↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
母も祖母も離婚しましたので、私も公爵様と離婚する予定です  作者: 九条 綾乃


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/10

第1話 離婚は家業です

「結婚する前に、別れたいんです」


 王立系譜院の相談室で、若い令嬢は悲壮な顔でそう言った。エレナ・マロルトは手元の契約書から顔を上げた。向かいに座る令嬢は今にも泣きそうで、その隣では付き添いらしい年配の婦人が心配そうにこちらをうかがっている。


「婚約を解消したい、というご相談ですね。それなら、結婚前に分かっただけでもよかったです。今のうちに手続きを始めましょう」


 あまりにも普通に返したせいか、令嬢は少し拍子抜けしたようだった。


「……驚かないのですか?」

「驚いても契約は消えませんから」


 エレナの仕事は、相談者と一緒に嘆いたり怒ったりすることではない。もちろん必要なら話は聞くが、目の前に解決できる問題があるなら、まず解決したほうがいい。改めて契約書へ目を落とし、問題になっている条項を指で示す。


「こちらの第十二条ですね。婚約解消を申し出た側が、持参金予定額の三倍を相手家へ支払う。ですが、この条項は成立していません」


 令嬢が息を止めた。エレナは机の脇に置いていたもう一枚の羊皮紙を取り、相談者が持参した契約書の隣へ並べる。


「こちらが王立系譜院に登録されたときの副本です。登録時点では第十一条までしかありません。あなたがお持ちになった契約書には、その後で第十二条と第十三条が加えられています」

「昨日、初めて見ました。父に聞いたら、先方から必要だと言われて追加したと……父は署名もしたそうです」

「ええ。ただし、あなたは署名していません」


 追加された条文の下には、先方の家長、令嬢の父親、立会人の署名が並んでいる。肝心の本人の署名だけがなかった。


「家同士の取り決めについて家長が同意することと、あなた自身が婚約を解消する権利を放棄することは別です。しかも、この追加条項には再承認の契約印もない。法的にも、魔法契約としても不完全です」

「では、本当に……?」

「後から追加された二条は無効です。元の婚約契約そのものは有効ですが、そちらには通常の解消条項があります」


 エレナは登録副本を一枚めくり、第九条を指した。


「婚姻前であり、共同財産がなく、婚約を継続しがたい事情が生じた場合、系譜院の確認を受けて解消できる。相手があなたに知らせず、婚約を解消する権利を奪う条項を加えようとした事情は、私なら十分に、婚約を継続し難い事情、に該当すると判断します」


 令嬢はしばらく何も言わなかった。隣の婦人がそっと背中へ手を添えると、膝の上で固く握られていた両手が、ゆっくりとほどけていく。


「どうするの?」


 静かに尋ねられ、令嬢は一度だけ深く息を吸った。


「……別れます。この婚約を、解消したいです」

「承知しました」


 それなら、あとはエレナの領分だった。本人確認を行い、登録番号を照合し、契約印を検証する。必要な申立書へ署名をもらい、最後に婚約を示す魔法契約の一部を解除する。銀の検証板へ契約書を載せると、その縁をなぞるように淡い光が走った。派手な魔法ではない。雷も鳴らなければ、文字が燃え上がることもないが、ただ、二人を結んでいた婚約の紋様だけが、静かに薄れていく。


「これで婚約は解消されました。先方への通知はこちらから行います。不成立の二条については調査に回しますので、この原本だけお預かりします」


 令嬢は消えた紋様を見つめ、それからようやく肩の力を抜いた。


「……本当に終わったんですね。ありがとうございます。どうなることかと思っていました」


 立ち上がった令嬢は深く頭を下げた。エレナも席を立ち、相談室の扉まで二人を見送る。すると扉を開ける直前、令嬢がふと思い出したように振り返った。


「あの、マロルト様。こんなことを聞くのは変かもしれませんけれど……婚約って、こんなにあっさり終わるものなのですか?」


 エレナは少し考えた。


「あっさり終われるようにしておくのが、良い契約です。始めるときのことだけ考えて作ると、終わるときに困りますから」

 令嬢は何ともいえない顔をした。一方、付き添いの婦人はなぜか小さく笑っている。


「マロルト様は、ずいぶん別れることに慣れていらっしゃるのね」

「仕事ですので」


 エレナはそう答えた。まさか数時間後、自分の結婚と離婚について話し合うことになるとは、このときはまだ知らなかった。


 ▼△▼△▼


「エレナ。あなたの結婚の日取りが決まったわ。来月の十八日よ」


 その日の夕方。仕事を終えて帰宅し、居間で紅茶を一口飲んだところで、母マリアンヌがそう告げた。エレナは驚くより先に、頭の中の予定表をめくった。十七日には爵位継承の審査が一件、十九日には養子縁組に関する聴取が入っている。


