未識別契約書と偽印章
窓口の次は契約書です。
薄い書類なら安全、という発想はだいたい死亡フラグ。
神様の偽印章が、魔王軍の書式に混ざります。
六階に降りると、迷宮の空気が少し変わった。
受付ロビーのような開けた空間は消え、両側を高い書類棚に挟まれた通路が続いている。棚には黒い背表紙の魔王軍書式が整然と並び、その隙間へ白い書類がところどころ差し込まれていた。黒い紙はインクと革の匂いを放つ。白い紙は匂いがない。匂いがないことが、かえって気持ち悪かった。
床には、巻物のように丸められた書類が落ちている。ローグライク的にはアイテム。行政的には責任。コヨリ的には、拾いたくないものだった。
「ログル、剣で切っていい?」
「書類は切っても責任が残ります」
「書類の方がモンスターより怖い!」
「はい。特に同意書は危険です」
ログルが宝石の光で床の書類を照らす。文字が少しだけ浮かび上がった。
【相談申請書】
【魔王軍通行証】
【強制魔王戦承諾書】
【死亡ログ全送信同意書】
【神様監査受諾書】
【胃薬購入申請書】
最後の一枚だけ、魔王ゼルドの苦労がにじんでいる。
「胃薬購入申請書は安全そう」
「魔王様用の可能性が高いです」
「持って帰ったら喜ばれるかな」
「会計前持ち出し判定があるかもしれません」
「胃薬ですら油断できない!」
通路の奥には、丸い印章台が置かれていた。赤、黒、白の三つの印が並び、ベル幻影の声だけが天井から降ってくる。
「勇者様、契約書へ印を押す前に、必ず内容、印章、署名欄をご確認ください」
「ベルさん、今回も親切」
「なお、神様側の偽印章が混入しております」
「親切な説明の直後に地獄を足さないで!」
コヨリは床の書類を見比べた。厚い書類は読むだけで死にそうだ。薄い書類なら、まだ安全そうに見える。そう考えた瞬間、ログルが肩の上で小さく咳払いをした。
「勇者様」
「まだ取ってない」
「顔に『薄い方が安全そう』と出ています」
「顔を読むな!」
「死亡ログの前兆です」
「言い方が怖い!」
しかし、薄い書類は本当に薄かった。たった一枚。字も少ない。コヨリは慎重に拾い、目を細める。
【魔王戦......承......】
「読めないところがある」
「危険です」
「でも、承って字があるから、相談を承りました的なやつかも」
「希望的観測です」
「さっきも言われた!」
印を押した。
書類が白く燃え上がる。
【強制魔王戦承諾書】
景色が反転した。通路は一瞬で玉座の間へ変わり、コヨリの前に魔王ゼルドの幻影が現れる。黒いマント、角のような冠、厳しい目つき。威厳はある。だが、片手には胃薬の小瓶を握っていた。
「勇者よ、余も今呼ばれた」
「魔王さんも被害者なの!?」
「うむ。余は承諾しておらぬ」
「じゃあこの書類、誰が承諾したの!?」
天井から白い光が降りる。
【強制魔王戦開始】
「神様ァ! 会話を聞けええええ!」
低レベルのコヨリは、玉座の間へ放り込まれた瞬間、開幕演出の魔力波で吹き飛んだ。
【死亡】
【今回の死亡ログ】
累計死亡回数:89回
魔王軍苦情書類迷宮内死亡回数:3回
死因:【薄い書類に印を押したら強制魔王戦だった】
評価:【契約書は厚さではなく中身を見ましょう】
新規獲得候補:【薄い書類ほど読む Lv.1】
拠点帰還後、コヨリは死因研究室の机に突っ伏した。
「薄い書類、怖い」
「はい」
「分厚い書類も怖い」
「はい」
「もう紙が怖い」
「死因学者としては困ります」
「職業が紙を要求してくる!」
再挑戦。
今度は、印章そのものを確認することにした。赤い印、黒い印、白い印。赤は魔王軍の通常印。黒は秘書課印。白は、明らかに神様側の光をまとっている。
「怪しい」
「とても怪しいです」
「触ったら?」
「たぶん起動します」
「じゃあ触らない」
そう言いながら、コヨリは白い印章に顔を近づけた。見える。小さな文字が彫ってある。もう少し近づけば読めそうだ。あと少し。あと......。
「勇者様、鼻も接触判定に入る可能性があります」
