時空猟犬――壁を無視して倍速で来る
九十階から深層。理不尽が開き直る。
時空猟犬は、地形を無視して倍速で突っ込んでくる。
壁を味方に戻すには、封印と鈍足を惜しんではいけない。
九十階に入った瞬間、空気が変わった。
これまでの階にも理不尽はあった。けれど、九十階から先は、床も壁も敵も、遠慮をやめたように見える。
【深層】
【90F以降】
【理不尽処理:強化】
「ログル。なんか、表示が開き直ってる」
「はい。深層です」
「深層って言えば何してもいいと思うなよ!」
部屋には敵がいない。通路は一本。階段は遠いが見える。コヨリは、通路に入れば視界を切れると考えた。
その考えを、壁の向こうから足音が否定した。
灰色の犬が、壁をすり抜けてきた。体の輪郭が針のようにぶれ、目は秒針の先みたいに細い。
【警告】
【時空猟犬】
【行動速度:倍速】
【地形無視】
「壁を抜けるなああああああああああああああ!」
「壁、水路、穴、机、時間壁を無視します」
「地形の意味いいいいいいいい!」
コヨリは通路に逃げ込んだ。猟犬は壁を抜けて、斜めから来た。コヨリが一歩進む間に、二歩詰める。角待ちが効かない。視界切りも遅い。
【死亡ログ】
【死亡回数:1073回目】
【死因:通路に逃げたが、時空猟犬が壁を無視して倍速で来た】
【評価:地形は味方ではありませんでした】
拠点で起きたコヨリは、壁を叩いた。
「壁! もっと仕事して!」
「深層の地形無視敵です」
「壁が信用できない世界、精神に悪い!」
再挑戦。コヨリは封印杖を構えた。射線が通れば必中。問題は、壁を抜ける相手に射線をどう取るか。
「ログル、見えないと振れない」
「はい。相手が壁から出る瞬間を待つ必要があります」
「待つ間に来る!」
「そのため、身代わりを先に置いてください」
コヨリは身代わりぬいぐるみを置いた。かわいい。置いた瞬間、罪悪感がある。
「ごめんね、ぬい」
「戦術です」
「心が戦術に追いつかない!」
猟犬が壁から飛び出し、ぬいぐるみに噛みついた。その一瞬、射線が通る。
「今!」
封印杖を振る。
【封印成功】
【時空猟犬:地形無視封印】
猟犬は壁を抜けられなくなった。だが倍速は残る。コヨリは鈍足杖を振るか迷った。温存。温存したい。次の階が怖い。
その迷いで一手。猟犬が二歩。隣接。
「使えばよかった!」
【死亡ログ】
【死亡回数:1074回目】
【死因:時空猟犬の地形無視は封印したが、鈍足杖を温存して噛まれた】
【評価:能力を一つ止めても、倍速は残ります】
三度目。コヨリは封印杖を振り、続けて鈍足杖を振った。杖を使うたび、心のどこかがもったいないと叫ぶ。でも、死亡時に温存アイテムは使えない。
猟犬が通常速度になった。壁も抜けない。ようやく地形が味方に戻る。
「壁、おかえり!」
「壁は最初からありました」
「役に立つ壁、おかえり!」
コヨリは通路を使い、魔法の小矢で削り、距離を保って倒した。階段へ着く頃には、杖の残り回数が減っている。けれど、生きている。
時空猟犬を倒したあと、コヨリは壁に手を当てた。さっきまで役に立たなかった壁だ。封印後は、ちゃんと硬い。爪も通さない。
「壁、信じ直していい?」
「敵の能力次第です」
「条件付き信頼!」
深層の通路には、壁の向こうに敵の影だけが見える場所があった。普通なら見えない。けれど、時間のズレで影が先に漏れている。
「ログル、あれ、猟犬?」
「おそらく。地形無視状態なら、壁の向こうから最短で来ます」
「じゃあ、封印杖を当てるために、出てくる瞬間を待つ」
「はい」
待つのは怖い。待っている間に来られたら終わりだ。でも、早く振れば壁に遮られる。遅ければ噛まれる。
コヨリは息を止めた。影が壁から鼻先を出す。その一瞬。
「今!」
杖を振る。成功。コヨリは小さく笑った。
「時間停止も、壁抜けも、結局タイミングなんだね」
「はい。かなり嫌なタイミングです」
「言い方が正直!」
九十階の出口には、壁抜け対策の小さな落書きが残っていた。誰が書いたのかは分からない。
【壁は敵を止めるものではなく、敵を見る角度を作るもの】
