第10話 最後の夜
離婚まで、あと一日。
その数字を思い浮かべたとき、エレナはようやく、数え続けてきた日々が本当に終わるのだと実感した。
公爵夫人用の居室では、侍女が開いた旅行箱へ衣類を収めている。婚礼のあとに持ち込んだ荷物のうち、仕事で使う書類や急がない本はすでにマロルト家へ戻してあった。窓際の書き物机も、三日前までは系譜院から持ち帰った記録や覚え書きで埋まっていたのに、今は明日の契約解除に必要な書類が一揃い置かれているだけである。
最初からひと月ほどの滞在と分かっていたのだから、荷物は多くない。片づけ始めれば、驚くほど簡単に元へ戻せた。
「こちらの本も、お戻ししてよろしいですか?」
侍女に尋ねられ、エレナは寝台脇の小卓に置かれた二冊へ目を向けた。一冊は自分で持ってきた契約術式の参考書で、もう一冊はアレクシスに借りた北方の地誌だった。領地視察のあと、倉庫から北へ荷がどう運ばれるのか気になって尋ねたところ、翌日には執務室から持ってきてくれたものである。
「地誌のほうは、あとで私からアレクシス様へお返しします。もう一冊は箱へ入れてください」
「かしこまりました」
侍女が本を収めるあいだ、エレナは残った地誌へ手を伸ばした。借りたときには何気なく受け取ったのに、返すとなると妙に惜しい。内容が惜しいのではない。必要なら系譜院の資料室にも似た本はあるし、王都の書店でも手に入るだろう。
この部屋に、自分のものではないアレクシスの品が置かれていることが、いつの間にか当たり前になっていたらしい。明日には、それもなくなる。
夕食の時間になる頃には、部屋はすっかり最初の日に近い姿へ戻っていた。
残っている衣類は明日の朝に使うものだけで、机の引き出しも空いている。婚礼の翌朝、この部屋で目を覚ましたときには、三十日という期間を短いとは思わなかった。仕事の契約として考えれば、むしろ十分な長さに感じていたほどだ。
終わる側から見れば、ひと月はこんなにも短いらしい。エレナは鏡の中の自分を一度見てから、食堂へ向かった。
その夜の夕食は、いつもより静かだった。
特別な料理が並んでいるわけではない。明日で婚姻期間が終わるからといって祝う理由もなく、かといって惜別の宴を開くような関係でもない。二人とも予定を入れず、いつもどおり同じ卓で食事を取る。それだけだった。
けれど、いつもなら自然に出てくる仕事の話が、今日はなかなか続かなかった。
「荷物はまとまったか」
「はい。明日の朝まで使うもの以外は、ほとんど。思っていたより早く終わりました」
「もともと多くは持ってきていなかったからな」
「ひと月ほどの予定でしたから。書類だけは、衣類より増えましたけれど」
アレクシスの口元がわずかに緩んだ。
「それは知っている。最初の一週間で机が埋まっていた」
「仕事をしていれば、あれくらいにはなります」
「休暇中から増えていた気がするが」
結婚翌日の朝にも似たことを言った覚えがある。
エレナは思わず笑い、アレクシスも小さく息を漏らした。その瞬間だけ、明日が特別な日であることを忘れられた。
食卓の端には、二人分の杯と、取り分けられた温かな料理がある。向かいではなく少し隣寄りの席に座ることにも、もう違和感はない。朝食で報告書を読む彼の横顔も、夕食の途中で軍務の話をする低い声も、いつの間にか毎日の景色になっていた。
明後日からは、ここに自分の席はない。
そう考えた途端、笑ったあとの胸の軽さが消えた。
「明後日は、もう系譜院へ戻るのか」
アレクシスが尋ねた。
「そのつもりです。父には一日くらい休んでもいいと言われましたが、明日の手続きが予定どおり終われば、体を休めるようなこともありませんし」
「婚姻契約を解除した翌日まで仕事か」
「母にも同じ顔をされました。でも、離婚したからといって寝込む予定はありません」
