エレナは少しだけ意外に思った。
幼い頃のアレクシスは、あまり笑わず、周囲の大人たちの話を静かに聞いている少年だった。今も静かなところは変わらない。ただ、聞くべきことはきちんと聞き、納得すればすぐに決める。そのあたりは、昔よりずっと分かりやすかった。
「こちらの財産条項ですが」
グレドフ家の家令が口を開いたのは、契約書も終盤に差しかかった頃だった。年配の、いかにも実務に慣れた人物である。
「持参財産の扱いと、婚姻期間中に公爵家側で負担する費目については、細目を別紙に分けたほうがよろしいかと存じます。マロルト伯爵閣下と公爵閣下のお二人でご確認いただき、後ほどこちらで整えましょう」
エレナは書類から顔を上げた。
家令に悪気はないのだろう。貴族家同士の婚姻では、財産や家同士の負担について男性当主が詰めることも珍しくない。今回もオスカーはマロルト伯爵、アレクシスはグレドフ公爵なのだから、形式としては自然な提案ではあった。
ただし、当事者の一人は自分である。エレナが口を開くより先に、アレクシスが家令を見た。
「いや。エレナにも確認してもらおう」
「ですが、閣下。細目は家同士の――」
「婚姻契約の一部だろう」
声は低いが、強く言い聞かせる調子ではなかった。それでも家令はすぐに言葉を止めた。アレクシスは手元の書類を閉じず、そのまま続ける。
「契約については私より彼女の方が詳しい。彼女の確認なしに署名はしない」
応接室が、ほんの一瞬だけ静かになった。エレナもアレクシスを見た。
妻になる本人だから確認させる、という言い方ではなかった。マロルト家の娘だからでもない。契約の専門家で、自分より詳しいから。それはエレナにとって、驚くほどまっすぐな評価だった。
「承知いたしました」
家令はすぐに頭を下げた。気分を害した様子もなく、別紙の用意について確認している。おそらく本当に慣例に従って提案しただけなのだろう。
「エレナも、それでいいか」
「はい。もちろんです」
答えてから、エレナは少し考えた。
「ただ、財産条項なら母にも見てもらったほうがいいと思います。実際に同じ形式婚を経験していますから」
「分かった。では、マリアンヌ殿にも」
「あら。私も仕事をするの?」
突然話を振られた母が、楽しそうに笑った。
「経験者ですので」
「娘にそう言われたら仕方ないわね。ローデリック様、昔の契約書を持ってきてもらえる? 比べたほうが早いでしょう」
「保管庫にある。用意させよう」
「私のも残っているはずよ」
ソフィアまで参加する気らしい。
「おばあさまの代まで遡る必要はないと思います」
「どうして? 参考になるわよ。三週間で終わった優秀な契約なんだから」
「期間の短さと契約書の出来は別問題です」
エレナが言うと、父が小さくうなずいた。
「そのとおりだ」
「オスカーまで真面目ねえ」
「契約の話だからな」
祖母は肩をすくめ、母は笑っている。ローデリックだけが眉間を押さえていた。
「なぜマロルト家は、離婚の話になると全員元気になるんだ」
「家業ですから」
つい、エレナは答えてしまった。言ってから、少し違う気がした。離婚そのものが家業なのではない。正しく契約を結び、必要がなくなれば正しく終わらせる。それがマロルト家の仕事だ。
けれど訂正する前に、向かいから微かな息遣いが聞こえた。アレクシスが、今度こそはっきり笑っていた。
「何かおかしかったでしょうか」
「いや。少し昔を思い出しただけだ」
「昔、ですか?」
「大したことではない」
それ以上は続けなかった。エレナが少し気になったところで、アレクシスはいつもの静かな表情に戻る。それでも、先ほどまで感じていた近寄りがたさは、少しだけ薄れた気がした。
契約の確認は、そのあと一時間ほどで終わった。
今日の段階で署名はしない。修正した草案を改めて両家で確認し、正式な婚姻契約は後日締結することになっている。エレナとしても、そのほうがいい。一度持ち帰り、条文同士に矛盾がないか落ち着いて見直したかった。