「かっこいいけど、壁への信頼が低い」
「深層経験者の言葉かもしれません」
「経験者、生きて帰れたのかな」
「不明です」
「不安になる情報を最後に置かないで!」
コヨリは、その落書きを自分の地図に写した。壁は盾ではなく、射線を作る道具。時空猟犬が出たことで、通路の意味が変わった。角待ちだけではだめ。壁から出る瞬間を狙う。封印してから地形を取り戻す。
「地形を取り戻すって、なんか大げさ」
「実際、地形無視を封じると盤面が戻ります」
「盤面、返してもらうものなんだね」
封印された時空猟犬は、倒れたあとに小さな針を落とした。拾うと、壁の向こうの気配が一瞬だけ読める。
「これ、便利?」
「便利です。ただし使うと、猟犬系にこちらの位置も伝わる可能性があります」
「また便利と死因が隣!」
コヨリは針を保存壺の一番上に入れた。奥へしまわない。必要なら使う。でも、何でもかんでも使うわけではない。
「深層って、道具を持ってるだけで性格試される」
「はい」
【新規獲得:地形無視警戒 Lv.1】
時空猟犬の怖さは、姿より先に音が来ることだった。壁の向こうで爪が鳴る。床ではない。壁の中で鳴る。常識が少しずつ削れていく音だ。
「壁の中を走るな」
「地形無視特性です」
「地形に敬意を払って!」
初見では、コヨリは通路に逃げた。いつもの癖だ。部屋で囲まれるより、通路で一対一。角で視界を切る。そうすれば遠隔も特殊能力も減る。何度も死んで覚えた基本だ。
だが、時空猟犬は壁を抜けた。
【死因:通路に逃げたが、時空猟犬が壁を無視して倍速で来た】
【評価:地形は、今回だけ味方ではありません】
「壁いいいいいいいいいい! 仕事してええええええええええ!」
「壁は存在しています。敵が無視しています」
「一番つらい返答!」
二度目、コヨリは封印杖を構えた。振れば必中。ただし、射線が通った瞬間に相手もこちらを見る。壁から鼻先が出る一瞬を待つ必要がある。
「今?」
「まだです」
「今?」
「まだ」
「今!?」
「今です」
杖の光が、壁から現れた鼻先へ吸い込まれた。時空猟犬の足が止まり、壁の中へ戻れなくなる。初めて、壁が壁として機能した。
「壁、おかえり!」
「壁に帰宅挨拶する勇者様」
「だって戻ってきたんだもん!」
ただし、封印しても倍速は残る。壁を無視しないだけで、足は速い。コヨリはすぐ鈍足杖を振るか迷った。温存したい。だが、温存して噛まれた死因はもう見えている。
「使う」
「はい」
「深層でケチらない!」
鈍足杖を振る。猟犬の動きが半分に落ちる。そこでようやく、コヨリは階段へ走った。倒さない。経験値は捨てる。命を持っていく。
「倒さない勝利、何回目?」
「かなり増えました」
「勇者というより逃走専門職!」
猟犬が眠っている間も、壁の中の爪音が耳に残る。コヨリは壁へ手をつき、今度はちゃんと壁として働いてね、と小声で頼んだ。
【新規獲得:深層逃走判断 Lv.1】
【今回の勇者ステータス】
現在シード:帰還時間シード
現在階層:90F突破
クラス:帰還者見習い
総死亡回数:1075回
深層状態:突入
到達時レベル目安:Lv18
最大HP目安:168
基本スキル:【基本ローグライクスキル:一手一動】
【獲得済み主要スキル】
【一フレームの神様 Lv.3】
【死亡対象上書き Lv.1】
【千回死亡条件破壊 Lv.1】
【死亡ログ返還 Lv.1】
【神様案内警戒 Lv.2】
【帰還座標仮視認 Lv.2】
【記憶擬態識別 Lv.1】
【現実擬態フロア警戒 Lv.1】
【帰宅線形成 Lv.2】
【時間不一致警戒 Lv.1】
【今回の新規獲得・更新】
新規獲得:【地形無視警戒 Lv.1】
新規獲得:【深層逃走判断 Lv.1】
【登場人物紹介】
コヨリ
時空猟犬に壁抜け倍速で二回殺された。三度目で封印と鈍足を惜しまなかった。
ログル
身代わりで射線を作る手を提案した。
時空猟犬
90F以降に出る地形無視・倍速突撃の理不尽敵。
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