三倍速黒影――逃げたら三回殴られます
三倍速の上位種が出ます。
逃げると死にます。
止める、遅らせる、投げる前に確認する。
九十四階の床は、黒かった。
光を吸うような黒ではない。影そのものが床になったみたいな黒だ。そこを、三倍速黒影の上位種が滑ってくる。足音は一つなのに、影は三つに分かれて見えた。
「逃げたら?」
「三回殴られます」
「逃げない」
「はい」
「止める」
「はい」
コヨリは保存壺を開けた。中には未識別の草が一つ。候補は鈍足草、毒草、爆裂草。自分で飲む選択肢はない。投げる。だが、投げる前に確認することがある。
「腕輪」
「遠投なし」
「投げるもの」
「未識別の草」
「後ろ」
「壁」
「敵の後ろ」
「壁」
「外したら?」
「三回殴られます」
「外さない!」
一手。
草が黒影の胸に当たった。緑の光がはじけ、三つにぶれていた影が、一つに戻る。
【未識別の草:鈍足草】
【対象:三倍速黒影】
【状態:鈍足】
「当たり!」
「かなり当たりです」
「今の未識別、味方だった!」
「投げたからです」
「飲んでたら?」
「勇者様が鈍足になっていました」
「やっぱり敵!」
九十五階では、黒影が二体になった。一体は鈍足化できる。もう一体は残る。眠りの杖はない。場所替えの杖は一回。階段は遠い。
コヨリは、敵を止めるのではなく、敵同士をぶつけることを考えた。
「場所替え」
「相手は」
「奥の黒影」
「入れ替え後、手前の黒影が?」
「奥の黒影にぶつかる」
「勇者様の位置は」
「壁ぎわ、安全マス」
「罠」
「なし」
一手。
場所替えの光が走る。コヨリの体がふわりと引っぱられ、奥の黒影と位置が入れ替わった。手前の黒影は三回動こうとして、奥の黒影にぶつかり、互いの影を食い合うように止まる。
【速度差誘導:成功】
九十六階の最後、黒影上位種が階段を守っていた。今度は草も杖もない。手持ちは小石袋改、身代わりぬいぐるみ、空の保存壺。
「身代わり置く」
「黒影は一回目で破壊、二回目で接近、三回目で攻撃します」
「壺」
「空です」
「投げる」
「壺を?」
「うん。壊す」
一手。
空の保存壺を黒影の足元へ投げる。壺が割れ、破片が散る。黒影の一回目の移動が破片で止まり、二回目でぬいぐるみへ向かい、三回目でぬいぐるみを切った。その隙に、コヨリは階段へ。
【三倍速停止確認:更新】
【速度差対応:成立】
「空の壺、役に立った!」
「保存できたのは命です」
「ログル、今のうまい」
九十六階を抜けたあと、空の保存壺の破片が一つ、コヨリの靴に挟まっていた。拾う価値はない。けれど、さっき命を救った破片だ。
「壺って、保存するものだと思ってた」
「今回は、敵の行動を保存せず消費させました」
「ログル、言い方がちょっとかっこいい」
「ありがとうございます」
三倍速黒影の気配はもうない。だが、コヨリはすぐに走らなかった。速い敵を越えたあとほど、自分の心が速くなる。焦って進めば、今度は普通の罠で死ぬ。
「一回、止まる」
「はい」
「満腹度」
「残り二十一」
「HP」
「十五。無傷です」
「無傷って、深層では逆に怖いね」
「慢心しやすい数字です」
「慢心しない」
コヨリは壺の破片を靴から外し、床に置いた。記念品にしない。持ち物欄も心の欄も、もう十分重い。
速度差対応の感覚は、足より頭に残った。速い敵には、速く逃げない。これは、言葉にすると簡単なのに、体はどうしても逃げたがる。
「ログル、わたし、さっき逃げたかった」
「はい」
「でも止めた」
「はい」
「えらい?」
「とても」
短い返事なのに、コヨリは少し胸を張った。深層では、派手な勝利より、逃げたい足を止めるほうが難しい。
階段の前に、黒影の残した小さな黒い玉が落ちている。使えば三倍速になれるかもしれない。そんな雰囲気がある。もちろん、絶対に事故る。
「拾わない」
「理由は」
「速くなりすぎると、わたしがわたしを追い越す」
「詩的ですが、たぶん正しいです」
速さは力。でも、制御できない力は罠。コヨリは黒い玉を置いて、ゆっくり階段を降りた。
黒い玉を置いていく時、コヨリは少しだけ未練があった。三倍速になれたら、どれほど楽だろう。階段まで一瞬。敵から逃げ放題。そんな都合のいい想像が、頭の端をよぎる。
「ログル、もしわたしが三倍速になったら」
「罠を三倍速で踏みます」
「終了」
「敵にも三倍速で近づきます」
「終了!」
速さは、制御できる人のものだ。今のコヨリに必要なのは、自分だけ速くなることではなく、敵の速さを盤面に閉じ込めること。
【速度差対応:安定】
表示を見て、コヨリは黒い玉から目をそらした。欲しい力を全部取らない。それも深層の持ち物判断だった。
階段の上で、コヨリは黒影がいた方向へ小石を一つ置いた。罠ではない。ただの目印だ。
「次に同じのが出たら、思い出す用」
「死因ログではなく、成功ログの目印ですね」
「うん。死ななかった敵も覚える」
【今回の勇者ステータス】
現在シード:帰還最終シード
死亡回数:1100回
クラス:帰還者/勇者
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
獲得済み主要スキル:【三倍速警戒 Lv.1】【三倍速停止確認 Lv.1】【投擲前確認 Lv.2】【深層逃走判断 Lv.2】【間合い管理 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【速度差対応 Lv.1】/更新:【三倍速停止確認 Lv.1】深度上昇
【登場人物紹介】
コヨリ:逃げるのではなく、速度差を利用する。/ログル:投擲前確認を徹底。/三倍速黒影上位種:一手で三回動く深層の理不尽敵。
【ローグライクあるある解説】
三倍速敵は移動で逃げると詰む。鈍足、場所替え、障害物、空の壺すら使って行動回数を浪費させるのが打開になる。
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