言いながら、エレナは自分の皿へ視線を落とした。
離婚後も王立系譜院で働く。それは婚約前から決めていたことで、今も変わっていない。アレクシスが用意した保障の内容もすでに確認し、勤務についての公的な整理はほぼ終わっていた。結婚によって中断されなかった仕事へ、そのまま戻るだけである。
本来なら、安心できる話だった。
「系譜院の仕事は、これからも続けます。家のこともありますし、私自身、あの仕事が好きですから」
「ああ」
「しばらくは、結婚前とほとんど同じ生活になると思います。マロルト家から通って、父の仕事を手伝って、相談案件を受けて。今回の婚姻についても、正式な功績として記録していただけることになりましたし、職務上の不利益はありません」
「そうか」
アレクシスはいつもと変わらない声で答えた。
それ以上、何も言わない。
エレナも、何を期待していたのか分からなかった。仕事を続けると聞いて安心したと言われても、それで十分だったはずである。あるいは、困ったことがあれば言え、といつものように続くのかもしれないと思っていた。けれど彼は、ただ一度頷いただけだった。
明日になれば、自分の生活は元へ戻る。アレクシスも、公爵としてこれまでの生活へ戻る。今後、系譜院の案件や両家の用事で顔を合わせることはあるだろうが、朝も夜も同じ屋敷で過ごす理由はなくなる。
そしていつか、この人は本当に好きな女性を妻に迎えるのだろう。
今度は家の役目ではなく、自分で選んだ相手と結婚する。
その女性はひと月後に荷物をまとめる必要もなく、公爵夫人用の寝室を本当の自室として使う。朝食の席では今の自分と同じ場所に座り、夜になれば――そこまで考えて、エレナは杯へ手を伸ばした。
喉は渇いていなかったが、何かを飲んで思考を切り替える必要があった。
「エレナ」
名前を呼ばれ、顔を上げる。
「何か気になることがあるのか」
「いいえ。少し考え事をしていただけです」
「最近、その答えが増えたな」
北方から王都へ戻る馬車でも、同じことを言った。
自分ではうまく隠しているつもりだったのに、アレクシスには思っているより分かりやすいらしい。
「明日の術式について考えていたんです」
完全な嘘ではない。明日になれば、自分は母や祖母と同じように婚姻契約を解除する。何度も扱ってきた術式であり、手順にも不安はない。
アレクシスは少しだけエレナを見つめ、それから静かに頷いた。
「君が確認したなら、俺は心配していない」
「ずいぶん信頼してくださるんですね」
「今さらだろう。契約について君より詳しい者を、俺は知らない」
あまりにも当然のように言われて、エレナは返事を失った。
こういうところだと思う。
公爵夫人だからでも、マロルト家の娘だからでもなく、自分が積み上げてきたものを見てくれる。最初からそうだった。そのたびに嬉しくなり、その嬉しさを恋だと認めてからは、同じ言葉が以前より深く残るようになった。
明日で妻ではなくなっても、その評価まで消えるわけではない。
それなのに、どうしてこれほど寂しいのだろう。
「このひと月、ありがとうございました」
エレナは、少し迷ってから言った。
「まだ終わっていない」
「あと一晩ですから、ほとんど終わったようなものでしょう」
「君がそういう言い方をするとは思わなかったな。契約は最後まで有効、そういうのだと思ったが」
「……そうでした」
指摘されるとそのとおりである。契約を仕事にしている人間が、期限前に終わった扱いをしてはいけない。
エレナは少し困って笑った。
「では、訂正します。このひと月、ありがとうございました。明日の解除まで、あと少しよろしくお願いいたします」
「こちらこそ」
アレクシスは一度言葉を切った。
「君がいてくれて助かった」