「十九日の仕事は、休んだほうがいいでしょうか。午前だけなら出られるかもしれませんけれど」


 マリアンヌは焼き菓子へ伸ばしかけた手を止めた。


「娘が結婚の日取りを聞いて最初に考えるのが、翌日の出勤なのね。十九日は休みなさい。もちろん十八日もよ」

「結婚式の日は、さすがに休みます」

「そこまで仕事熱心ではなくて安心したわ」


 何を心配されていたのだろう。エレナは自分も菓子皿から一つ取り、母の向かいへ座り直した。マロルト伯爵家の居間には、夕方の柔らかな日差しが差し込んでいる。母は機嫌がよく、卓上には紅茶と焼き菓子、それから何枚かの書類が置かれていた。おそらく婚姻関係のものだろう。他家の娘なら、突然自分の結婚日を告げられれば驚くのかもしれない。エレナは特に驚かなかった。自分がいずれ結婚することは、ずっと前から知っていたからだ。


「思っていたより早まりましたね」

「そうね。でも先方も準備はできているそうよ。あちらの代替わりから、あまり間を空けないほうがいいでしょう。衣装のことは私に任せて。式自体は大きくしないけれど、さすがに普段着というわけにもいかないし、指輪も用意しなくてはね」


 そこでエレナは少し首を傾げた。


「指輪は必要ですか? 離婚するときに返すのなら、あまり大げさなものではないほうが管理しやすいと思いますが」


 母の手がぴたりと止まった。


「エレナ。まだ結婚もしていないのだから、せめて指輪を選ぶ前くらいは離婚のことを忘れてもいいのよ」


「ですが、返却を前提にするなら――」

「忘れなさい」


 これ以上は言わないほうがよさそうだった。マリアンヌは呆れたようにため息をついたが、口元には笑いが残っている。エレナとしても、別に結婚が嫌なわけではない。ただし今回の結婚を、普通の結婚だとは思っていなかった。

 グレドフ公爵家には、昔から続く呪いがある。代替わりをした新しい当主は、一度だけ正式な妻を迎えなければならない。そして、その妻を出すのがマロルト伯爵家だった。なぜマロルト家なのか。エレナは詳しい理由を知らない。

 ずっと昔、両家のあいだで何か特別な契約が結ばれたらしい、と聞かされている程度だ。それでも困ることはなかった。必要な時期に、マロルト家の女性がグレドフ公爵と結婚する。呪いが落ち着き、妻としての役目が終われば、婚姻契約を解除する。つまり、離婚する。母もそうした。祖母もそうした。なら、自分もする。幼い頃から、そういうものだと思って育ってきた。


「離婚する時期については、まだ決まっていないんですよね」

「結婚してみないと分からないわ。公爵家の状態が安定したのを確認してからになるから。私のときは、それほど長くなかったけれどね。おばあさまなんて、今でも自分のときは手際がよかったって得意そうに話すでしょう?」

「早く離婚できたことを自慢しているんですか」

「本人としては、そういうつもりみたい」


 それなら分からなくもない、とエレナは思った。契約解除は早ければいいというものではないが、必要な条件を満たしたうえで滞りなく終えられたなら、それは十分に手際がいい。


「では、私も失敗しないようにします」

「離婚を?」

「はい」


 母がとうとう声を立てて笑った。


「あなた、本当にマロルト家の娘ねえ」


 褒められたのかどうか、エレナには判断がつかなかった。そのとき、居間の扉が開いた。


「何を笑っている」


 入ってきたのは父オスカーだった。王立系譜院では院長を務める人物だが、家ではただの父である。とはいえ、表情が大きく変わらないところは職場でも家庭でもあまり変わらない。


「あなたの娘が、結婚前から離婚を失敗しないように頑張ると言っているの」

「そうか。準備は重要だな」


 ごく普通に返した夫を、マリアンヌがじっと見る。


「あなたもそっちなのね」

「何の話だ」


 母は小さくため息をついた。エレナには、なぜそこで呆れられるのかが今ひとつ分からない。契約を結ぶ前に解除条件を確認しておくのは基本である。今日の相談者にも似たようなことを話したばかりだ。まして今回は自分が契約当事者なのだから、事前に考えておいて損はない。オスカーは空いていた椅子へ腰を下ろすと、エレナの仕事の予定についてはすでに確認済みだったらしく、十七日の継承審査はそのまま、十九日と二十日は休むよう告げた。