「鼻!?」
遅かった。
白い印章が光り、コヨリの鼻先に管理光が触れる。
【神様監査起動】
【死亡ログ全送信準備】
「鼻で同意したことにしないでええええ!」
管理光が広がり、ログルの宝石を弾いた。コヨリは思わずログルを抱え込もうとする。次の瞬間、白い光が視界を塗りつぶした。
【死亡】
【今回の死亡ログ】
累計死亡回数:90回
魔王軍苦情書類迷宮内死亡回数:4回
死因:【偽印章を鼻先で触って神様監査を起動した】
評価:【怪しい印章は押す前も触る前も危険です】
新規獲得候補:【印章は道具で確認 Lv.1】
三度目の通路で、コヨリは印章台から三マス離れて座り込んだ。
「ログル、もう鼻も信用できない」
「勇者様の鼻に罪はありません」
「でも鼻で死んだ」
「接触判定が悪質でした」
「神様の接触判定、幼女の鼻に厳しすぎる!」
その時、黒い通信石が震えた。ベル本体の声が、幻影よりも少し低く、はっきり届く。
「勇者様、印章は素手、顔、鼻、髪、マントの端で触れないでください」
「注意項目が増えた!」
「魔王軍備品の封印ばさみをお使いください」
「それ最初から欲しかった!」
「申請が必要です」
「その申請書は!?」
「七階にございます」
「申請書を取るための申請書ダンジョンやめてええええええ!」
七階の小部屋には、細い銀色のばさみが置かれていた。持ち手には魔王軍秘書課の印。刃の先は紙を切るためではなく、印章に触れずに引っかけるために丸く曲がっている。
コヨリは封印ばさみを両手で持つ。軽いのに、妙に頼もしい。
「ログル、確認」
「足元、通常床。書類棚、二ターン後に接近。白印章、正面三マス。封印ばさみ使用で接触判定を回避できる可能性が高いです」
「鼻は?」
「離してください」
「はい」
白い印章を、そっと持ち上げる。ばさみの先が震えたが、管理光は起動しない。印章の下から、細い文字列が浮かび上がった。
【勇者名:コヨリ】
【本名欄:未照合】
コヨリは声を出さなかった。
魔王戦の書類でも、死亡ログの監査でもない。そこには、帰還門で足りなかったものの一つが、冷たく残っていた。
「ログル」
「はい」
「本名欄って、わたしの名前?」
「おそらく、元の世界の登録名です」
「......天野こより」
言葉にした瞬間、通路の奥で、どこか遠い玄関の匂いがした気がした。
すぐに消えた。けれど、コヨリはその消え方を覚えておくことにした。
【今回の死亡ログ】
累計死亡回数:90回
魔王軍苦情書類迷宮内死亡回数:4回
主な死因1:【薄い書類に印を押したら強制魔王戦だった】
主な死因2:【偽印章を鼻先で触って神様監査を起動した】
評価:【契約書は厚さではなく中身、印章は鼻先でも危険です】
【今回の勇者ステータス】
現在地:魔王軍苦情書類迷宮 10F到達
累計死亡回数:90回
魔王軍苦情書類迷宮内死亡回数:4回
次回開始:Lv1/HP15
現在クラス:【死因学者】
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
獲得済み主要スキル:【札も識別 Lv.1】【順番待ち確認 Lv.1】【死因ログ参照 Lv.2】【死亡ログ改ざん Lv.1】【神様報告遅延 Lv.1】【未識別警戒 Lv.4】【総合盤面確認 Lv.1】
今回の新規獲得・更新:【薄い書類ほど読む Lv.1】【印章は道具で確認 Lv.1】
関連内部スキル:【読む前に深呼吸 Lv.1】【ログ保存先確認 Lv.1】【監査書類を飛ばすな Lv.1】は未取得、または後続取得予定。
重要発見:【本名欄:未照合】
備考:契約書、同意書、印章は未識別アイテムとして扱う。薄い書類ほど軽い気持ちで殺しに来ます。
【登場人物紹介】
魔王ゼルド幻影:強制魔王戦に呼ばれた魔王。本人も承諾していない。
ベル:封印ばさみを教えてくれる有能秘書。ただし申請書は七階。
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