呪いのことを言っているのだろう。実際、このひと月のあいだにも何度か症状は出たが、エレナがそばにいれば短い時間で落ち着いた。ここ数日は負荷そのものが弱くなり、昨夜は呼ばれることもなかった。
それだけの意味だと分かっているのに、胸が勝手に反応した。
「私も……」
言いかけて止まる。
私も助かりました、では何か違う。楽しかったです、と言えば正しい気がする。ただ、それを口にすると、終わることを惜しんでいるところまで伝わりそうだった。
アレクシスは急かさず、続きを待っている。
「私も、アレクシス様と結婚できてよかったと思っています」
結局、出てきたのはそんな言葉だった。
間違ってはいない。彼と過ごしたひと月を後悔していない。それどころか、最初に想像していた形式婚よりずっと穏やかで、ずっと楽しかった。
ただし、別れが惜しくなるほどとは言わなかった。
アレクシスの表情が、一瞬だけ動いた。けれど何を思ったのか分かる前に、いつもの静かな顔へ戻る。
「……そうか」
その返事だけで、食事は終わった。
食堂を出たあと、エレナは借りていた地誌を取りに一度自室へ戻った。
明日にすればいいとも思ったが、返せるものは今日のうちに返しておきたかった。明日は契約解除の手続きがある。終わればそのままマロルト家へ戻る予定で、今のように何気なくアレクシスの部屋を訪ねることもなくなる。
廊下へ出ると、ちょうど向かいの扉が開いた。
「どうした」
「これをお返ししようと思って」
手にしていた本を見せると、アレクシスは受け取る前に表紙へ目を落とした。
「まだ読んでいるのかと思っていた」
「読み終わりました。北方へ行ったときに見た街道のことも、前より分かった気がします」
「なら、持っていていい」
「でも、アレクシス様の本でしょう?」
「急いで必要なものではない。興味があるなら君が持っていたほうがいい」
エレナは本を見下ろした。
先ほどまで、返すのが惜しいと思っていた。それなのに、いざ持っていていいと言われると、素直に喜べない。離婚後も手元に残るものを一つ渡されたようで、それが嬉しいのか寂しいのか、自分でも判断がつかなかった。
「では、お借りしたままにします。いつか返してくださいと言われるかもしれませんし」
「言わないと思うが」
「分かりませんよ。必要になるかもしれません」
「そのときは、君のところへ取りに行く」
ごく普通の言葉だった。
けれど、離婚後にも彼が自分を訪ねる未来を一瞬だけ想像してしまった。
エレナは本を抱え直す。何か答えなければと思ったのに、うまい言葉が出てこない。
廊下には二人しかいなかった。夜も遅く、使用人たちの気配は階下へ遠ざかっている。自室とアレクシスの部屋、その間のわずかな距離を、これまで何度も行き来した。彼の具合が悪い夜には急いで渡り、朝には何事もなかったように別々の扉から出て食堂へ向かった。
それも今夜が最後になる。
「明日は」
アレクシスが言いかけ、止まった。
「はい?」
「……いや。何でもない」
珍しい、とエレナは思った。彼が口に出しかけた言葉を引っ込めることはあまりない。
何を言おうとしたのだろう。
尋ねてもよかった。明日の手順についてなら、今からでも確認できる。離婚後のことなら、聞いておくべき話かもしれない。
けれど、そのどちらでもない気がした。
「アレクシス様」
今度はエレナが呼んだ。
彼がこちらを見る。
言いたいことはあった。好きですと、一言伝えるだけなら難しくない。明日には夫婦ではなくなるのだから、むしろ今夜を逃せば、このひと月のあいだ妻だった自分として伝える機会はもうない。
けれど、告げてどうするのかという問いに答えられなかった。
アレクシスは役目が終われば自分を自由にすると決めている。そのために仕事も財産も将来の再婚まで整えてくれた。そんな彼に、別れる前夜になって気持ちを差し出すことが、本当に正しいのだろうか。
