98F、帰還鍵――使えば帰れる、使えば消える
帰れるかもしれない場所まで来ました。
でも一人なら意味がありません。
帰還鍵を使わない回です。
九十七階は、何もなかった。
敵も罠も宝箱もない。ただ、階段だけが遠くに見える。静かすぎる。コヨリはそれだけで信用しなかった。
「ログル、嫌な数字は?」
「出ています」
「やっぱり」
「敵はいません」
「じゃあ何が敵?」
「帰りたい気持ちです」
胸元の帰還鍵が、淡く光った。第九十八階に近づくほど、その光は強くなる。階段を降りた先には、古い玄関の匂いがした。靴箱。夕方。味噌汁の湯気。現実の家にしかない、少し湿った空気。
【帰還鍵:起動可能】
【単独帰還:可能】
【ログル同行:未承認】
【拠点接続:未固定】
コヨリは足を止めた。
帰れる。今なら帰れる。たぶん、本当に。けれど、ログルの宝石には、未承認の文字が浮かんだまま。
「勇者様」
「言わないで」
「使ってください」
「言わないでって言った」
ログルは、いつもより小さく見えた。
「ぼくは、ここまでで十分です」
「十分じゃない」
「コヨリ様が帰れるなら」
「ログルまで神様みたいなこと言わないで」
その言葉に、ログルの耳が伏せた。コヨリはすぐに後悔した。でも、取り消さない。取り消すかわりに、しゃがんでログルと目を合わせる。
「わたし、帰りたい」
「はい」
「ずっと帰りたかった」
「はい」
「でも、一人で帰るために、千百回死んだんじゃない」
鍵の光が揺れる。九十八階の奥には、白い扉がある。たぶん、ここで鍵を使えば、99Fを飛ばせる。ラスボスも、アドミニスも、公開反省会も、全部飛ばして帰れる。
それは近道だ。だから罠だ。
「ログル」
「はい」
「帰るよ」
「......はい」
「一緒に」
コヨリは帰還鍵を握り、使わずに胸へ戻した。
【帰還実行:保留】
【ログル同行本承認:未達】
【第99階層へ進みます】
扉の横に、宝箱があった。帰還鍵の光よりも、少し弱く光っている。
「開けない」
「中身は」
「見ない」
「帰還補助品かもしれません」
「かもしれないで開けて、何回死んだと思ってるの」
「かなり」
宝箱は、呼吸していなかった。だから余計に怖い。コヨリは目をそらし、99Fへの階段へ足をかけた。
「神様のところまで行く」
「はい」
「殴ってから帰る」
「はい。順番は大事です」
九十九階への階段は、九十八階の一番奥にあった。階段の横には、さっきの宝箱がまだ見える。呼吸していない。動かない。たぶん、本当に中身がある。
「ログル」
「はい」
「中身、何だと思う?」
「推測ならできます」
「聞かない」
「はい」
「聞いたら開けたくなる」
「かなり正しい自己分析です」
帰還鍵はまだ温かい。単独帰還の文字は消えていない。コヨリはそれを胸の上から押さえた。
「帰れるって、怖いね」
「はい」
「帰れない時は、帰りたいだけだったのに」
「帰れるようになると、何を置いていくかが見えます」
「だから、一緒に帰る」
「はい」
階段を降りる直前、宝箱が一度だけ光った。コヨリは見なかった。見なかったことを、ちゃんと覚えておく。欲に勝ったことも、死因ログではなく成功ログになる。
【成功ログ:階段前の宝箱を見ない】
「今のログ、好き」
「ぼくもです」
九十八階の終わりで、ログルの宝石に一瞬だけ、元の世界の住所らしき文字列が浮かんだ。町名、番地、玄関の座標。懐かしいはずの情報が、ダンジョンの座標みたいに見えて、コヨリは少し嫌な顔をした。
「家までマス目で表示しないで」
「帰還座標ですので」
「わたしの家はダンジョンじゃない」
「帰還後、確認します」
「確認しなくていい!」
それでも、その座標があるから帰れる。嫌でも、数字が道になることはある。コヨリは胸の中で、住所ではなく玄関の匂いを思い出した。靴箱。夕方。家の床。
「帰る場所って、数字じゃないね」
「はい」
「でも、数字もいる」
「はい」
「めんどくさい」
「帰還は、かなりめんどくさいです」
めんどくさい。だからこそ、神様に丸投げしない。コヨリは帰還鍵をしまい、99Fへの階段を見た。
99Fへの階段は、普通の階段より一段だけ高かった。幼女の足には少しだけきつい。コヨリは手すりを探したが、ない。最後まで不親切だ。
「神様、手すりくらいつけて」
「管理画面領域なので、身体サイズ配慮がありません」
「幼女に配慮して!」
文句を言いながら、コヨリは一段目へ足をかける。帰還鍵は使わなかった。宝箱も開けなかった。強そうな近道を全部置いて、いちばん面倒な階段を選んだ。
「ログル」
「はい」
「面倒なほうで合ってる?」
「今回は」
「今回は?」
「はい。今回は、面倒なほうが正解です」
コヨリはうなずき、九十九階へ進んだ。
高い段差を越える時、ログルが先に跳んだ。着地点を宝石で照らし、罠がないことを確認してから、コヨリを見上げる。
「大丈夫です」
「ありがと」
「今回は、ぼくが先に見ます」
「うん。でも置いていかないでね」
「もちろんです」
【今回の勇者ステータス】
現在シード:帰還最終シード
死亡回数:1100回
クラス:帰還者/勇者
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
獲得済み主要スキル:【帰還門感知 Lv.3】【帰宅線形成 Lv.3】【帰宅猶予線形成 Lv.2】【相棒再分類拒否 Lv.2】【帰還接続管理 Lv.2】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【ログルと帰る Lv.1】仮発現/更新:【帰還実行保留】最終維持
【登場人物紹介】
コヨリ:帰れる誘惑を蹴って、ログルと帰る道を選ぶ。/ログル:自分を置いて帰らせようとして拒まれる。/帰還鍵:一人なら帰れる最大の誘惑。
【ローグライクあるある解説】
階段前・帰還前の誘惑回。今すぐ帰れる、今すぐ開けられる、という近道ほど危険。目的を間違えないことが最終盤の攻略になる。
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