「二十日までですか?」

「結婚は一応、人生の一大事だからな」

「一応って言ったわね、今」


 すかさず母が口を挟む。


「形式婚だからといって、重要でないという意味ではない」

「そういうところよ」


 何がだ、と父が本気で分からない顔をする。夫婦の会話が少しだけずれた。エレナは紅茶を飲みながら、それを眺める。父がマロルト家へ婿入りしたのは、母がグレドフ公爵家との形式婚を終えたあとのことだった。母にとって、公爵との結婚も離婚も、その後の人生を閉ざすものではなかった。形式婚を終え、父と出会い、結婚して、今がある。だからエレナも、自分の結婚を悲観したことはない。結婚する。役目を果たす。離婚する。その後は、また自分の人生へ戻る。順番どおりに片づければいいだけの話だった。


「エレナ」


 父に呼ばれ、顔を上げる。オスカーの声から、先ほどまでの家庭内の軽さが少しだけ消えていた。


「以前にも確認したが、もう一度聞いておく。この婚姻を受ける意思に、変わりはないか」


 母も黙る。これはマロルト家にとって家の役目だ。けれど、役目だからといって本人の意思確認を省略してよいことにはならない。エレナ自身、王立系譜院で他家の婚姻や契約を扱っている。本人の知らないところで追加された条項を、今日ひとつ無効にしてきたばかりだった。自分だけ例外にするつもりはない。


「ありません。お受けします」


 答えに迷いはなかった。契約魔法の適性は高いし、婚姻契約の扱いにも慣れている。そして何より、いつか自分の番が来ることを知って育ってきた。父は一度だけうなずいた。


「承知した」


 それ以上は言わなかった。母も穏やかに笑い、それで話は決まった。エレナは卓上に置かれた書類へ目を向ける。


「婚姻契約書は、もう届いているんですか?」

「まだ草案よ。正式なものは顔合わせのときに双方で確認するそうだけれど――駄目よ」


 エレナが手を伸ばすより先に、母が書類を押さえた。


「今渡したら、あなた、夕食までずっと読むでしょう」

「それほど長くはかかりません。夕食後でも」

「明日にしなさい。今日はもっと大切な話があるの」


 マリアンヌは書類を自分の側へ引き寄せた。こういうところだけ妙に強い。


「日取り以外にも?」

「あるでしょう。普通は一番最初に気にするところが」


 エレナは少し考えた。式場や衣装、招待客、それに王宮への届け出。思いつくものを順に挙げてみたが、母が求めている答えではなさそうだった。離婚時の財産処理も一瞬浮かんだが、先ほどの反応を見るかぎり、これは口に出さないほうがいい。そんな娘を見て、母はとうとう自分から答えを出した。


「まったく、本当にあなたときたら。お相手よ。あなた、誰と結婚するのか気にならないの?」

「グレドフ公爵ですよね。現公爵の名前なら把握しています。系譜院勤務ですから」

「そうだったわね……」


 なぜか少し残念そうにされる。現グレドフ公爵。北方を治める名門の当主で、つい先頃、先代から爵位を継いだ人物。公的な記録ならエレナも何度か目にしている。ただし、それはあくまで仕事上の記録だった。自分の夫になる人物として考えたことはない。マリアンヌは紅茶を一口飲んでから、何でもないことのように告げた。


「あなたが結婚するのは、アレクシス・グレドフ様よ」


 その名前を聞いて、エレナの手が止まった。知っている名前だった。公文書の上で、という意味だけではない。


「……アレクシス様?」

「あら。今度はちゃんと反応したわね。子どもの頃、何度か会っているでしょう?」

「ええ。覚えています」


 記憶は古い。両家の行事で顔を合わせたことがある。それだけだ。もう何年も会っていないし、成人してからまともに話した覚えもない。それなのに、書類の上で見ていた「現グレドフ公爵」と、幼い頃に知っていた「アレクシス」が、エレナの中で今になって一つになった。


「そうでしたか、あの方が」


 口から出たのは、それだけだった。けれど母は、その反応を見逃さなかったらしい。


「少なくとも、十九日の仕事を心配していたときとは違う顔をしているわ」


 エレナは無意識に頬へ触れた。自分ではよく分からない。結婚相手が誰であっても、することは変わらないはずだ。正式に婚姻契約を結び、公爵家の妻になる。役目が終われば、契約を解除する。母も祖母もそうしてきた。自分も同じようにすればいい。何も難しいことはない。そう結論づけたところで、母が続けた。


「正式な顔合わせは三日後よ」


 エレナはうなずいた。本来なら、そこでまず三日後の仕事の予定を思い出すはずだった。けれどなぜかそのときだけは、予定表より先に、昔のアレクシスの顔を思い浮かべようとしていた。もうずいぶん会っていない。背が高かったことと、あまり笑わない少年だったことくらいしか、はっきりとは思い出せない。三日後に会えば、分かる。それだけのことなのに。うまく思い出せないことが、なぜか少しだけ気になった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。