好きだと伝えれば、何かを返さなければならないと思わせるかもしれない。
何より、もし困った顔をされたら、明日までの一晩があまりにつらい。
「何だ?」
アレクシスが少し近づいた。
エレナは顔を上げる。いつもより近いところに、灰色の瞳があった。
声を落とせば届く距離だった。それなのに言葉が出ない。
アレクシスも何も言わなかった。ただ、彼の視線が一度だけエレナの目元から下へ動き、すぐに戻る。その意味を考えるより先に、胸が大きく鳴った。
互いに立っているだけなのに、距離がさきほどより狭くなっている。どちらが近づいたのか分からない。エレナは息をすることさえ意識した。あと少し顔を上げれば触れてしまいそうだった。
その瞬間、明日の日付が頭に浮かんだ。エレナは一歩、後ろへ下がった。
「……明日には終わる結婚ですもの」
口にしてから、自分でもひどく不自然な言葉だと思った。
アレクシスの表情が止まる。
ほんの一瞬だった。彼はエレナとの間に戻った距離を見たあと、追うことも、手を伸ばすこともしなかった。
「ああ」
低い声が返ってくる。
「そうだな」
それだけだった。正しい返事だった。明日には終わるのだから、今これ以上近づく必要はない。
エレナが自分で引いた線を、アレクシスは越えなかった。
彼らしいと思う。こちらが退けば、必ずその選択を尊重する。それを知っているから好きになったのに、今だけは、追ってこないことが少し悲しかった。
「おやすみなさい、アレクシス様」
「おやすみ、エレナ」
エレナは本を抱えたまま自室へ戻った。
扉を閉めると、廊下にいたときより静けさが濃くなった気がした。侍女たちはすでに下がっており、寝台の脇には明日の衣服が整えられている。旅行箱は閉じられ、持って帰る荷物として壁際へ寄せられていた。
借りたままになった地誌だけが、行き場を失ったように腕の中へ残っている。エレナはそれを小卓へ置き、鏡台の前に座った。左手には、青い石の指輪がある。
あと一日。
明日、婚姻契約を解除すれば、この指輪を妻として身につける理由もなくなる。朝食を一緒に取り、仕事の帰りを気にし、具合が悪い夜に向かいの部屋へ行く理由もなくなる。
それが予定どおりである。母も祖母もそうしてきた。自分も同じように、正しく契約を終わらせる。そのために結婚したのだから、何も迷うことはない。
エレナは指輪へ触れた。
目には見えなくても、自分とアレクシスのあいだには婚姻契約が確かにある。その先には、式の日に感じた巨大で複雑な何かもつながっている。けれど明日、自分が扱うのはあくまで二人の婚姻契約だ。手順どおりに術式を組み、結びつきを解き、双方が自由になったことを確認する。
何度も頭の中で確認した作業だった。失敗する理由はない。そう考えたところで、胸の奥から、仕事とは何の関係もない思いが一つだけ浮かんだ。
切れなければいいのに。
エレナは、自分の考えに息を止めた。何を考えているのだろう。
契約が解除できないということは、アレクシスをグレドフ家の事情に結びつけたままにするということだ。自分自身も、マロルト家の役目を果たせないことになる。正しく終えられる契約を、個人的な感情で終わらせたくないと思うなど、これまでの自分なら考えもしなかった。
まして、アレクシスは自分を自由にするために、あれほど準備してくれた。その意思を無視してまで妻でいたいなどと思ってはいけない。
「……明日、終わらせるのよ」
誰もいない部屋で、小さく決意のように口にする。
それが正しい。正しく終わらせる。ずっとそうしてきたし、これからもそうする。
エレナは指輪から手を離し、立ち上がった。
けれどベッドへ入って目を閉じたあとも、廊下で一歩退いたときのアレクシスの顔と、自分の中に浮かんだたった一つの願いだけは、なかなか消えてくれなかった。