「では、修正版は明日中にマロルト家へ届けさせる」
アレクシスが言った。
「ありがとうございます。系譜院の登録形式とも照合しておきます」
「仕事として見ているのか?」
「自分の契約ですから、いつも以上に確認します」
「そうか」
アレクシスは少し考えるようにエレナを見た。
「君が確認してくれるのなら、安心だ」
ごく短い言葉だった。
けれど、自分の家の古い慣例だから大丈夫だとも、公爵家が用意した契約だから問題ないとも言わなかった。それが、妙に印象に残った。
帰りの馬車へ向かうため、エレナたちは玄関広間へ移動した。ローデリックとマリアンヌはまだ何か話しており、ソフィアは屋敷の古い装飾が昔と変わっていないと勝手に懐かしがっている。父は家令と修正版の受け渡しについて確認していた。
エレナが手袋を整えていると、少し離れたところからアレクシスが歩いてきた。
「今日はありがとう」
「こちらこそ。正式な顔合わせなのに、祖母が騒がしくて申し訳ありません」
「昔から知っている。今さら驚かない」
「それならよかったです」
そこで会話が途切れた。
気まずいというほどではない。ただ、次に何を話せばいいのか少し迷う。今日の目的だった契約の話は終わっているし、幼い頃の思い出を語るほど親しくもない。
先に口を開いたのはアレクシスだった。
「八年前の冬至の祝宴で、君は書庫にいた」
エレナは瞬きをした。
「覚えていらしたんですか?」
「君がいなくなったと騒ぎになったからな」
「騒ぎになったのは大げさです。少し席を外しただけで」
「少し、というが二時間だ」
「……そんなに?」
「古い婚姻台帳を夢中で読んでいた」
そこまで言われて、ようやく思い出した。大人たちの挨拶が長くて退屈し、廊下の先にあった書庫へ入り込んだのだ。珍しい古書を見つけ、そのまま読みふけっているうちに、ずいぶん時間がたっていた。
「よく覚えていますね」
「父上に頼まれて、探したからな」
「アレクシス様が?」
なるほど、とエレナは納得した。そこに特別な意味はないらしい。
「ご迷惑をおかけしました」
「見つけたとき、君は謝るより先に『あと三ページだけ』と言って、台帳を放そうとしなかった」
「それは……申し訳ありません」
今度は素直に恥ずかしかった。二十二歳の自分でも、面白い資料を読んでいる最中に呼ばれれば惜しいと思う。八年前なら、なおさら遠慮がなかっただろう。
アレクシスは少しだけ目元を和らげた。まだ何か続けそうだったが、ちょうど母から呼ばれた。
「エレナ、行くわよ」
「はい」
答えてから、アレクシスへ向き直る。
「では、失礼いたします。修正版をお待ちしています」
「ああ。また近いうちに」
公爵家の玄関を出ると、夕方の空気が頬に触れた。馬車へ乗り込んだところで、母が向かいの席からじっとこちらを見る。
「何ですか?」
「別に。アレクシス様と何を話していたのかと思って」
「八年前に、私がこちらの書庫へ入り込んだ話です」
「ああ、あれね。見つかったとき、あなた本を抱えて離さなかったのよ」
「その話はもう十分です」
「アレクシス様、覚えていたのねえ」
母の声に何か含みがある気がしたが、エレナは気にしないことにした。
今日分かったのは、アレクシスが思っていたより話しやすい人だということだった。結婚相手としてより先に、仕事相手としてならうまくやれそうだと思った。
それは悪くない。
どうせ結婚するのなら、穏やかに協力できる相手であるに越したことはない。役目を終えれば離婚するのだから、それで十分だった。
エレナはそう結論づけ、膝の上に置いた契約草案へ視線を落とした。けれど頁を開く前に、一度だけ、先ほどのアレクシスの表情を思い出した。
昔より、少し表情がやわらかくなったらしい。
それだけ確認してから、今度こそ契約書を開いた。




